明治・大正時代の商事会社、鈴木商店主宰・鈴木よね
音痴でも音楽は好き、オーケストラの演奏を聴くと気分があがるもご無沙汰してる。
ある日、「題名のない音楽会」が60周年を迎え初期の映像を放送、見ると、初司会者・黛敏郎の姿が、わぁ~懐かしい。昔を思い出す。
毎週のようにハガキで公開録画に応募、日本橋の勤め先から虎ノ門の教育会館ホールへ行った。オーケストラは素敵、それは楽しみだったのに、いつしか見なくなり、今また、視るようになった。
話は変わるが、昔も今も生活に困らなくても働く女性がいる。それも大いに活躍したりする。夫亡き後、その事業・鈴木商店をついで発展させた鈴木よねもその一人である。
鈴木商店は第一次世界大戦中に急成長、日本最大商社となったが破綻。昭和2年の金融恐慌の一因ともなった商事会社である。よねと鈴木商店のゆくたてを見てみたい。
鈴木 よね
1852嘉永5年8月、兵庫県姫路に生まれる。弟、西田幾多郎。
1870明治3年、19歳で神戸の砂糖商・鈴木岩次郎と結婚。子は男子2人。
1877明治10年、岩次郎、鈴木商店を経営、砂糖・樟脳事業を始める。
1894明治27年、岩次郎死去。妻よね、事業を継いで、番頭・金子直吉ともに事業を主宰。
―――「皆さんのお力で此店を維持して下さい。亡夫の遺業を継いで努力するには、妾も襷掛けで店の人達と同様に働きます・・・・」自己は唯家長として、重要問題に最後の決定を与ふるの他、一切小事に拘泥せす。されど懸命なる刀自は、対局を綜覧し、全般の監視督励を忽せにする所なかりしを以て、この名主人と、名番頭の天下となりて・・・・・(『関西四大富豪と其事業史』)。
―――お婆さんの数は日本に大分あるが、鈴木のお婆さんの如きはそう沢山ない、何しろ神戸の傑物金子直吉君でさへ、今以て唯一言「直吉」で左右されるんだからエラいもんだ。・・・・・社交的には顔をださぬ内輪の方だが、代表社員の名を重んじて商店には毎日自動車で乗りつける、女文字の上手な筆跡で重要書類にサインするのはいヽが、店の者を可愛がるの余り庭園でとりたての大根や蕪を自動車に積込んで毎度社員達に振りまく、社員は車代と差引いて高い大根についても喜んでもつて帰るさうだ。・・・・・・(『財界楽屋新人と旧人』)。
1899明治32年、鈴木商店番頭・金子直吉、台湾総督・後藤新平に協力して「台湾樟脳専売法」を成立させ、台湾樟脳の65%販売権を得、同商店の発展の基礎を築く。
1902明治35年10月、鈴木商店、合名会社となる。
個人経営を継承、本店・神戸、資本金50万円、総支配人・金子直吉。
1905明治38年8月、小林製鋼所を(名)鈴木商店が買収。
9月、神戸製鋼所設立(小林製鋼所を改称。明治11年、株式会社となる)。
1908明治41年、大里製糖所を創設。
金子の投機的経営で成功。
1913大正2年5月、大正生命保険株式会社開業。
―――同社は神戸の豪商鈴木商店一派の発起に係り、資本金五拾万円を以て明治四五年中報国生命として認可申請したるも、大正の改元と共に大正生命と改め・・・・・伯爵柳原義光氏社長に・・・・・大株主 鈴木よね、藤田助七・・・・・(『ダイヤモンド保険総覧』)。
1914大正3年、第一次世界大戦。
鈴木商店は大戦を機に、小麦・肥料・ゴム・銑鉄・綿花そのほかの各種商品を扱い、世界主要都市に支店・出張所を設け、直系・傍系会社60余、関係資本総額5億6000万円に達し大戦中に急成長、日本最大商社となった。
鈴木の黄金時代を画して、よねは女傑と詠われる。
1915大正4年3月7日、鈴木よね、長年の事業への貢献が評価され「緑綬褒章受章」(内閣総理大臣伯爵大隈重信)。
―――お米さんを女傑だとか女丈夫だとかいふ者もあるがそんな面影はない。ただ店員を収攬するの同情があつて、書類は分らうが分るまいが一々叮嚀に見ても、商店の方針は一切金子、柳田両重役の意見をいれて、一旦かうときめた事は後日どんなことがあつても変更しない、女としては珍しい度胸だ・・・・・大一線にたつ若手が自由の手腕を磨きうるのも源をたづねるとお家はん(よね)の豪(えら)い處にある。・・・・・(『財界楽屋新人と旧人』)。
1918大正7年5月、農商務省、外米管理令に基づき、三井物産・鈴木商店・湯浅商店・岩井商店を外米輸入商に指定、外米管理を開始。
7月、富山で米騒動おこる。神戸では、無数の群集が鈴木商店、神戸新聞社を焼き討ちした。略奪にも遭うが、よねは倉庫が無事と聞いて、本宅の蔵に自らも立ち交つて土を塗りつけ土蔵を守ると、金子の妻らと米子の温泉に落ちのびる。
1919大正8年1月、<大蔵省告示> ―――神戸市東川崎一丁目一番地 合名会社鈴木商店 代表社員鈴木よねに対シ神奈川県橘樹郡保土ケ谷町字帷子所在、私設仮置場蔵置貨物竝作業ノ種類追加左ノ通認許せり・・・・・大蔵大臣男爵高橋是清。 一、蔵置貨物ノ種類 外国貨物 木蝋 二、外国貨物 木蝋ノ精製硬化。
―――「大阪案内:資産家番附」西関・鈴木よね・三千八百万円(南洋新聞社)。
1920大正9年、戦後恐慌で鈴木商店は大打撃を受け、資金難におちいる。
とくに中国貿易の不振が、中国に関係の深い鈴木商店に大きな影響を与えた。台湾銀行は、鈴木商店と関係が深く莫大な融資をつぎこんでいた。
一方、台湾銀行の持つ震災手形は一億円以上でそのうち八千万円以上が鈴木商店の手形で、台湾銀行が休業したため恐慌は一挙に拡大、その他の銀行も取付けにあった。
1923大正12年9月1日、関東大震災。鈴木よね 百万円寄付(『関東震災画報』)。
1926大正15年、台湾銀行の破産は、植民地支配に大打撃を与え日本資本主義を混乱させる。そこ、で政府・日銀は、鈴木商店・日本製粉(株)の救済のため、資金援助措置を決定(台湾銀行より両社に800万円ずつ融資)。
1927昭和2年、震災手形問題。
台湾銀行の鈴木商店への不良融資が政治問題化、金融恐慌の一因となる。台湾銀行は鈴木商店への不良貸付で経営不振となり倒産。
4月5日、(株)鈴木商店、新規取引中止を発表。鈴木商店破綻。
―――破産した鈴木商店関係の企業は新しい分野である重化学工業部門のものが多かったが、それらは殆んど三井・三菱に分割された・・・・・(『近代日本史の基礎知識』)。
1928昭和3年、よね、歌集『鈴乃音』を出版。
ふる里の青葉かくれに老ぬれど 声なつかしくうくいすのなく
やとかへにとり残されて淋しく こすもす(コスモス)めたつ秋の暮かな
豊なるみよのためしといくさ船 多くならへてきみみそなはす
<昭和二年の夏半年はかり店に行かざりしが事のついてに立ちよれたりは今は人の数も少なくていとさひしくなれりけれは>
きのうふまて狭しとおもひし我店の何とはなしに物のさひしき
1938昭和13年5月6日、神戸の西郊、垂水で死去。享年86。
―――新日本の大富豪、大事業家として、その声明を謳はるるに至りしもの、一によね子刀自の賓なり。刀自が婦道の精華を発揮し、凜として侵し難き権威を持し、一婦人の身を以て、商業道徳を実践躬行し、範を汎く我邦婦人界に垂れたる・・・・・現代の女丈夫と称賛するも、決して過当にあらざるべし。而も闊達にして剛健なる裡には、女子らしき温順なる性格を失わず。夫の死後二十幾年間、幾百千の店員、傭人を使用ししヽ、一片の世評にすら上るなく、神戸の財界より、日本は云はずもあれ、全世界の経済市場に活動しつつあり。・・・・・刀自の如きは正に婦道の亀鑑と云ふべく、刀自の其の総ての行動性行は、男子と雖も遠く及ばざるもの多し。・・・・・(『関西四大富豪と其事業史』)。
参考:国立公文書館ニュースNo72016.9~11月 / 『日本史辞典』1981角川書店 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『近代日本総合年表』1968岩波書店 / 『財界楽屋新人と旧人』朝日新聞経済記者共編1924日本評論社 / 『ダイヤモンド保険総覧』1914保険通信社 / 『近代日本史の基礎知識』1988有斐閣ブックス / 『大日本女性人名辞書 』高群逸枝1942厚生閣 / 『関西四大富豪と其事業史』1919大阪万朝報社 / 国会図書館デジタルコレクション
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