大正15年石川郡戸板村の読書会、図書館人・中田邦造
今から13年前、2011平成23年6月 "能登が日本初の世界農業遺産に"
―――「能登の里山里海」は稲の天日干し、海女漁などの伝統的な農林漁法や、揚げ浜式製塩、輪島塗、炭焼きなどの伝統的な技術、「白米千枚田(しろよねせんまいだ)」をはじめとする棚田、強い潮風から家屋を守る間垣(まがき)など日本の農山漁村の原風景ともいえる景観などが評価された。・・・・・(『石川県って、こんなとこ』)。
今からおよそ百年前、大正15年1月、石川郡戸板村で 「耕心会」 という読書会がはじまった。農村青年に読書指導をしたのは、滋賀県出身の中田邦造である。
この中田邦造もそうだが、『北國新聞』創刊の赤羽萬次郎も他県の人である。 石川県は出身地がどこであれ受け入れ、活躍できる地のようだ。
中田 邦造
1897明治30年6月1日、滋賀県甲賀郡柏木村、中田己之助の長男に生まれる。
1904明治37年、日露戦争。
1912明治45年、滋賀県立膳所中学校入学。
1914大正3年、ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参加。
1917大正6年、21歳。第八高等学校入学。
1920大正9年7月、京都帝国大学文学部哲学科入学。
1923大正12年、京大大学院入学、純正哲学専攻。
4月、高等学校高等教員免許。
9月1日、関東大震災。
12月1日、一年志願兵として*輜重兵第十六大隊に入営。
輜重兵:陸軍の兵科の一つ。前線部隊に武器弾薬、食糧その他の機材を補充することを任務とする。
1924大正13年、28歳。*予備役に編入され招集。
1925大正14年、29歳。予備役招集を解除され陸軍輜重兵軍曹。
4月10日、石川県主事。
以後、15年間石川県の読書会活動、図書館経営に大きな足跡を残す。
7月、石川県社会事業協会発行「石川県之社会改良」編集に携わり、本名のほか「自邦居士」「空人生」などの号を用い論文・随筆、「社会生活の自覚的活動としての社会事業」「緑化運動」「農民美術の紹介」などを発表。
1926大正15年、 石川郡戸板村で、読書会「耕心会」をはじめる。
―――ある農村青年は読書の悩みをうちあけて 「活字を読むことが厄介なのでなない。農作業の疲労からくる睡魔といかに闘うかが問題で、真冬に冷水をかぶるといった一時的方法は効果がない」・・・・・邦造は「まずアルコールを極力へらすこと、夕食はあまり食べすぎない様に」・・・・・あるときはやさしく、あるときはきびしく激励して青年たちにいいきかせた。
・・・・・ 中田はまず青年たちを集めていくつかの本をならべる。 それぞれザッと解説して、これからこんなものを読んでいこうと思うのだが、本当に参加したいものは残れ ・・・・・「中田先生が偉いのは毎月読書会に必ず出席するんだ。どんな雪の寒い日でもチャンと・・・・・3分から5分の発表を七、八人にさせてからご自分の話に入る。その話は大変に幅が広く、*西田(幾多郎)哲学、恋愛問題そして農業経営、トマトの栽培法にまで及ぶ」。・・・・・(『石川県の百年』)。
西田幾多郎:石川県かほく市出身。明治・大正・昭和期の哲学者。
「善の研究」によって純粋経験の立場を確立、以後東洋の伝統的思考を西洋哲学に対決させ、「働くものから見るものへ」における場所の論理によって西田哲学といわれる独自の体系を構築、青年知識人に大きな影響を与えた(『日本史辞典』)。
1927昭和2年、31歳。石川県立図書館事務取扱。
―――中田は「本というものはわからんでもいい、覚えるのは愚の骨頂で考える力を養うんだ、そして読んだ後に実践におもむく勇気がおこるとうのが本当の本の読み方だ」・・・・・こうした指導によって青年たちは一歩一歩成長し、個性的になっていった。・・・・・(『石川県の百年』)。
1929昭和4年、石川県立図書館協会を設立、会長をつとめる。
加越能図書調査会を組織:加賀藩時代にかかわる資料・宗教文書・郷土関係者の作品などを収集。
1931昭和6年、35歳。石川県立図書館長。
3月、「石川郡北部読書学級の成立」(図書館協会協会報)。
5月、「羽咋郡志賀郷読書学校について」(同前)。
9月18日、柳条湖事件、満州事変はじまる。
10月、全国図書館大会を金沢市で開催、郷土展覧会を行う。
1932昭和7年、『亀の尾の記』柴野美啓著・日置謙校訂、石川県図書館協会発行。
金沢市内における町名の由来、神社仏閣の来歴から、藩士中高禄ものの系譜家伝をも記し・・・・・ずいぶん考証家の引用するところの書でもあり・・・・・郷土研究家に参考資料を提供するとして発行。
4月、『公共図書館の使命』石川県社会教育課発行。
―――図書館は単なる文庫にとどまってはならない、「特殊な図書の蒐集にあらずして、社会大衆のためにある」・・・・・図書館員の仕事も「図書を図書として扱ふことにあるのではなく、図書と人を結びつけるところにある」と強調する。・・・・・社会教育の最良の場が図書館である。・・・・・ これまで陽のあたらぬ地味な地位にあった図書館と、その管理人としか見られなかった図書館職員とに、本来の地位を回復させるためのあたたかな愛情がこの書にはあふれている。・・・・・ (『石川県の百年』)。
1934昭和9年2月12日、片山津温泉の説教場で四日間、講演と研究討議があり毎回、農民数十人が参加。
講演者:石川県立図書館長・中田邦造、弁護士・村沢義二郎、石川県農林課長・岡利和、石川県会議員・宮永盛雄、妹尾義郎、金沢医科大学教授・村上賢三、北國新聞社政治部長・山本淸嗣。
「一向一揆と富樫氏」中田邦造(『昭和九年の国士学界(筑波研究部年刊第6冊)』)。
1936昭和11年、珠洲郡図書館を視察。
加賀能登を中心とする日本海文化展覧会。
『加能越士族伝』森田平治著・日置謙校訂、石川県図書館協会。
1937昭和12年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争全面化。
1940昭和15年、43歳。3月、石川県立図書館辞職。
昭和ファシズムの時代になり地道な文化活動ができなくなり辞職、東京に転居。
4月、東京帝国大学図書館司書官。
9月、日独伊三国同盟に調印。
1943昭和18年12月1日、第一回学徒兵出陣。
1944昭和19年7月、東大図書館司書官を辞職。都立日比谷図書館長。
世界大戦苛烈で館の重要資料、加賀文庫など郷土資料を疎開。
また、井上哲次郎、市村瓉次郎、諸橋徹次、桑木厳翼など四十数氏の図書約30万冊を買い上げ、疎開。
1945昭和20年8月、終戦。
1949昭和24年9月、53歳。日比谷図書館長退職。
1956昭和31年11月15日、死去。享年59。
―――石川県七尾から葬儀に駆けつけた中田の高弟のひとり梶井重雄は中田邸に咲きみだれる花をみながらつぎのような言葉で師を見送った。「サルビアの花からの連想で、先生の一生は輝くばかりの燃焼の継続であった」・・・・・(『石川県の百年』)。
―――石川県立図書館の正面玄関に、第四代館長・中田邦造氏の胸像。この像は平成9年6月に中田氏の生誕百年を記念して設置・・・・・(「石川県立図書館報・いしかわ no.327」)。
参考: 個人別図書館論選集『中田邦造』梶井重雄編1980日本図書館協会 / 『石川県の百年』1987山川出版社 / 『現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『石川県って、こんなとこ』2015金沢経済同友会編 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本史辞典』1981三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
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