園芸学の草分け・温室栽培の創始者、福羽逸人 & 福羽美静
―――禅寺丸。果形丸くして、本峻(もとや)豊に尖らず、紅熟して頭に黒紋を呈し、肉に褐班あり・・・・・ 久しく樹上に留め霜降りごろに至らしむれば全く爛熟し、漿液多くして味甘美となる。・・・・・ 人往々富有柿の甘柿中の最良種なるを口にす。なお其の甘味に至りては禅寺丸の一層勝れるを断言するに憚らず。・・・・・ 福羽子爵は本種を以て核(たね)多しと云へり・・・・・(『甘柿禅寺丸栽培法』)。
果物の種類は豊富で季節を問わずあるが、生の柿は秋から冬出回る。甘柿といえば富有柿と思うが、もっと甘い禅寺丸があるという。
その禅寺丸の説明に「福羽子爵」の名があり、柿と子爵の取り合わせが気になった。
なお、福羽逸人は森鷗外と同じ島根県津和野の出身、鷗外より6歳上で父は旧津和野藩士。鷗外の父もまた津和野藩(亀井藩)、御殿医である。
ちなみに、逸人の義父・福羽美静は維新後、*廃仏毀釈・神道政策の推進に尽くした。
廃仏毀釈・神道政策: 新政府は王政復古・祭政一致を唱え、神仏混淆を禁じ神道国教化政策を実施。この神仏分離令を契機に西日本を中心に極端な廃物運動が激化、寺院・仏像などの破壊や寺領没収が続出(『近現代史用語事典』)。
それはさておき、福羽苺(フクバイチゴ)の生みの親、園芸学の草分け福場逸人を見てみたい。参考までに福羽美静(びせい)の略歴を記した。
福羽 逸人 (ふくば はやと)
1856安政3年11月16日、石見国津和野鷲原(島根県)津和野藩士・佐々布利厚の三男に生まれる。
? 藩校・養老館で学ぶ。なお、福羽美静は同館の教授を務めた。
? *津田仙が創設した学農舎農学校に入学、農学を修める。
津田仙:農学者。津田梅子の父。農業の近代化と人材育成のため学農社を創立。
1872明治5年、16歳。同じ津和野藩士・福羽美静の長女・禎と結ばれ婿養子となる。
1877明治10年、勧農局試験場農業生。次いで勧農局試験場農場主となる。
1879明治12年、伊豆七島を巡回。のち『伊豆諸島巡回報告』著す。
位置・地形・島民の職業及び物産の景況・山林及び有益植物移植の景況・全島の戸数及び人口表・織物・漁獲・蔬菜の収額・風俗など。
1881明治14年、山梨に赴き葡萄について調査研究を行う。
『甲州葡萄栽培法』出版。甲州地方ブドウ繁殖の来歴、繁殖、病害虫ほか記す。
1882明治15年、兵庫県印南村(加古郡稲美町)に開校、農商務省農務局直轄の播州葡萄園に入り、ブドウ試験地の開設にあたる。
1886明治19年、播州葡萄園長となる。
3月、萄栽培研究のため農商務省よりフランス・ドイツ留学を命ぜられ、4月10日、フランス郵船メンザレー号で横浜出航。
3年にわたりヨーロッパの葡萄栽培法・醸造法を視察し、熱心に実習に励む。
1889明治22年、33歳。帰国。
2月11日、大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法・貴族院令公布。
―――明治政府は、明治初年から西洋の優れた植物を輸入し、内藤新宿試験場や三田育種場、各地の官園どで栽培を試みてきた。・・・・・日本初の園芸雑誌『日本園芸会雑誌』創刊・・・・・日本園芸会2代目会長・大隈重信・・・・・副会長は植物学者の田中芳男の他、前田正名や福羽逸人など、殖産興業、園芸界を牽引する著名人が務め・・・・・(中略)・・・・・福羽は欧州の園芸理論を日本に導入、実践した人物です。 憲政資料室には福羽の書翰が残され、欧州への官費留学に関する書翰からは、園芸への情熱と並外れた行動力、政府高官との恵まれた人脈により、当時必ずしも重要視されていなかった園芸分野を学ぶための渡欧を実現させた様子がうかがえます。・・・・・(『国立国会図書館月報730号』)。
―――大隈侯が作られた温室があつたが、それは故侯がかつて福羽逸人氏の勧めによつて。始めて蘭花植物を作られたところ、メロンや、柑橘類をも作つて楽しまれたところ・・・・・(『大隈会館之栞』)。
1890明治23年、農商務技師、東京農林学校兼務となる。
柑橘類の調査
4月1日~7月31日、第三回内国勧業博覧会。審査官を務める。
1891明治24年、*御料局技師として内匠寮に勤務。
御料局:宮内省の一局。皇室財産を司る。
内匠寮:調度の作成・装飾などにあたる。
1892明治25年、ブドウ栽培実地指導。
―――内苑頭(ないえんのかみ)福羽逸人氏が巡回してきた。・・・・・栽培法を教授、そは主として枝の剪り方であって・・・・・かくて二十六年の十月、見事なる成果を得て、ブラツクハンポロツク種を福羽逸人氏のもとに送って試験を請ふた。・・・・・(『農村と人物』)。
1896明治29年、式部官を兼任しロシア皇帝戴冠式に参列。
『果樹栽培全書』『蔬菜栽培法』などつぎつぎ出版。
―――山東菜・白菜・体菜(漬け菜)については、福羽逸人氏の蔬菜栽培法に次のやうな説明が載せてある。 山東菜、清国山東省の原産にして、菘(しゅう・唐菜)の一なり。・・・・・抑もこの葉菜は近年汎く各地に繁殖し、大に世人の嗜好に適するに至れり。その種子の始めて本邦に伝来せしは明治八年にして、内務省旧勧業局・内藤新宿試験場にて購入せしを以て嚆矢とす。・・・・・(『国定新読本の研究 高等科』)。
1898明治31年、内匠寮技師となり、皇室領だった新宿植物御苑の係長となる。
宮内官吏として、留学経験を大いに役立たせるとともに、園芸栽培の研究に没頭。
後年、逸人の三男・福場登三(園芸家)も新宿御苑・主膳官をつとめる。
1899明治32年、ロシアのペテロスブルグで万国博覧会。
逸人は積極的にヨーロッパの新しい技術知識を得ようとして出席。
1900明治33年、パリ万国博覧会(19世紀最後の国際博覧会)の折に開催された<園芸万国会議> <樹木培養技術および果実学万国会議>にも出席。
―――たび重なる洋行で語学にも年季が入り、各国宮廷事情にも詳しかったために、ロシア大公ボリスウアジロチやイタリア皇族ブランス・ド・ウジネの来日に際し、接待役として重任を果たした。のち、農商務省「巴里万国大博覧会報告・園芸部報告」を記す。
3月~7月、初めて大阪で、第五回内国勧業博覧会開催。
―――庭園は宮内省技師福羽逸人氏の設計にて仏蘭西式に拠りて、その中央に龍神噴水器を据付たり・・・・・その他園中の所々に小丘をしつらえ種々の花卉を培植し飲食店、休憩所の設け多く場外、大浜の料理店とともに遊覧者を待てり・・・・・(『博覧会案内記』)。
1906明治39年、内苑局長に昇進。
1907明治40年、義父・福羽美静が死去し家督を継ぐとともに子爵となる。
子爵:華族。明治の華族令により、それまで呼称であった華族を、爵位を授けられ特権を有する身分とした。爵位は男子の家督相続人が世襲。
1914大正3年、大膳頭となり内匠寮御用掛をつとめ、宮中顧問官となる。
1917大正6年、退官。
1917大正8年7月、農学博士となる。
逸人が作りだした「福羽苺」は速成品種としては、他の追随を許さず優秀品種であり、近年までその品質は評価された。
―――常に園芸・農学の研究を怠る事なく、野菜・果物・花卉の品種改良に励み、フクバイチゴをはじめとしてフクバナシ・フクバインゲンなどを生み出した。わが国の温室栽培の創始者、促成栽培の先覚者としても知られる(『海を越えた日本人名辞典』)。
1921大正10年5月19日、死去。享年66。墓は東京港区青山墓地。
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福羽 美静 (ふくば びせい)
1831天保2年~1907明治40年
津和野藩士・福羽美質の子。号を木園・硯堂。
1853嘉永6年、京都の大国隆正に入門。
1858安政5年、江戸に出て平田銕胤に師事。国事に奔走する。
1863文久3年8月18日の政変後、帰藩、藩主・亀井茲監に認められる。
1868明治維新後、廃仏毀釈・神道政策の推進に尽くす。
1890明治23年、貴族院議員となる。のち元老議官。
著書『古事記神代系図』。
参考: 『甘柿禅寺丸栽培法』広田鉄五郎1911有隣堂 / 『日本近現代人名辞典』2001吉川弘文館 / 『国定新読本の研究 高等科』豊田八千代1868~1869学海指針社 / 『海を越えた日本人名辞典』2005日外アソシエーツ / 『博覧会案内記』木崎好尚・古我雅芳1903宇佐美重太郎 /『農村と人物』門田勝衛1912日本種苗出版部2023.12.8 / 国会図書館デジタルコレクション
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