尺八奏者・福田蘭童(蘭堂)、父は明治画壇の鬼才・青木繁
―――少年時代、野にある竹を切ってきては、自分で笛を作っては吹いていた。上京して間も無く、近くに住んでいた関口月堂のもとへ弟子入りをした。尺八というものは子供のうちから簡単にふけるものじゃないぞ、そう脅かされて頭から断られてしまった。が突然師匠の尺八を無造作に手に取り口にあて吹いて見せた。それが結構尺八の音色になっているので、感心し弟子入りを許してくれた。・・・・・(『異能異才人物事典』)。
けやきのブログⅡ2022.9.17<尺八、達人の本を繰れば自然と調和の音が体内を廻るかも>
この少年こそ、ラジオドラマや映画「笛吹童子」のテーマ音楽を作曲した尺八奏者、福田蘭堂である。
♪ヒャラリ ヒャラリコ ヒャラリコ~~ 映画「笛吹童子」で耳にしてから云十年、今も耳に残っている。その作曲者の父が明治画壇の鬼才・青木繁と知り興味をもった。
ちなみに、蘭堂と蘭童の二通りあり使い分けていたようだ。
福田 蘭童/蘭堂(石渡 幸彦) & 洋画家・青木繁
1882明治15年、青木繁、福岡県久留米市に生まれる。
1894明治27年、日清戦争。
1899明治32年、繁、久留米中学明善校を3年で退学、洋画家を志して上京。
1900明治33年、東京美術学校入学。黒田清輝の指導を受ける。
青木繁:ダイナミックな構図と筆法で明治画壇の鬼才と言われる。
1902明治35年、福田蘭堂こと石渡幸彦(さちひこ)、青木繁と洋画を学ぶ福田たねの間に生まれる。
このころ、青木繁は名作「海の幸」を描いたらしい。
繁とたねは福田家の援助により、茨木や栃木を転々とする。
1903明治36年、繁、白馬会8会展「黄泉比良坂」(よみつひらさか)など神話画稿を出品し第一回白馬賞。
1904明治37年、日露戦争。
1907明治40年8月、繁、父の死で帰郷。
妻のたねも繁を追って九州へ行くが、繁は絵画の夢消し難く、妻を残して放浪の旅に出る。
1908明治41年、繁は家族と衝突し生まれ故郷である九州、天草から熊本地方を放浪。
幸彦は栃木県の母の実家、福田家に預けられ、教師で私塾を開く祖父(漢学者とも)福田豊吉と祖母に育てられる。
1911明治44年、青木繁、福岡松浦病院で結核のため死去。享年29。
幸彦はまだ幼く、互いに父と子として顔を合わせないままであった。
祖父は幸彦(蘭堂)が学校から帰ると、読書と漢字の勉強のノルマを課し、そのあとは外遊びを奨励、泥んこになっても叱らなかった。
幸彦はとくに釣りに興味をもち、どんな餌がよいか、ウナギの捕り方など研究し色々な餌を考え、すべて自分で作った。人生の大半が魚を釣ることに関わりをもつことになったのは、この農村での生活が影響していたようである。
1912明治45年春、青木繁の遺作展が東京上野で展覧会が催される。
―――夏目漱石が見に行って、津田清楓に手紙を書いた。 青木君の絵を、久し振に見ました、あの人は天才と思います、あの室中に立つて、自(おのづ)から、故人を惜しいと思ふ気が致します。・・・・・(『偃松の匂ひ』)。
1914大正3年、ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参加。
1918大正7年、上京。京北実業学校に入学。
?年、小泉尺八研究所の門をたたき、琴古流の基礎訓練を受け、次ぎに関口月堂に入門。琴古流の尺八を学び、師範となる。
仲間と共に*虚無僧となり、家々の門口に立ち喜捨を乞いながら旅にでた。喜捨もなくひもじい時には、野から竹を切ってきて糸をつけて手製の針で、川や池で魚を釣り、それを焼いて食べて飢えをしのいだ。
○ 地唄、琴唄、本曲などを学ぶ。同時にピアノ・バイオリンの手ほどきを受ける。
○ 中央音楽院でピアノ、宮内省雅楽部の奥好寛からフルートの吹奏法を学ぶ。
○ 洋楽「トロイメライ」を初めて尺八で演奏。
○ 尺八奏者としてラジオ放送や演奏会で活躍、作曲家としても知られる。
○ 蘭堂の尺八は甘美で人を魅きつける特異な音色であった。
1933昭和8年、「新日本音楽」これに属する重なる団体は主として東京であるが、宮城道雄の一派、町田嘉章を中心とする一団・・・・・安部香山及び福田蘭堂を主とする和洋管弦合奏ならびに独唱を取り入れた一団がそれである。・・・・・(『ラヂオ年鑑』)。
1934昭和9年2月、作家の*直木三十五死去。蘭堂らは芝区の旅館で追善麻雀大会をする。
その際行った賭博行為がのちに表面化し、他の作家や女優等とともに検挙され、実刑判決を受けて翌年、刑期を終え出所。
けやきのブログⅡ<2012.12.28ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・直木三十五②-2>
―――山に入れば狩人、海に出れば漁師、尺八を握れば音楽家、競輪、競馬に打ち込む賭博師、女性と遊べば色事師、ペンを持てば文筆家・・・・・蘭堂の一人息子、*石橋エータロー(かつてのクレージーキャッツのメンバー)さんは、父蘭堂をそう結論づけている。
石橋エータローは蘭堂の最初の妻の子ども。
また、親しい知友は彼を評して天才的蕩児と言い、文壇に於ける釣りの交友範囲も多彩を極めていた・・・・・(『異能異才人物事典』)。
1935昭和10年、映画撮影のためロケ地に向かう途中の船上、女優川崎弘子に無理強いしたことが知られ世間の批判をあび、妻と別れて再婚。再婚後は湯河原で10年ほど隠遁生活を送る。
―――福田蘭堂氏を招いて尺八を聴かして貰つたが、新しく作曲されたものよりも、昔から名曲とされてゐる鶴の巣ごもりとか、鹿の鳴く秋の夜の曲などが綺麗であつた。・・・・・縁側に立つて庭一杯の音色を張つてゐる福田蘭堂氏の後ろ姿が、明治時代の書生のやうに何か慨然とした意気があつた。・・・・・福田蘭堂氏の尺八はもはや尺八の域を超えた玲瓏たるものであり、その繊かさにいたつては此の夕暮れの凡ゆる物音や生きてゐるものを統べて、ひとり縦横に人の心をとらへてゐた。・・・・・(『犀星随筆集』)。
1937昭和12年、盧溝橋事件で日中戦争おこる。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。ポツダム宣言受諾回答。
戦後、音楽家としての活動を再開。
1953昭和28年、日本放送協会のラジオ番組「新諸国物語・笛吹童子」のオープニングテーマ及び劇中曲を手がける。
?年、 尺八と釣り竿を持って世界を行脚。アジア各国をはじめヨーロッパ、アフリカ、アメリカなど、釣りの足跡を世界に残す。
1976昭和51年10月、脳卒中で死去。享年74。
蘭堂はすぐれた父の血と、母方の学者型の血の両方の良き血を受け継いでいたのであろう。父の顔も、母の顔も知らぬ孤児であっても、祖父、そして祖母の慈愛の許での自由奔放な教育が、後年の蘭堂の人間形成に大きな作用を及ぼしたよう。
著述: 『志賀先生の台所:随筆』蘭童著1976現代企画室 / 『福田蘭童の釣った魚はこうして料理』蘭童著・池内紀編1997五月書房 / 文士の食卓(中公文庫)2018中公文庫 / 『ダイナマイトを食う山窩』蘭童著2016川で文庫/ 『わが釣り魚伝』蘭童著ほか / 『いろはにほへど』蘭堂著1905美和書院ほか。
作曲・楽譜その他: 「伊勢音頭」作歌・倉田秀胤、作曲・福田蘭童 / 福田蘭童尺八名曲選:椿咲く村・笛吹童子」 / 月草の夢:福田蘭童尺八名曲集 / 月光弄笛:蘭童作曲・邦楽社
参考: 『異能異才人物事典』祖田浩一1992東京堂出版 / 『印刷庭苑:犀星随筆集』1936竹村書房 / 『偃松の匂ひ : 山岳随筆』小島烏水1938書物展望社 / 『ラヂオ年鑑』1933日本放送協会 / 国会図書館デジタルコレクション
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