明治の大阪、内国勧業博覧会“羨望の冷蔵庫”
能登半島地震から一か月、倒壊家屋の取り壊しが始まった。寒さの中、工事を見守る被災者の胸の内はいかばかり・・・・・。
折しも、大阪万国博覧会について延期・中止が取りざたされている。今回中止すべきという意見も少なくないが強行の気配だ。1970昭和45年以来の二度目の大阪万博、如何。
ところで、明治政府は殖産興業政策として万国ならぬ内国物産博覧会を催した。
1~3回東京上野、4回目は京都岡崎、5回目大阪内国勧業博覧会まで開催された。
その時どきのエピソード、とくに120年余り前、大阪内国勧業博覧会などをかいま見てみた。
―――博覧会なる文字は、故福澤翁が英語のエツキスビシヨン若しくはフエヤーの字を訳し、初めて「西洋事情」の中に使用したるものなる事は、普ねく人の知る所・・・・・(中略)・・・・・吾国にも博覧会を開くべしと主張するものあるに至り、遂に其一番手として明治十年先つ内国に整備せる博覧会を開くことと決したり。 ・・・・・時に彼の西南の乱(西南戦争)は起れり、・・・・・開設を延期せんと唱ふるもの有りしか・・・・・人心を安堵せしめ、政府の威信を示すにも、かならず之を開かざる可からずと・・・・・(第五回内国勧業博覧会要覧)。
1877明治10年8月、第一回内国勧業博覧会(東京上野公園)
出品点数8万余、入場者45万人。出品物は工芸品を主としたが回を重ねるにつれ、機械類が増加。共進会とともに、産業技術の発達に大きな役割を果たす。
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1881明治14年3月、第二回内国勧業博覧会(東京上野公園)
妙技2等・河鍋暁斎、*高橋由一ほか。
ラグーザ玉<婦人三弦弾奏図>評判となる。
―――【ビスケット博覧会で入賞】西洋菓子をこしらえはじめた風月堂米津松造が、先年から舶来の大器械で製するビスケットという滋養菓子は、海軍の兵粮に適当の品で、博覧会に進歩二等賞を賜り・・・・・(東京絵入新聞 明治14.12.27)。
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1889明治22年、パリ万国博覧会
―――この日、夜に入りてハトロガデロ及びシャンドマルスの高楼エッフェル塔上、セーヌ河往復の汽船、セーヌ各橋その他、市街の各地にはおびただしく諸種の点火をなしかつ烟火(はなび)を揚げ、すこぶる盛観を極め、到る所人衆群集・・・・・(東京日日22.7.18)。
―――(1867慶応3年パリ万博)パリのシャンド・マルスを会場として開催。日本は、幕府・薩摩藩・鍋島藩がそれぞれ日本国を名乗って参加、多数の浮世絵・美術工芸品など出展。
徳川慶喜の名代として水戸藩主・徳川昭武が渡仏したが、滞在中に幕府が瓦解した話はよく知られる。
そのせつ、幕府瓦解で送金が途絶えた英国留学生と取締・*川路太郎ら一行を助けたのが渋沢栄一である。徳川昭武の滞在費の中から帰国資金を工面したのである。
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1890明治23年4月、第三回内国勧業博覧会(東京上野公園)
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1894明治27年8月1日、日清戦争、清国に宣戦布告する
1895明治28年4月、第四回内国勧業博覧会(京都岡崎公園)
―――<「朝妝(ちょうしょう)」めぐって騒然>・・・・・黒田某氏の裸体美人画は、近日世上の一論題たり。・・・・・審査官が取ってもって美術館の一列品とすべしと鑑別したるについては・・・・・裸体画をもってことごとく美術の範疇外に排斥するは、吾曹が審美の通則において同意するあたわざる所なり・・・・・(東京日日、明治28.5.1)。
―――<九鬼隆一が擁護論> 衆口喁々(ぎょうぎょう)、一に非難の焦点となりしかの京都博覧会の裸体人形につき、このほど九鬼審査総長より小倉警視に贈りし書翰あり。・・・・・(中略)・・・・・ 万国博覧会をも開設致され候場合に至りても、とうてい本邦のみひとり裸体人形を防ぐ訳にも相なりがたく、あながちこれを排却致すようにては、満足に世界の物品を蒐集して開会する事さえも覚束(おぼつか)なく候・・・・・(東京朝日28.5.2)。
1903明治36年3月、第五回内国勧業博覧会(大阪市今宮)
―――大阪湾波静かにして、近畿の峰巒(ほうらん)遠く春靄の間にあり。大阪城の南、四天王寺の西、茶臼山の邱陵に対して新築されたる幾多の傑閣層楼は、輪奐(建物が巨大で華美)広壮の美を極めて浪華の旧都に一種の異彩を放ち、遥かに大阪築港と相対して日本商工業の重鎮たる我が大阪市の前途を祝するに似たり・・・・・日清戦役以後における新日本の膨張的新現象を見舞わんがために、海陸各方面より雲集すべき内外幾百万の来館者は本日以降この大博覧会によりて歓迎せらるべし。・・・・・(大阪毎日36.3.1)。
―――【冷蔵庫に人気】冷蔵庫は日々の縦覧者非常に多く、二、三十分待たざれば容易に入庫しがたき有様なるが、冷蔵庫の効能もよほど知れ渡りしと見え、・・・・・同庫を閉会後いかに処分するかは、当局者間においてもなお未定・・・・・中には宮内省に献上すべしとの説もある由・・・・・(大阪毎日36.4.23)。
―――<素晴らしい夜のイルミネーション>(*菊池幽芳生) この頃の博覧会の夜会こそ、未曾有の美観と盛観とを併せ極めおり候。・・・・・ただ見る、高塔噴水の周囲より大通路を美術館前楊柳観音の辺まで人をもて埋められ、真黒になりおる有様は実に想像以外にこれあり・・・・・これらの人々が皆大通路を見下ろして佇立し、・・・・・イルミネーションの点火とともに、群衆がアッと喝采する声、美なりと嘆称する声の相合し、潮のごとく伝わり来るところ、我も人も酔えるがごとく、覚えず壮観を絶叫せざるあたわず候・・・・・(大阪毎日36.5.5)。
菊池幽芳:作家、大阪毎日新聞記者。
―――大日本体育会ノ設置セル体育場ハ台湾館ト阿倍野門路ヲ挟ンデ・・・・・広サ東西二十五間南北三十八間場内ヲ分チテ運動場 陳列室 及 室内遊技場ノ三部トシ・・・・・随意入場シテ運動ヲ試ルニ任せ・・・・・室内遊技場ニ於テハ室内操縦術「ピンポン」等ノ設備アリテ是亦自由ニ入場試用スル事ヲ得・・・・・(第五回内国勧業博覧会協賛報告書)。
1904明治37年2月10日、宣戦布告、日露戦争始まる。
参考: 『日本史事典』1981角川書店 / 『第五回内国勧業博覧会要覧・上巻』1903第五回内国勧業博覧会要覧編纂所 / 『明治日本発掘 2・7』1995河出書房新社 / 「第五回内国勧業博覧会協賛報告書」1903第五回内国勧業博覧会協賛会 / 国会図書館デジタルコレクション
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