今泉みね――蘭方医桂川家に生まれて――『名ごりの夢』
今年もあとわずか、大掃除をさぼってこれを書いている。
昔、子どもだったころの年末、わが家は臼と杵で餅つきをしていた。その日、家族はもとより知り合いもきて大賑わい、子どもは邪魔と言われても首を突っ込んで見ていた。
湯気のたつ搗きたてお餅は美味しかったが、それからウン十年、記憶はぼやけつつある。凡人は身近な出来事さえ忘れがちだが、世の中には非凡な記憶力の持主がいる。幕末、将軍の奥医師・桂川甫周邸で生まれた今泉みねがそうだ。
その著述『名ごりの夢』は貴重な資料にもなっている。
―――桂川甫周(国興)の女にして後、今泉家に嫁したる著者が、晩年に至り、その幼時に於ける、甫周をめぐる当時の洋学者達の憶ひ出の物語を筆録したもので、福澤諭吉・柳川春三・宇都宮三郎・成島柳北・神田孝平・箕作秋坪・石井謙道・その他幾多の先覚者の逸事奇聞は、近世文化の側面史として重要なる資料であると共に、それらの人人の俤を彷彿せしむるものがある。(『日本医学雑誌』1941-08<新刊紹介>)。
今泉みねとその時代
1826文政9年、桂川家第七代・桂川甫周(国興)生まれる。
1846弘化3年、甫周、20歳で幕府の医官となる。
1855安政2年3月、甫周二女・みね、江戸築地中通りの桂川邸で生まれる。
8月、生母死去。長女も幼くして死去。
1856安政3年、柳川春三より誕生祝いの詩画を贈られる。
―――(新聞雑誌の創始者)柳川春三さんは、とても面白い人で、この方がゐらっしゃると家中笑ひこけて、そのおもしろい事といつたら今も忘れません。・・・・・私が生まれました時も、それはそれは喜んで下さつて、直ぐさま二葉の小松の絵に、賛として、お歌と詩とを添へてお書き下されたといふものが茶がけの軸になつて・・・・・ うら若きふたはの小松今よりそ 千歳の色はさりけり・・・・・(『名ごりの夢』)。
―――世間には早熟の人も少なくないが、それも柳川春三ほどの人があるだろうか。・・・・・十歳で伊藤圭介翁の『洋字篇』を評論し、十二歳で西洋砲術の書を著し、洋砲の必要を説いた。・・・・・慶応年間、木版刷の新聞『中外新報』を発刊した。これがわが国新聞紙の嚆矢だ。春三は例の能筆で、自分で書いた原稿をそのまま版下にして刷らしていた。・・・・・(『偉人暦』)。
1858安政5年、甫周ら蘭和辞書『和蘭字彙』(ズーフハルマ)刊行。
和蘭字彙:オランダの出版業者フランソワ・ハルマの蘭仏辞書を底本に、長崎のオランダ商館長・ズーフの指導の下に長崎通詞十余人が協力して作成。和訳対照したまま未刊だったのを桂川甫周らが校訂、刊行。「長崎ハルマ」とも称された。
1859安政6年10月、福沢諭吉、桂川邸へ出入り。
―――福沢さんといえば大きいという覚えがございますほどで・・・・・私の生まれました桂川の邸は築地の中通りにあり・・・・・福沢さんはその中通りのうちへよくゆききなさいました。・・・・・始終ふところは本で一ぱい・・・・・本のことばかり心にかけて、桂川から洋書をかりていらっしゃいましたが、他の方がそれを写すのに一と月も二と月もかかるのを、あの方はたいてい四、五か六、七ぐらいで写してお返しになりました。・・・・・子どもにたいしてもきげんをとる風がなく、教えてゆくという気骨がおありになりましたので、こども心にも先生のような気がしていました・・・・・(『名ごりの夢』)。
1860万延元年3月、井伊大老、桜田門外で殺される。
5月、咸臨丸アメリカより帰朝。母方の叔父・木村摂津守艦長からおみやげ、更紗とワーフルもらう。
1864元治元年7月、桂川、閉門となる。
1867慶応3年、徳川慶喜大政奉還。
1868慶応4年/明治元年、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争始まる。
4月、江戸開城。桂川家は山川邸に移る。5月、倒幕軍、上野の彰義隊を討つ。徳川家、駿府府中70万石に。10月、江戸城を皇居とする。
1869明治2年、みね14歳。東京本所割下水森泰郎長屋に住む。
幕府の瓦解を経験し、幕府の世録を食む平穏無事な少女時代から一転、波乱の後半生を送ることになる。
―――御維新後の父はまるで人がかわったようになりました。家柄だの身分だのということはすっかりなくなってしまいました。・・・・・父は、甫周様だとか法眼様だとかいわれるのを、京都に対して畏れ多いといやがりました。・・・・・ほんの素町人でおわりたいと・・・・・まず困ったことには木綿のきものがございません。・・・・・縞のもめんのをわざわざ新調してきました。わかったんですね・・・・・京都に対して不忠不義栄耀栄華をしたのが、今となってはただ畏れ多い、京都のお住まいの御障子がどんなであったか、それまで気をとめていなかった・・・・・やっと徳川がすまなかったと気がついて、世がいやになるほどでございました。・・・・・成島柳北さんは父とは意見があっておりましたので、浅草で薬屋を開くことに・・・・・桂川の家伝の妙薬といわれた金竜丸や止血散などを売っていたことをおぼえています・・・・・(『名ごりの夢』)。
1871明治4年、みね、大学東校の石井謙道方に預けられる。
1872明治5年、麹町有楽町、大隈重信邸内、仮寓の桂川甫策に引き取られる。
1873明治6年、みね18歳。今泉利春と結婚、大隈邸跡に居住。
1874明治7年、佐賀の乱おこる。利春辞職。
―――ある日夫が写真(江藤新兵の獄門)を持ってまっさおになって帰って・・・・・夫にとっては親を失ったほどの大事・・・・・佐賀の事件では・・・・・竹馬の友が涙をのんで刑場の露と消えて行きました。・・・・・佐賀の同志は少なくなってしまってどうすることもできず、やけ酒を何升というほど飲んでは、「獄門にかけたことはひどいひどい」と・・・・・この時の無理がたたって、その後は胃が始終ただれていて床にいる日の方が多いくらいで・・・・・(中略)・・・・・ 思いだせば・・・・・征韓論がやかましくなって、夫は同志とともに役をひいて、そのころから両国橋のそばに住居を移しましたが、そこへ江藤さんがお見えになったことがございました。きちんとお座りになって熱心にお話しになっていらっしゃるまじめな御様子はちょっとちょっと外の方とは違っていました。・・・・・(『名ごりの夢』)。
1875明治8年、利春、代言人(弁護士)となり神田区松田町に居住。
1877明治10年、西南戦争おこる。
利春下獄。有楽町2丁目1番地に移る。
1878明治11年、利春、京橋区加賀町16番地に居住。
―――銀座に「煉瓦」ができて間もないことろと思いますが、京橋の加賀町(今の銀座七丁目付近)に三軒をぶこぬいて、すまいと代言人の事務所とをつくりました・・・・・れんがはりっぱですけれど往来はきたなかった・・・・・ここは征韓論で司法省を辞めた浪人連中が社をつくって、夫と大東さん(義徹)がいつもこの事務所にいて、おもに書類をこしらえていました。裁判所に出る役は・・・・・月給で使われていました。ここの仕事は非常に忙しくって・・・・・お金も大変とれたような様子でございます・・・・・(『名ごりの夢』)。
1881明治14年、父・桂川甫周死去。享年55。
―――とのさんと言われた父が、御維新後は外の方達がりゅうりゅうとしていらっしゃるのにひきかえ、東京医事新聞の編集長だけでさびしく世を終えたことをかんがえますと、時には残念だなあと・・・・・(『名ごりの夢』)。
1884明治17年11月3日、成島柳北死去。享年48。
―――柳北十八歳で家を嗣ぎ、二十歳で将軍の侍講となったが、その頃から才鋒当たるべからざるものがあった。講義によそえて要路の役人を誹謗する。狂詩を作って時事を諷刺する。・・・・・将軍に向って、「昔から大名は馬鹿なものでござります。いざという時には決してお役に立つ者ではござりません」などという。とうとうそのことが老中にしれて斥けられてしまった。・・・・・一時は小間物の行商となって、東本願寺の法主に知られ、同行して欧米を漫遊し、帰朝後『朝野新聞』に入って文名を馳せた・・・・・(『偉人暦』)。
1886明治19年、利春、検事任官。讃岐高松居住。
―――夫が大学病院にはいっているころ、友人達が副島先生とご相談して、本人には知らせないで、ずんずん裁判所に勤めるように手続を・・・・・がんこな夫も副島先生のおこえがかりならばとようやく承知して、涙をのんで任地讃岐の高松(当時愛媛県)へたちました・・・・・(『名ごりの夢』)。
1894明治27年、利春、鹿児島で病死。
1935昭和10年、雑誌「みくに」に「なごりの夢」を口述、寄稿。
1937昭和12年4月10日、鎌倉自邸で脳溢血で死去。享年82。
―――刀自(今泉みね)事に就いては、吉野作造博士が既に記す所があつた。『露国帰還の漂流民幸太夫』中に、幸太夫の口述を筆写した桂川甫周の事を延べ「更に七代目甫周先生には二人の女児があつた。長は夭折し、次は今泉家に嫁して今なお健在である。この人に明治初年に桂川家に出入りした若い洋学者達の面白い沢山の逸話が聞かれる・・・・・」(『書物と世間』)。
参考: 『名ごりの夢』今泉みね1963東洋文庫 / 『書物と世間』桑木厳翼1943春秋社松柏館 / 『偉人暦』森銑三1996中公文庫 / 『民間学事典』1997三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
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