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2024年2月26日 (月)

戊辰を勇戦した幕臣の明治は外交官、特命全権公使・大鳥圭介(兵庫県)

 はじめに。印刷活字の本『明朝体の教室』の話。
「読みやすい、字形がいい、としか思わなかった印刷文字」に知惠と工夫、文字をつくる人の技術や思いがあると知り、読んでよかった。
 たとえば、文字の形・字画・文字の書き方・書体(楷書・行書・草書・れい書他)・活字体(明朝・ゴシック他)の話等々、興味深かい。
 また、日本で150年の歴史を持つ伊印刷活字、明朝体はどのようにデザインされているのかも解明されている。

 その本に興味深い二人・本木昌造と大鳥圭介が出てきた。
 本木昌造はご存じ長崎のオランダ通詞、活版印刷の創始者。東京に活版印刷所を設立、日本最初の日刊新『東京横浜毎日新聞』創刊に協力したことなどでも知られる。
 もう一人の大鳥圭介は戊辰戦争で会津に味方し勇敢だったのは知っている、明治政府の高官になってから気にしなくなった。ところが、以下の活字の話で気になった。
   ―――本木より早い1850年代後半、江戸幕府の歩兵奉行などを勤めた大鳥圭介が、「楷書+非*連綿仮名」の金属鋳造活字を独自に完成させたことは、あまり知られていません。 大鳥活字を用いた刊行物は、『砲軍操法』『歩兵制律』・・・・・など西洋医学の翻訳書が中心で、十数点が刊行されています。・・・・・(『明朝体の教室』)。
 
   連綿仮名:崩し文字、複数のひらがなを繋げて書く、印刷する。

     大鳥 圭介   

 1832天保3年2月28日、播磨(兵庫県赤穂郡)の資産家、小林直輔の子に生まれる。
 1846弘化3年、このころ備前の閑谷黌で漢学を学ぶ。
 1851嘉永4年? 帰郷して蘭医・中島意庵に蘭学を学び、その勧めで大阪の緒方洪庵に蘭学を学ぶ。
   緒方塾には福澤諭吉・箕作秋坪・大村益次郎・長世専斎らが在学していた。
 ?年、 江戸の坪井忠益の塾に学ぶ。
   ここには子安俊・加藤弘之などがいて、蘭書によって英学や築城学などを研究。江川塾に招かれる。

 1857安政4年、江川太郎左衛門塾で蘭学による兵書を講じ、砲術を学ぶ。
   ―――兵制改革の志ある諸侯の嘱望する所となつて、尼ヶ崎藩主の、或いは徳島藩主の招に応じ、或いは薩州侯の招に応じ、蘭学を教授・・・・・時には写真を研究し、時には活字を鋳造し、時には蒸気船の実物模型さへ作るに至った。かくの如くにして、遂に一躍して幕府の旗本たる機縁を握るに至った。・・・・・(『維新英雄詩人伝』)。
  「楷書+陽連綿仮名」の金属活字を、大鳥圭介独自に完成させる。

 1861文久元年~1865慶応元年、鉛製活版書の始まり
   鉛版の大鳥活字を用いた西洋兵学の翻訳書、『砲軍操法』』『歩兵制律』『築城典刑』など十数点を陸軍所から刊行。
 1865慶応元年、大鳥圭介訳「野戦要務」和蘭軍務局・陸軍所出版。
 1866慶応2年、英才を認められ幕臣になる。開成所洋学教授。
   幕府の歩兵差図役頭取となり、フランス式の歩兵訓練にあたる。大鳥はフランスから派遣された軍事教官からフランス式訓練と戦術を学んでいた。

 1868慶応4年/明治元年、江戸開城。
   幕府倒壊にあたり主戦論を唱え、募兵を率いて江戸を脱走、日光・会津などで新政府軍と戦う。
   宇都宮で大鳥圭介奮戦、近藤勇斬首。
   ―――<旧幕府派が宇都宮城奪取> 四月二日、流山に賊徒屯集の由にて、小銃を打ちかけ攻戦候処、賊徒ほどなく分散し、賊長近藤勇を擒(とりこ)にし板橋に檻送す・・・・・ (慶応4・閏4 太政官日誌)。
   ―――<大鳥隊、官軍を悩ます> 先日来より野州において自ら隊下の兵を引率し、常に奇計を行うて官軍を悩ませり。去る閏四月二十日、白河戦争中に加わりおりしやに風説あれども、実はその時分は日光近郊に潜みおり、当時宇都宮辺に出て城を奪いとらんとの策略を尽くしおる由・・・・・(慶応4・閏・20 東西新聞)。
   ―――大鳥は宇都宮の戦いから若松における最後の抗戦にいたるまで、全戦闘を通じて・・・・・一番すぐれた指揮者の一人であり、また旧主にたいして最も忠誠な家臣であることを示した。彼が指揮するところでは、どこでもその名は大敵とみなされた。・・・・・(『ヤング・ジャパン』)。
   榎本武揚の海軍と合流、箱館まで逃れ、五稜郭に立てこもり榎本武揚らと新政府軍に抵抗。
 1869明治2年、東京で入獄。
 1872明治5年1月、出獄。
   榎本釜次郎(武陽)・大鳥圭介・松平太郎・永井玄蕃・荒井郁之助その他9人禁獄御免になり出獄。開拓使五等として出仕。

   けやきのブログⅡ<2015.12.26長崎海軍伝習所・宮古湾海戦・中央気象台長、荒井郁之助> 

 1874明治7年、大鳥圭介報文「山油編」(石油)・「阿膠編」・「石炭編」、開拓使刊行。
   5月、大蔵少丞となり、大蔵小輔・吉田清成に随行。外債発行の用務で欧米出張。 
 1875明治8年、工部省4等出仕。権頭、工部頭。
   大鳥圭介訳「地球儀用法」〔稿〕、地球儀の用法を記す最初の書。
   『暹羅紀行』シャム(タイ国の旧称)。国王に謁し、人情風俗を視察。
 1876明治9年11月、工部省工学寮に工部美術学校を付設。
   校長・大鳥圭介。画学・彫刻学の2課を設置。
   電線の架設、鉱山採掘の振興を計る。
 1877明治10年、工部大書記官。8月、第1回勧業博覧会。勧業寮四等出仕。

 1882明治15年、工部大学長、学習院長、華族女学校長。
   4月、大鳥圭介訳『堰堤築法』出版。
 1886明治18年、このころ地学協会にて講演。
 1887明治19年1月、大鳥圭介、熊野灘で沈没したイギリス船の船長が日本人乗客25人を救助しなかったノルマントン号事件に抗議。
   6月、『武蔵国並東京 古今沿革図識』出版。
 1887明治20年、東京学士会員。
 1888明治21年、元老院議官、学習院・華族女学校長兼任。
 1889明治22年、清国駐箚特命全権公使。

 1893明治26年、清国駐箚特命全権公使 兼 朝鮮駐箚公使。
 1894明治27年、朝鮮で東学党の乱おこる(甲午農民戦争)。
   甲午農民戦争:欧米化に反対する民族教団の東学党員が多数、指導者として参加。日清両軍が出兵し、反乱は日本軍が鎮圧。
   ―――大鳥公使の受けたる訓令は「平和に局を結べ、兵は一千より多くはだされないぞ」という趣意であった。・・・・・(『維新英雄詩人伝』)。
   6月10日、休暇、帰国中の朝鮮駐在公使・大鳥圭介、陸戦隊をひきい京城に帰任。
    大鳥は政府の命を受け、韓国王に清国兵撤退・内政改革の実行を迫り、日清戦争の起因となる。大鳥は日清戦争の外交工作を画策。
   7月25日、日本艦隊、豊島沖で清国軍艦を攻撃、英国籍の輸送船を撃沈。
   8月1日、清国に宣戦布告。日清戦争。
    日清戦後、その功により枢密顧問官に任ぜられる。

 1900明治33年、男爵、華族に列せられる。
 1904明治37年、日露戦争。
   軍人講学会『学術講話集』日本人の性質。
 1908明治41年9月、『如楓家訓』出版。如楓(圭介の号)。
   ―――文武両道を兼ね、殊に詩文は最も得意とする処で、史籍に能く通じ、著書もまた多くあります。今は、鳥居坂の邸にあつて、風月を友とし、静かに世を閑雅のうちに送られつつあります。・・・・・(『ポケット近世歴史』)。
 1911明治44年6月15日、国府津の別荘で死去。享年79。
   東京青山墓地に葬られる。
 

   参考: 『明朝体の教室』鳥海修2024新藤慶昌堂 / 『近代日本総合年表』1968岩波書店 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『明治日本発掘』1994河出書房新社 / 『ヤング・ジャパン横浜と江戸』J・R・ブラック1987東洋文庫 / 『ポケット近世歴史』神田紫芳1911日吉堂 / 『維新英雄詩人伝』堀江秀雄1943大日本百科全書刊行会 / 国会図書館デジタルコレクション

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