幕政家・川路聖謨、明治の官吏・教育家・川路太郎、大正昭和の詩人・川路柳虹
川路聖謨 (佐渡奉行在勤日記『島根のすさみ』)
一つなる峰を越路よ吾妻路と 定めし心今もみえぬる
其国のならいによりて治めなば 民のこころに背からざまし
川路太郎 (川路太郎『英国日録』)
横浜出発の日。幕府派遣の英国留学生留学生取締の川路太郎・中村敬輔(敬宇/正直)がイギリス領事館を訪れると特命全権公使パークスが留学生一同にはなむけの言葉を贈ってくれた。
「この度は万里外、誠にご苦労千万、折角自愛、勉学成業あるべし。併し乍ら、多年英国在留して洋風に伝染し、遂に父母の国の貴きを忘れ候儀これ有る間敷くと、つらつら考う」と。此の語、欧羅巴人の真面目にして、以て洋僻(ようへき)家の薬石となすべし」
畏 怖 (川路柳虹詩集「白日の悲み」)
夕ぐれの榛の木の赤き梢に
何ものかのぞけるけはひ、
盲(めし)ひたる灰色の大空の薄暮(たそがれ)に
なにものか覗けるけはひ。
三人は曽祖父・川路聖謨、孫・川路太郎、曾孫・川路柳虹である。
川路 聖謨 (かわじ としあきら)
1801享和元年4月25日、、豊後国(大分県)日田の日田代官所の官舎に生まれる。
父は代官所属吏・内藤吉兵衛、母は代官所手附高橋の娘。
1806文化3年、父が江戸城西丸徒士に採用され、江戸牛込北御徒町の徒士組屋敷へ移転。
1812文化9年、幕府小普請組・川路三左衛門の養嗣子となる。
この頃、剣術修行のため柳生新陰流中野金四郎の道場に入門、のち免許皆伝。
1818文政元年、18歳。評定所書物方当分出役となる。
1823文政6年、評定所留役。この頃脚気に悩み持病となる。
1835天保6年8月、35歳。但馬国出石藩のお家騒動(千石事件)の審理に敏腕を発揮して名声を博し、勘定吟味役に昇進。
1839天保10年、渡辺崋山との交際で目付鳥居耀蔵の嫌疑をうけるが、証拠不十分で免れる。
1840天保11年、40歳。佐渡奉行、佐渡相川に赴任。家禄200石。
1844弘化元年、長男(彰常)に太郎(寛堂)生まれる。
1845弘化2年、彰常22歳で早世。聖謨は嫡孫・太郎を継嗣とする。
1846弘化3年、46歳。奈良奉行に左遷、奈良へ赴任。
―――奈良奉行時代、民衆からあだなをつけられております。「五泣百姓奉行」・・・・・五泣というのは、寄力、同心とかいう・・・・・下っ端役は威張る。時には金をとったりする・・・・・要するに五種類の、民衆をしぼりとったりだましたりする奴はないた。しかし百姓たちが喜んで、川路の奈良奉行としての治世賛美した・・・・・(『伝記文学の面白さ』)。
1851嘉永4年、51歳。大阪町奉行
1852嘉永5年9月、勘定奉行兼海防掛に栄転。家禄500石に加増。
1853嘉永6年6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。
7月、ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチン軍艦4隻を率いて通商を求めて長崎に来航。聖謨、長崎に赴き応接。
―――川路はプチャーチンのように相手を尊敬する、相手をたいした人物だと認識したときに成功しています。・・・・・(『伝記文学の面白さ』)。
1854安政元年、伊豆国下田で日露和親条約に調印。
11月4日、東海道に大地震。ロシア艦ディアナ号、大破。
1855安政2年3月、プチャーチン伊豆戸田村で建造した船で退去。
10月2日、江戸大地震。被害最大圧死者・焼死者7千、川路家も倒壊。
1858安政5年、京都に赴き、日米修好条約締結の勅許を得るため、老中・堀田正睦の随行を命ぜられ、奔走するも勅許を得られなかった。
4月、将軍継嗣問題で紀井藩主を推す紀州派の井伊直弼が大老就任。川路は一橋慶喜を推す堀田老中らの一橋派と目され失脚。
1859安政6年、59歳。隠居・差控を命ぜられ、太郎が家督を継ぐ。
1863文久3年、外国奉行に起用されたが数ヶ月で辞職。
12月、孫の太郎、将軍家茂に扈従して上洛。
1866慶応2年7月、将軍家茂没。
9月、太郎、英国留学を命ぜられ10月、横浜出航。
12月、孝明天皇崩御。慶喜一五代将軍となる。
1868慶応4年、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争起こる)。
3月14日、勝海舟・西郷隆盛、江戸城で会談し、江戸開城の了解なる。
3月15日、自殺。享年68。
―――病床に居る聖謨は、自分の終わるときがきたと思ったのでしょう奥さんを遠ざけて自分一人で、右手はききますから武士の作法通り腹を浅く切って・・・・・そしてピストルでのどを撃って68年の一生を終わります。・・・・・私にはどうもこの人は忘れがたい。新しい時代に適応してすべてに進んで、つまり利口といわれた人が、最後は決して利口でなかったというところが非常にゆかしいような気がします。・・・・・(中野好夫)。
9月8日、明治と改元。
川路聖謨の伝記はどれを読んでも感動するが、中野好夫『伝記文学の面白さ』(川路聖謨・タレイラン)は聖謨の人間味も描かれ気に入ってる。
川路 太郎(寛堂) (かわじ かんどう)
1844弘化元年12月21日、川路聖謨の嫡男・彰常の長男として江戸に生まれる。
漢学を日下部伊三次・安積艮斎、蘭学を箕作阮甫、英学を中浜万次郎・森山多吉郎、仏学をメル目・カションに学び、広い教養を身につける。
1866慶応2年、22歳。幕府の歩兵頭並となる。
10月、イギリスへ留学生を派遣となり、中村敬輔(正直)とともに留学生取締として渡英。
―――横浜出帆後、イギリス海軍附教師ロイドについて英語を勉強しようとしたようであるが、高齢のため進歩が遅く「最早四十日余も英人之中に居る」のに「思ふ事も十分に話せず、実に残念也」と嘆いている。ロンドン到着後、ガス灯が道路にともり暗夜であるのに白夜のようであることなどに驚嘆した印象を綴った手紙を江戸の留守宅に書き贈っている・・・・・(中略)・・・・・滞在費の不足や幕府J崩壊のために帰国を余儀なくされた。対英わずか1年5ヶ月であった。帰国後に、祖父聖謨の自刃家の窮状を知り、横浜に出て貿易商を営んだが成功せず・・・・・(『海を越えた日本人名事典』)。
―――在英中、英国に於ける中等社会の家庭に出入りし、其の美はしき家風が基督教的信仰に原因するを見て、大いに感ずる所あり、斯教を研究し、一八七二年十月二一日、今は英国にあるロイド氏より受洗せり。氏は号を月山と号す・・・・・文学者川路柳虹(誠)は氏の息なり。・・・・・(『基督者列伝』)。
1871明治4年、28歳。大蔵省出仕。
11月、アメリカの蒸気外輪船で岩倉使節団・三等書記官として加わる。
使節団は岩倉具視・特命全権大使、副使として木戸孝允らに理事官・書記官など総勢46名の大使節団であった。また、さらに留学生59名が同行。なかに山川捨松・津田梅子ら女子留学生もいた。
岩倉使節団については、権少外史・久米邦武『米欧回覧実記』に詳しい。
帰国後、大蔵省の外国文書課長となり、大蔵卿・大隈重信の新任を得る。
1874明治7年、大蔵省少書記官。このころ、食客・丹下謙吉(今治藩士の次男)がいた。
1875明治8年、大隈の命により工部四等出仕・大鳥圭介、大蔵省七等出仕・川路寛堂ほか、オーストリ公使に同行してタイ国を視察。『暹羅(シャム)紀略』(工部省)。
1876明治9年11月、大蔵省出仕。権少丞・正七位・静岡県士族。
辞職、再び実業につくも失敗。
1885明治18年、三田に英学塾・月山学舎を開き、英語を教える。
1888明治21年、長男・誠(川路柳虹)生まれる。
1892明治25年、赤穂浅野家の文人画家。「浅野梅堂墓碑」篆額。
1893明治26年、広島県深津郡福山町の福山(誠之館)尋常中学校教諭。
1899明治32年、兵庫県の洲本中学校に転じる。教諭心得・川路寛堂。
1901明治34年9月、祖父の伝記『川路聖謨之生涯』編述。
国会図書館デジタルコレクションにあり、目次を閲覧するだけでも幕末の動揺が伝わり興味津々。聖謨の弟で外国奉行・井上淸直のハリスとの談判なども垣間見える。
1903明治36年、兵庫県津名郡・三原郡組合立淡路高等女学校校長(奏任待遇)。
1908明治41年、淡路高等女学校校長。
1919大正8年、神戸松蔭女学校副校長、校長・ミス・ヒュース。
1921大正10年、―――洲本の旧領主稲田氏の屋敷に、大広間あり。襖、建具、すべて時代がかりたる舞台也。庭上に一大手水鉢あり、高田屋嘉兵衛が北海より持来せるものなりといふ。此の屋敷、近年は高等な女学校に宛てられ、校長に川路寛堂あり、彼、幕末に有名なる川路聖謨の嫡孫也・・・・・(『新人国記』)。
1922大正11年、退職。神戸で隠居生活をおくる。
1927昭和2年2月5日、死去。享年84。
著書:『英国倒行律例』『川路聖謨之生涯』
川路 柳虹(誠) (かわじ りゅうこう)
1888明治21年、東京芝三田に太郎、ハナの長男に生まれる。
母は南画家・浅野長詐(ちょうさ)の娘、絵の素質は母からうけた。
1901明治34年、14歳。洲本中学校入学。級友・大内兵衛らと回覧雑誌を始める。
1903明治36年、洲本中学を退学し、4月、東京美術学校(東京藝術大学)入学。
1905明治38年、『新聲』への投稿はじまり、「森のうた」、訳詩「愛の花束」など掲載。
1907明治40年、口語体自由詩「塵溜」などを「詩人」に発表して注目される。
1908明治41年、21歳。東京美術学校日本画科に入学。『文庫』に詩や訳詩を発表。
1910明治43年、処女詩集「路傍の花」を出した。
―――七五調などの古い詩型を破り言文一致の口語体による新しい詩を想像したことで、詩における自然主義的革命が実現した。
1913大正2年、26歳。東京美術学校卒業。
1914大正3年、三木露風・西条八十らと季刊誌『未来』創刊。
第二詩集『かなたの空』刊行。二科会に「静物」出品し入選。
1918大正7年、博文館に入社。雑誌『太陽』に編集にたずさわる。
1921大正10年、詩集「曙の声」。評論やフランス詩壇の紹介の仕事も進める。
1922大正11年、詩集『歩む人』以後は叙情性を脱し知性派詩人として特色を強める。
1927昭和2年、外遊。パリ大学で東洋美術史を学び、美術評論家としても知られる。
1953昭和28年、66歳。法政大学第二学部講師となる。
1959昭和34年4月17日、脳出血により死去。享年71。
曽祖父・川路聖謨生誕から158年になる。
参考: 『島根のすさみ』川路聖謨1973東洋文庫 / 『東洋金鴻』(英国留学生への通信 )1978東洋文庫 / 『現代詩人全集5巻』(北原白秋集・三木露風集・川路柳虹集)1929新潮社 / 『新人国記』横山健堂1921弘学館書店 / 『基督者列伝:信仰三十年』1921警醒社 / 『明治詩人集(二)』1983筑摩書房 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『伝記文学の面白さ』中野好夫1995岩波書店 / 国会図書館デジタルコレクション
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