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2024年2月12日 (月)

地方は世論の本なり 「北國新聞」創刊、赤羽萬次郎

 能登半島地震から一ヶ月余、被害の大きさにたじろぐばかり。せめて石川県のいろいろを見てみようと図書館に行った。
 石川県の地図をみると、能登半島は南北に細長い。山と海二つながらの自然を持ち合わせる石川県の自然はすばらしい。
 ところが、この度の地震津波で日本海の荒波で発達した海蝕崖、複雑な海岸線は大変なことになってしまった。しかし、苛酷な状況にありながらも各界で石川県人の活躍を知らされると、他所ながらうれしい。
 先だって卓球のTリーグをテレビ観戦していたら、能登の卓球一家の次男・松平健太選手たちのユニホームの脊に大きく[北國新聞]とあった。
 「北国」ならぬ「北“國”」に歴史を感じる。調べると、『北國新聞』は明治期に赤羽萬次郎という信州人の創刊という。
 初めて聞く赤羽萬次郎、知らなかったので見ると、ここにも素敵な明治人がいた。
 その『北國新聞』今なお創刊の志を継いで石川県民の力になっているでしょう。今はただ、被災地の復興なり各々の場所でゆっくり読める日が一日も早いよう願うばかり。

     赤羽 萬次郎    (あかばね  まんじろう)

 1861文久元年、信濃国(長野県)松本の商家の次男に生まれる。
   号、痩鶴。兄は小木曽庄吉・弁護士。弟は林政文、『佐久間象山』著す。

 1879明治12年、18歳。地元の自由民権運動の政治結社「奨匡社」設立に加わり、新聞・雑誌に政論を発表。
  ?年、 *嚶鳴社に入り、沼間守一らに従い新聞などに民権論など発表。
   嚶鳴社:明治初期の民権結社。
       中心人物は沼間守一。『東京横浜毎日新聞』『嚶鳴雑誌』を発行。

 1881明治14年、上京。日本初の日刊新聞『東京横浜毎日新聞』記者となる。
   社主が主催する演説団体「嚶鳴社」(おうめいしゃ)同人として各地を遊説。
   大隈重信の立憲改進党にも参加。
   当時、稲垣萬次郎(明治期の外交官)・鈴木萬次郎とともに三萬と称せられる(『旧藩と人物』)。

 1882明治15年、「赤羽萬次郎(改進党員)東京横浜毎日新聞社員」(「雄弁家能弁家訥弁家一覧:明治演説史・宮武外骨著)。
   1月、『栃木新聞』発刊。田中正造は野村本之助を社長に招き、沈滞気味の『栃木新聞』の振興を図る。
   ―――財政難で新聞用紙も十分に買えず、社長と記者・赤羽萬次郎の給料も支払われない状態で、赤羽が栃木県会の書記となって、ようやく二人の生活を支えた。・・・・・*田中正造もまた二人を信頼・・・・・定願寺で野村らと生活をともにしながら、県会に、忠節社の活動に、新聞事業にその全生活をうちこんだのである。・・・・・(『田中正造』)。
   田中正造:政治家・足尾鉱毒事件の指導者。被害者の側にたち半生をかけ闘う。

 ?年、『栃木新聞』は『足利新聞』と合併。
   赤羽は三島県令の専断を咎めるなどし県会議員らに憎まれ、東京に逃れる。
   田中正造は上京すると赤羽が妻と住む東京牛込神楽坂をたびたび訪れる。

 ?年、 『信濃毎日新聞』主筆。
 1886明治19年、赤羽、金沢の改進党系新聞『北陸新報』に招かれる。
 1888明治21年3月23日、青年記者赤羽萬次郎、「北陸新報」主筆となる。
   ―――まだ27歳というのに明治の新聞界では知られた存在で・・・・・「地方は世論の本なり」の信念のもと着任したのだった。・・・・・金沢では、スター記者を一目見ようと百人を越す市民が出迎えたという。・・・・・(『石川県って、こんなとこ』)。

 1890明治23年、「新聞論説大家」
   ――― 福地源一郎・沼守一・仮名垣魯文・末広重泰・赤羽万次郎ほか25名(「古今名家書画景況一覧」)。
   大垣丈夫の『徳義論』に序を寄せる。

 1891明治24年9月、金石にて在京の大学生・藤岡作太郎(東圃)と知り合う。藤岡はのちに外から北國新聞を助ける。
 1892明治25年2月、第2回総選挙。
   ―――警官二三名、突然北溟社に出張し、赤羽萬次郎氏に面会して、大隈板垣両伯署名の広告に関する、東京発の書翰を求め、既に反古にしたれば之なしと答へしより、乃ち家宅捜索を為遂げたり、今一手は赤羽氏の本宅に向ひ、夫人静子に前同様の書翰を求め、・・・・・夫人、主人不在中、此命に応じ難し・・・・・警官直に赤羽氏に照会して捜査を終りたり・・・・・(『選挙実録』)。

 1893明治26年、「北陸新報」社長、ライバル自由党系に身売り、反発して退社。
   8月5日、『北國新聞』創刊。金沢市南町93番地。
   北國新聞社を興し社長・主筆となり地方新聞改善をはかる。
   ―――萬次郎の「北國新聞」には多くの人材が集まった。東京時代の同志で、にちに「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄は客員として論説人に加わり、文芸評論家石橋忍月は編集顧問で入社した。反骨のジャーナリストとして名を残した桐生悠々、思想家の三宅雪嶺も筆をとった・・・・・肥塚龍も金沢入りし、北國新聞主筆に名を連ねた・・・・・(『石川県って、こんなとこ』)。

   自ら執筆、発刊の辞
   「公平を性とし誠実を体とし、正理を経とし公益を緯とす、わが北國新聞は超然として党派外に卓立す」は、現在も同社の社是として受け継がれている。

   ―――硯友社派の石橋忍月(法学士・小説家)を聘して小説を草せしめ・・・・・泉鏡花も筆をとりしかば、地方新聞としては頗る盛観を呈し、殊に社主の周到なる経営と厳密なる監督によりて、直に北陸新報を凌駕するの勢いを得たり・・・・・(『石川県史4』)。

   ―――社の特色は社務整理して、同業者にありがちなる紛糾乱雑の通弊を認めざるに在り、この点に於ては全国の新聞紙中その比類まれなるべく広告の豊富なること亦地方有数を以て称せらる・・・・・(『新聞名鑑』)。

 1895明治28年5月、2回発行停止の筆禍をうけたが、それ以外は休刊なし。
 1896明治29年、『梅の匂』発表。
   内容は水戸浪士・加賀藩浪士について幕府と加賀藩の情理論(「近代日本歴史講座・明治維新」尾佐竹猛著・1943白揚社)。

 1898明治31年9月、死去。享年36。
   晩年。肺を病み、病床から社運営の指揮を執り原稿を書いていた。
   金沢市の南端、小立野天徳院に葬られる。

   ―――君はわが国の一名士、われは此地の一寒生、政治界はもとより、社会万般の方面に出入せる君・・・・・十余年前君が東西に奔走せし時、・・・・・酒を被りて天下の経綸を談ず、激烈当たるべからざるものありしならん。・・・・・金沢に来たりしより幾何ももなくして不治の病を得たり。・・・・・憎むは悪を憎むのみ。一片の侠骨磨き得て光あり。強きを抑へて弱きを援け、富めるを割かしめて貧しきを賑はす。慈善の業、数へ来れば五指を屈すること数回に止まらざる・・・・・君が主義は思想は深く石川県人の脳髄に染みたり。・・・・・君が志は数十百万人の頭に宿り、その子孫に遺るべし(『東圃遺稿』)。

   ―――君の温厚なる風采と、其の愉快なる弁舌とは、予の稚き脳髄に新聞記者の最も豪きものなるを感ぜしめたりき・・・・・(『江花文集』)。

   同年、弟・林政文、兄萬次郎の意志を継ぎ、「北國新聞」第二代社長となる。

 2008年平成20年8月5日、『北國新聞』創刊115周年にあたり「北國新聞赤羽ホール」開館。

 

   参考: 『東圃遺稿』藤岡作太郎1911~1917大倉書店 /  「古今名家書画景況一覧 明治23年」広瀬藤助編1888真鍋武助 / 『石川県って、こんなとこ』2015金沢経済同友会編 / 岩浪新書評伝選『田中正造』由井正臣1994 / 『田中正造自伝』1926中外新論社 / 『石川県史4編』1873石川県 / 『江花文集』井上忠雄(江花)1910高岡新報富山支局 /  『選挙実録』1892民友社 / 『旧藩と人物』横山健堂1911敬文堂 / 『新聞名鑑』1909日本電報通信社 / 国会図書館デジタルコレクション

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