明治・大正・昭和の評論家・女性運動家、山田わか
空を見ますか? 私は毎朝30分散歩、外に出たらまず空を見ます。
冬の朝は薄暗く寒いけど星の瞬きが素敵、そして有明の月もなかなかです。
というようなノンキな筆者、作文は好きでも大過なくウン十年、自分史を書こうなどとは思わない。
ところで、世の中には想像もつかないほどの有為転変の人生を送る人がいます。たまたま開いた『あめゆきさんの歌』主人公・山田わかには驚かされました。
なんという一生!
明治の中ごろアメリカに渡りどん底につき落とされるが、二人の男性に出会い救われる。それのみならず、やがて苦境にある女性を励まし、力になった女性です。
『あめゆきさんの歌』著者の山崎朋子が、資料を探し求め人を訪ね歩き、喜んだりガッカリする様が他人事とは思えなかった。
というのは、作家の苦労とと比べものにならないが自分もまた『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』を書くため、北海道から九州熊本まで追いかけたことがある。
それで、著者が勢い込んで訪ねた先で話をきけずがっかりに同情、資料に行きついたときの喜びもよく分かった。
そうして著者に共感しているうち、唐突に柴五郎が思い浮かび、ふと思った。
あめゆきさん山田わか、軍人柴五郎。二人の生き様はあまりに違う。しかし、明治大正を生き抜いた所は変わらない。同時代人でも、人の生き様はみんな違う。
いつもながら前置きが長くなったが、波乱万丈の大正・昭和期に婦人問題評論家・山田わかをみてみよう。
山田 わか
1879明治12年12月1日、神奈川県三浦郡の大きな農家、浅葉弥平治の三女に生まれる。
1896明治29年、没落した実家を助けるためアメリカに渡米。
だまされてアメリカのシアトルの娼館に売られ7年間、アラビアお八重として暮らす。
1903明治36年、 苦界にあってなお失わぬ八重の純真にうたれた邦字新聞「新世界新聞」記者・立井信三郎の手引きで脱出に成功。サンフランシスコに逃れるが、立井は悲運にも命を落とす。
わかはサンフランシスコのキャメロン=ハウス(長老派教会設立になる女性救済施設)に逃げ込む。
その救援施設でキリスト教にふれ、山田英学塾に通う。塾長の山田嘉吉は神奈川県出身、社会学者として識見があったが、正規の大学卒業者でないため学問で身を立てる事ができず塾を開いていた。
1904明治37年、日露戦争。
わかは山田英学塾の塾長、山田嘉吉と結婚。日本へ帰ることにする。
―――(*市川房枝)嘉吉先生は・・・・・結婚して日本へ連れて帰ると、それこそ<いろは>から教えてあの人をあれだけのものにしたんだもの、たいしたもんですよ。からだを売ってたことのある人は、ついつい易きに就いてしまってなかなか円熟した女になれないものんなだが、その点おわかさんは偉い。しかし、わたしゃ、それよりももっと嘉吉先生が立派だったと思いますよ―― * 市川房枝さんのして呉れた話は、わたしには非常に新鮮でしかも感動的だった。日本のみならずおそらく世界中の男性の大半が、暗黒街にいる女性たちへの同情は惜しまぬであろうし、なにがしかの手助けをしようとする人は少なくはないだろうが・・・・・ 山田嘉吉という人物だけは、われとわが身を切り売る世界に身を置いていた女性を、みずからの生涯の伴侶とする<勇気>を持っていたのだ。・・・・・『あめゆきさんの歌』)。
市川房枝:大正・昭和期の婦人運動家。小学校教員をへて上京。婦人参政権獲得・婦人労働問題のために活躍。
1906明治39年、帰国。夫の導きで10年間猛勉強、学識を養い、『青鞜』などで母性主義の立場から評論活動するまでになる。
『青鞜』:「原始、女性は実に太陽であった」という平塚らいてうのよびかけで結成された。山田わかが社員に加わったころ、従来の文学的傾向を脱し、女性解放誌的傾向を強める。
外国語が堪能なわかの夫・山田嘉吉はスエーデンの女流思想家、エレン・ケイを翻訳。
その思想の神髄を女性解放運動にたずさわる女性たちに理解させ、皆から「山田先生」と呼ばれた。
1914大正3年、日本、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加する。
1919大正8年、『女、人、母』出版。
内容:家庭の危機・婦人問題解決の道程としての社会保険・恋と操の社会的影響・経済的独立が男女関係を解決するか・家庭が学校であれほか25項。
1920大正9年、個人雑誌「婦人と新社会」創刊。
婦人解放運動家として『恋愛の社会的意義』を出版、夫への献辞を記す。
『婦人の解放と性的教育』(東洋出版社)目次より―――第一章・婦人の解放とは / 第二章・性的教育/ 第三章・社会と婦人/ 第四章・家庭婦人と政治/ 第五章・婦人運動の発達とその傾向。(国会図書館デジタルコレクションで読める)。
母性保護論争:雑誌『太陽』『婦人公論』で、与謝野晶子は女性の経済的独立を、平塚れいてうは国家による母性保護を、山川菊榮は両者の必要を論じた。
―――わかの立論は、「家庭は夫、子供、および自己の魂の住家です。・・・・・ <生命の再生産>ならびに<労働力の再生産>の場としての<家庭>の重要性を説き、その家庭生活を円滑に運行して行く仕事は、<物質の再生産>よりもはるかに意義のあることだ。・・・・・わかの考えの基調は、女性は<母性>たることにその存在意義のすべてがある・・・・・(『あめゆきさんの歌』)。
1927昭和2年、金融恐慌につづいて昭和4年、世界恐慌。
日本の労働者・農民階級を生活のどん底へたたきこんだ恐慌の波は、母子家庭にはさらに激しく襲いかかる。
『昭和婦人読本-処女編・家庭篇』著し、その母性主義により、愛国婦人会の論客の一人となる。
1931昭和6年5月、『東京朝日新聞』は「女性相談」欄を設け、悩み迷う女性たちに助言することにし、山田わかが選ばれた。
―――彼女にたいする読者の支持は絶大だった。・・・・・わかのそれは、女性の心情をもっとも奥深いところでしっかりと把握してしまったのである。若き日に海のかなたで、およそ女性としての苦しみの限りを苦しみつくした彼女であったからこそ、大衆の心の奥底にふれた答えをだすことができたのであろうか。・・・・・そこで彼女は、女流評論家として世にあまねく知られる存在となったのだった・・・・・(『あめゆきさんの歌』)。
1932昭和7年、女性相談欄の問答を編んだ『女性相談』、『私の恋愛観』がある。
1934昭和9年7月21日、夫であり師でもあった山田嘉吉死去。
母性保護同盟委員長となる。
1937昭和12年、内務省社会局立案の「母子保護法案」を議会に上程、可決される。
この年、前半生を隠さずにシアトルをはじめ各地を講演行脚。
1938昭和13年、私有地を借り15室の母子寮と50人の幼児を入れる保育所建設に着手。
1939昭和14年4月、幡ヶ谷母子寮・幡ヶ谷保育園完成。
1941昭和16年、アメリカ真珠湾攻撃、太平洋戦争突入。
1947昭和22年、売春婦厚生施設幡ヶ谷女子学園を設立。
1957昭和32年、山田わか死去。享年78。
参考: 『あめゆきさんの歌』山崎朋子1978文藝春秋 / 『近代日本史の基礎知識』1988有斐閣ブックス / 『民間学事典』1997三省堂
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