日本の公園の父・林学者・本多静六、妻詮子は日本4番目の女医
―――地震、飛行機事故、現職国会議員の逮捕。震える辰年の仕事始めが本格化した。 ◇本来なら石川県能登地方でも、今日が学校の始業式だった。無情の雪が降り積もる。 ・・・・・(2024.1.9毎日新聞・夕刊「近事片々」)。
この度の能登半島地震、2011年の東日本大震災など大災害がおきるたび、自然の怖さを思い知らされる。被災地から遠くのんきなことを呟くばかりで申し訳ない。
無事平穏なときは、森林の空間、緑の公園が好ましい。
さて、今回はその緑豊かな森林を育て、公園の父とも呼ばれる林学博士・本多静六とその妻で医師の詮子である。
本多 静六
(年譜、遠山益『本多静六』参照)
1866慶応2年7月2日、埼玉県南埼玉郡河原井村(久喜市)の折原家の農家、折原長左エ門(通称禄三郎)、やその6番目の子、三男に生まれる。
―――埼玉が生んだ三偉人(盲目の国学者・塙保己一、近代資本主義の父・渋沢栄一、日本の女医第一号・荻野吟子)、そこに本多静六を加え四偉人と称されることも・・・・・(『若者よ、人生に投資せよ 本多静六』)。
1876明治9年、9歳。父禄三郎、脳出血で急逝。
1880明治13年、14歳で上京。島村泰の書生となる。
1881明治14年、のち静六の妻となる本多詮(せん)子17歳、成医会講習所(一般には海軍医学校)入学。
海軍医学校はのちの東京慈恵医科大学で海軍軍医総監・髙木兼寛が開設。髙木が日本女性も医師に適しているか否かを試験するために、竹橋女学校から優等生二人、詮子と松浦里子を推薦してもらう。
本多晋(すすむ):元彰義隊頭取。上野戦争後、隠遁生活を送っていたが、渋沢栄一の推薦で民部省、ついで大蔵省出仕。明治13年退官、その後は横浜正金銀行の役員。退職後は上野東照宮に奉仕。晩年は禅、歌道に精進し大正10年死去。享年76。
本多詮子:1864元治元年1月11日生まれ。本多晋の一人娘。
―――上野の敗戦後、父親が外遊した関係で、六歳のときからミス・ツルースという英三国人の女宣教師の家に預けられていたので、英語はすこぶるつきの達者、十二、三のころからよく公使館の通訳に頼まれたほどであった。ツルース家から通学の官立竹橋女学校では常に首席を通し、時の皇后陛下の御前講義をつとめた・・・・・(『体験八十五年』)。
1884明治17年、静六、東京山林学校(のち農科大学)入学。
1888明治21年、詮子24歳。医師開業試験に合格、日本で四番目の女医となる。
1889明治22年、静六、詮子と結婚、本多家に入る。
1890明治23年、農林学校卒業。本多家の援助でドイツへ留学。
ターラント山林学校入学、のちミュンヘン大学で学ぶ。
詮子、芝区の本多邸で「婦人科小児科医院」を開業。かたわら慈恵医大の産婦人科に勤め、また横浜フェリス女学院で衛生学を講義するなど活躍。
1892明治25年、25歳。ドイツで学位ドクトルエコノミー取得。
5月、欧米を視察して帰国。東京駒場の官舎に住む。
詮子、赤阪新坂町に診療所を開設。
1893明治26年7月、26歳。東京帝国大学農科大学助教授。
この年、わが国初の鉄道防雪林の創設に携わる。
―――ドイツから帰国時に、カナディアン・パシフィック鉄道で防雪林視察、本多は、日本でも実現する事を思い立ち、日本鉄道で役員をしていた渋沢栄一に話をもちかけ、日本鉄道建築課長・長谷川謹介のもとで、現在の東北本線と青い森鉄道の水沢~青森間に野辺地防雪原林を含む41箇所の日本最初の鉄道防雪林誕生・・・・・(「鉄道人物伝」)。
1894明治27年、日清戦争。
東京専門学校(早稲田大学)講師。
静六らの提案で千葉県清澄に大学演習林ができる(わが国初)。
『林政学 増訂』前後編(国会図書館デジタルコレクション)――― 一たひ保安林を確定したるときは之を永久に保存するために宜しく保安林簿なるものを編成すべし、此簿は一定年限(大抵二十年)・・・・・。
1897明治30年、この頃、子どもがふえ家事が多くなり診療所を閉鎖。
(時は明治。女性に優れた能力があっても夫優先、夫婦共に活躍するすべはあったろうに、出来た筈なのに、なんと勿体ない。)
1899明治32年、林学博士(わが国初)。学位論文「日本森林植物帯論」。
『学校樹栽造林法』ほか静六の著作、国会図書館デジタルコレクションで読める。
1900明治33年、33歳。東京帝国大学農科大学教授。
1901明治34年、日比谷公園設計調査委員。
―――わが国の公園開設は明治6年「太政官布告」から・・・・・都市公園必要・・・・・本多の数多い公園設計の基本的考えは、都市公園の開祖のイギリスの造園哲学によって始まる。・・・・・(中略)・・・・・森鷗外、片山潜、安部磯雄らは、近代都市にはそれぞれ公園が不可欠な施設であると・・・・・「公園は市民の肺臓なり、以て如何にその必要なるかを知るべし」・・・・・以来、全国各地から公園設計の依頼殺到・・・・・(『本多静六』)。
1903明治36年、36歳。日比谷公園開園、わが国初の洋風公園。
<本多が設計・改良に携わった全国各地の主な公園>
北海道、東北大沼公園など6ヶ所。関東、大宮公園・偕楽園など14。中部、懐古園など19。近畿、奈良公園など8。九州、大濠公園など7(『日本の森を育てた人』)。
1904明治37年、日露戦争。
1912明治45年7月30日、明治天皇崩御。
―――御陵は京都伏見桃山に内定していたが、東京にもそれに代わるものをとの市民の声があって、渋沢栄一、東京市長阪谷芳郎・・・・・(中略)・・・・・大正2年12月、「神社奉祀調査会」が発足・・・・・造林園芸担当として本多、川瀬善太郎、*福羽逸人らが参加・・・・・(中略)・・・・・本多の研究室では神社林の理想像として、大阪府堺市の仁徳天皇御陵を考えていた・・・・・本多らが考えた神宮の森は「自然の森」であり、百年後には人口の森が自然の森と見まごうほどの林相になり、しかも永遠に存続する森を造ることであった。・・・・・(『本多静六』)。
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1913大正2年、『大日本老樹名木誌』出版。
―――(序) 天然記念物・・・・・コレガ調査保存・・・・・殊ニ老樹名木ノ如キハ林学林業上又ハ一般生物学上ノ資料トシテ必要・・・・・何レモ数百年若シクハ千余年間其地ノ歴史ト共ニ生存シ最モ能ク地方ノ過去ヲ連想セシメ大ニ地方歴史上ノ考証トナリ・・・・・之ガ調査に着手セシヨリ既ニ廿余年を経・・・・・(後略)。
1915大正4年、48歳。大日本山林会理事。明治神宮造営局参与。
1921大正10年12月25日、妻詮子死去。享年58。
1923大正12年、神宮神域保護調査委員(宮内省)。
9月1日、関東大震災。帝都復興員参与。
1927昭和2年、60歳。大学退官。
1930昭和5年、埼玉県秩父郡大滝村(秩父市)に所有の山林を県に寄付。
1933昭和8年、日本庭園学界会長・栃木県名勝地経営調査委員・千葉県立公園調査委員会顧問。
1934昭和9年、「防潮林造成について」本多静六(『三陸地方防潮林造成調査報告書』農林省山林局)ほか、著書多数。
1936昭和11年、講話『成功の秘訣』埼玉県人会。
1939昭和14年、宮城外苑整備事業審議会委員(東京都)。
1942昭和17年、75歳。静岡県伊東に転居。
1845昭和20年、太平洋戦争敗戦。
1952昭和27年1月29日、狭心症で倒れ死去。享年85。
参考: 『体験八十五年』本多静六1952筑摩書房 / 『本多静六 緑豊かな社会づくりのパイオニア』遠山益2018埼玉出版会 / 『本多静六 日本の森を育てた人』遠山益2006実業之日本社 / RRR:railway research review75(3)「鉄道人物伝no11」2018鉄道総合技術研究所 / 『若者よ、人生に投資せよ 本多静六』北康利2022実業之日本社 / 国会図書館デジタルコレクション
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