明治大正の看護婦会、渡邊とし子・渡邊鑅(てつ)子
能登半島地震、被災地の様子をニュース画面でみるだけでも辛いのに、空き巣被害のニュース! 被災者に追い打ちをかける酷い仕業はあんまりで血も涙も無い。
その一方、災害地に赴き被災者の力になる様々な人たちが少なくない。そうしたなか、現地の看護師さんたちも被災された方の力になり慰めになっているでしょう。その看護師さんは長い間、看護婦と呼ばれていた。
『明治事物紀元』は「看護婦の始め」と「看護婦会」について次のように記す。
―――本邦未だ看護婦の無かりし時代に、最も早く海外の看護法を紹介せるは、1860万延元年の〔玉蟲日録〕に北米ワシントンにて、米国病院を見し條下に『一房多きは七八人、少なきは五六人、病者女なれば女、男なれば男を以て監視す』とあり。又明治二年版〔開智〕巻四に、『巴里斯病院中にある看護人は、男室に婦人を用ひず、女室に男子を用ひざれども、尼は男室に於ても用ゆ』・・・・・(以下略)。
―――「看護婦会の始」 看護婦会は、看護婦を用意しおき、病院又は個人宅にて、派出の需要を待つ者、双方に便利の機関なり。 明治二十一年十一月、鈴木雅子率先して、本郷森川町一番地に、東京看護婦会を創設したるを始めとす。
〔看護〕 痩る吾が身の看護の実が届いて日増に肥る主 白亭卯升
渡邊 鑅(てつ) & 渡邊看護婦会
鑅子は、てつ・てつ子・テツとも表記。
1873明治6年9月25日、大分県東安岐町下原の渡邊勝太の次女に生まれる。
―――豊前の沿岸地に盡き豊後の一角突きとして周防灘に出る所 *東関東(ひがしくにさき)郡あり名邑安岐(あき)町は今や横浜の地に於て池の比肩を容さざる第一位にある看護婦会を主宰する女傑渡邊てつ子女史の出生地なり。 女子の家は富豪の名門なりしが父君勝太文学を子臣郷土のために家産を盡し一家の悲運を来せり。・・・・・(『横浜市誌』)。
東関東郡(ひがしくにさきぐん):大分県北東部。国東・武蔵・安岐(あき)・国見・1村:姫島。
?年、 姉とし子、上京して帝国大学看護婦第二期卒業。
1886明治19年、「赤十字社看護」
―――陸軍部内に看護婦の必要を生じ、赤十字社病院長・橋本綱常と、陸軍軍医総督・足立寛氏との設計に従って、養成法の設備なり、続いて二十年には、万国赤十字社に加盟して、看護婦養成法は愈々盛んになれり。・・・・・(『明治事物紀元』)。
1888明治21年春、櫻井女学校(女子学院)内に看護婦養成所を新設し、英国セント・トーマス、ミス・アダネスヴァエツチを招聘して講師となし・・・・・当時、女子の職業線にたつことは左程安心されざりし時代なれば・・・・・廃止せり(『明治事物紀元』)。
11月、看護婦会の始。
―――看護婦会は、看護婦を用意しおき、病院又は個人宅にて、派出の需要を待つ者、双方に便利の機関なり。(『明治事物紀元』)。
1890明治23年、とし子横浜で渡邊看護婦会を開き、先駆者として開拓につとめる。
1894明治27年、日清戦争。
―――明治二十七、八年の役に、赤十字病院にて年来養成したる看護婦を試に広島予備病院に使用したり。これ陸軍病院に看護婦を用ひし始めにして、その用ひんとする際には、相当異議多かりしよし。・・・・・(『明治事物紀元』)。
1895明治28年、てつ子、小学校教員免許をとり、郷里で教鞭をとる。
1896明治29年、とし子、横浜市中区南太田町1633で看護婦会を設立経営。
てつ子、横浜に赴き姉とし子を補佐。この間、産婆・看護婦資格を獲得。
1899明治32年、とし子死去。てつ子、会長を継承。
このころ、体調をくずした郷里の母を迎え看護する。
1902明治35年、東京市養育院へ寄付。渡邊てつ子・京橋区弓町12(『東京市養育院報告31回』)。
―――東京近辺の派出看護婦業者らによって、看護婦協会が結成され、翌年11月に大日本看護婦協会と改称した。(『近代日本看護史』)。
1904明治37年8月、渡邊看護婦協会・渡邊てつ・東京市真砂町1-9(看護婦協会会員29) 。
1909明治42年、渡邊看護婦会・渡邊テツ産婆兼業・横浜市真砂町一ノ九、1315(『日本杏林要覧』)。
1912明治45年、渡邊看護婦会「看護婦及び見習生募集」広告。
渡邊看護婦会 会長・渡邊鑅(てつ)、東京芝区葺手町五番地 電話芝1393。
1913大正2年、渡邊看護婦会 渡邊テツ 横浜真砂一の九。(『東京附一府六県職業名鑑再版』)。
1914大正3年、渡邊鑅子・渡邊看護婦会長、芝区葺手町五。(『日本キリスト教名鑑:一名・日本之基督教一覧』)。
―――<東京の看護婦会> 地方人が上京して旅館又は親戚、知人の元に宿をとり万一重い病気に罹れば無論病院へ入院すれば世話なしであるが、それ程の病気でないとか、或いは入院出来ないやうな場合には、看護婦の必要・・・・・東京には数多(あまた)の看護婦会があり、其処には常に多数の看護婦が居るから、派出の要求さへすれば即時に来てくれる。 給料は何程か・・・・・その日給は一等一円、二等八十銭、三等六十銭であるが・・・・・伝染病の場合には、一等一円三十銭、二等一円、三等八十銭・・・・・(『博覧会と東京:経済的見物』)。
1916大正5年、東京市養育院へ寄付・白米2俵、渡邊てつ、京橋区銀座二-四。(『東京市養育院年報第45回』)。
1920大正9年、<看護婦会取締規則>改正。
第一条:会則・看護婦免状写・履歴書・業務所ノ間取図・業務所建物ノ概要
第二条~第三十一条、本令ハ統テ公衆ノ需メニ応シ看護婦ノ派出ヲ為ス業務にニ適用ス。
1922大正11年、芝一三九三 渡邊看護婦会 渡邊鑅・芝、西久保葺手四(『職業別電話名簿 東京・横浜11版』)。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
―――震災に会し挺身救護の事にあたり九月二日早く此事に従ひ 真に不眠不休の活動を続け町民の満足と感謝を受け以てその本文を盡し愈々声明高めますます信頼を深くせり 震災後当地(南太田町)に福寿産院を開き有資格者数名を助手として堂々門戸を張れり。・・・・・(『横浜市誌』)。
電話帳・住所録などから察するに東京・横浜を往復していたのかも知れない。
1925大正14年、渡邊看護婦会 渡邊鑅 青山3454 芝、葺手、五(『京浜間職業別遺業便覧大正14年版』)。
1926大正15年、渡邊看護婦会・渡邊テツ、南太田1633(『神奈川県職業別電話名簿 横浜市ノ部』)。
?年、神奈川看護婦会連合組合長および副会長。
横浜中央看護婦学校を創立、理事となる。
日本赤十字社篤志看護婦会会員。
没年不祥。
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以下の記述を見たが同一人か不祥。名は合っているので一応上げておく。
<渡邊鑅子女史> 東京芝区葺手町五
女史は旧岡山藩士 渡邊徳次郎氏の長女にして元治元年十二月を以て生る 幼少の頃藩公の殿中に出入りし姫君に深く愛せらる十六歳の時世は明治維新となり・・・・・
人となり聡明闊達、産婆看護婦の社会的使命に思いを潜め、その養成誘掖に努めること30有余年、その育成セル者一千名を超える。
宗教は神道。趣味は生花、茶儀、関係する社会事業は多い。
参考: 『征露戦争奉公記録:附・征露新史』古口直一1904衛生通信社 / 『横浜市誌』1929横浜市誌編纂所 / 『東京市養育院年報第45回』1916~1917東京市養育院 / 『京浜間職業別遺業便覧大正14年版』須川三郎1925商業之日本社 / 『日本キリスト教名鑑:一名・日本之基督教一覧』谷竜平編1914中外興信所 / 『職業別電話名簿 東京・横浜11版』1922日本商工通信社 / 『東京附一府六県職業名鑑再版』宮崎憲文1913工友社 / 『日本杏林要覧』1909日本杏林社 / 『博覧会と東京:経済的見物』桜水社同人1914桜水社 / 『神奈川県職業別電話名簿 横浜市ノ部』1926横浜通信社 / 『明治事物紀元』石井研堂1908橋南堂 / 『近代日本看護史 Ⅳ』亀山美知子1985ドメス出版 / 国会図書館デジタルコレクション
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