昭和も遠くなりにけり、昭和始まりから占領ころまで
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
1939昭和14年、俳壇の注目をあつめたこの一句、作者・中村草田男(くさたお)は、1901明治34年、清国福建省廈門(あもい)生まれ。
幼いころ東京に移り、12歳で父の郷里、松山に帰郷して松山中学に入学。17歳で『ホトトギス』を読み投句をはじめ、25歳で東大独文科入学、その後の活躍はよく知られる。
さて、「明治は遠くなりにけり」といえば「昭和も遠くなりにけり」と続けたくなる。
―――昭和という時代はたんに長いというだけでなく、歴史的な大変化・大変革を経験したという点でも他に例をみない。昭和初頭の大恐慌、十五年戦争、原爆投下そして敗戦。つづく連合国軍による占領の数年間に、われわれは旧体制が音をたてて瓦解していく姿を目のあたりにした。約七年間の占領が終わって、日本は国際社会に復帰し、一九六〇年代にはパクス=アメリカーナ(アメリカによる平和)のわく組のもとで驚異的な高度経済成長をとげた。・・・・・(『昭和時代年表』)。
思えば、明治は45年、大正15年は短く、昭和の64年はいかにも長い。
校舎の壁に空襲の焼け跡がある東京墨田区第二寺島小学校に入学した筆者からすると、わが子が生まれた昭和43年とは社会の空気も暮らしも大違い。でも、そこまで振りかえるには紙数が足りない。昭和の三分の一、始まりから敗戦ころまで見てみた。
ついては、中村政則編著『昭和時代年表』から多くを参照させてもらった。
1926昭和元年、元年は一週間しかなく事実上、昭和は昭和2年から始まる。
1927昭和2年、金融恐慌。明治維新はじまっていらいの金融史的大事件。
良くも悪くも昭和の激動と不安をつげる事件があいついだ。
震災手形処理について議会での蔵相・片岡直温の失言をめぐり取付騒ぎが起き、台湾銀行休業をはじめ銀行・会社の破産・休業が続出。田中義一内閣がモラトリアム(支払い猶予令)で収拾。弱小銀行整理、大銀行への集中の契機となった(『近現代史用語事典』)。
5月、対中国強硬外交の田中内閣、中国の山東地方へ出兵。
7月、作家・芥川龍之介、自宅で劇薬自殺。
その死は、青年や知識人の思想的苦悩を反映していた。
けやきのブログⅡ2018.7.21<東京田端、芥川龍之介(東京)>
12月、わが国最初の地下鉄、上野-浅草間に開通。
1928昭和3年2月20日、第16回総選挙:最初の男子普通選挙。
選挙権は25歳以上、被選挙権は30歳以上の男子。生活扶助を受ける困窮者や女性に選挙権はなかった。
8月、アムステルダムで第9回オリンピック。
三段跳びの織田幹雄、平泳ぎの鶴田義行が日本選手初の金メダル獲得。女子の人見絹枝が銀メダルを獲得。
けやきのブログⅡ2021.1.16<アムステルダムオリンピック・人見絹枝、東京五輪・東洋の魔女>
1929昭和4年4月、ロンドンで海軍軍縮条約調印。
1930昭和5年1月、金解禁、金本位制に復帰。
しかし、折からの世界恐慌の影響を受け輸出不振、金流出で失敗に終わる。
1931昭和6年、昭和恐慌:小売商の倒産が目立つようになった。
農業恐慌:本格的・全面的となり東北・北海道は「凶作飢饉」に見舞われる。
漫才や落語がはやり、古賀政男作曲♪「酒は涙か溜息か」が人々の心をとらえた。
満州事変:9月奉天郊外柳条湖での満鉄路線爆破事件をきっかけとする日中戦争。
1932昭和7年3月、日本は清朝最後の皇帝、溥儀を執政にたてて満洲国をたてる。
血盟団事件:秘密結社。一人一殺主義で政・財界の要人を暗殺。これにより護憲三派(憲政会・政友会・革新俱楽部)内閣以来続いていた政党政治はとどめを刺された。
1933昭和8年3月、日本は国際連盟を離脱。国際的孤立の道を歩みはじめる。
昭和生まれが小学校入学。
国語読本「サイタ サイタ サクラガ サイタ」。
1934昭和9年、民間5社が合併して日本製鉄株式会社設立。
9月21日、室戸台風が京阪神を襲う。死者・行方不明3036人。
11月、アメリカ野球のホームラン王、ベーブルース一行来日。
読売新聞主催で17試合したが日本は0勝。これがきっかけで日本初のプロ野球団誕生。
1935昭和10年2月18日、貴族院本会議で、右翼議員の菊池武夫は、東京帝大教授・美濃部達吉の天皇機関説を「国体を破壊する反逆の学説と」攻撃。この事件は、自由主義的な学説や思想をも排撃して、軍部のいいなりになる政治への道をひらくことになった。
けやきのブログⅡ2017.6.3<法律学者・弁護士、菊池武夫(岩手県) & 陸軍軍人、菊池武夫(宮崎県)>
1936昭和11年2月26日、二・二六事件。皇道派青年将校らによるクーデター。
首相官邸ほか数カ所を襲撃、斎藤実内大臣、高橋是清首相らを殺害。同日、戒厳令施行。天皇は激怒し奉勅命令で反乱軍を包囲、鎮圧。死刑17名。
―――「近現代日本最大のクーデター未遂」といわれる2.26事件から88年の2月26日、東京都内2カ所で追悼式と慰霊法要が行われた。事件に参画した青年将校の遺族らが亡くなった人たちの冥福を祈り、それぞれの思いを語った。・・・・・(2024.3.3毎日新聞)。
8月、ベルリン・オリンピックで前畑秀子が女子200m平泳ぎで優勝。マラソンで朝鮮人孫基禎(そんきしょん)優勝。
1937昭和12年7月7日、盧溝橋事件。
夜間に演習中の日本の駐屯軍と中国軍が衝突。日中戦争の発端となる。中国国内では日本の侵略にたいして、抗日民族統一戦線の結成、各地で激戦が続いた。
12月、南京を占領。この上海から南京への進撃の過程、また占領にあたり、おびただしい数の非戦闘員や捕虜が殺された。これについて、戦後の東京裁判、南京の戦犯裁判で問題になり、現在も論争が続いている。
この年、永井荷風の『墨東綺譚』が大人気となり、双葉山が横綱に推挙され、「愛国行進曲」が流行。
1938昭和13年5月下旬、中国軍の粘り強い抵抗にあったが、やっと徐州を占領。
この徐州作戦は火野葦平の『麦と兵隊』、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」になった。
―――武漢攻略を機に、日本軍は戦略的攻勢から守勢へ、中国軍は戦略的守勢から反攻準備にうつり、日中戦争は持久戦段階に移行した・・・・・日中戦争が長びくにつれて国内における戦時体制はいっそう強化された・・・・・国民生活では綿製品の製造販売が禁止され、代用品時代、「やみ」時代がはじまった。・・・・・防空訓練など民衆生活にも戦時色がめだってきた。・・・・・(『昭和時代年表』)。
1939昭和14年5月、満蒙国境紛争をめぐりノモンハンで日ソ両軍が衝突。
8月、第二次世界大戦はじまる。
1940昭和15年、「皇紀二六〇〇年」(神武天皇即位以後)の全国的祝賀行事行われる。
1941昭和16年1月、青少年に煎じ訓練をほどこすねらいとして大日本青少年団結成。小学校は国民学校と改められる。
―――日本軍が仏領インドシナ南部に進駐したとき、日本の意図が南方への前進基地建設にあることを暗号解読によって知ったアメリカ側は、在米日本資産を凍結、八月一日には石油の全面禁輸という経済制裁措置を実施した。当時、日本は、石油輸入量の三分の二以上をアメリカから輸入していたため、この経済制裁によって、いっきょに窮地においつめられる・・・・・(『昭和時代年表』)。
10月、主戦論者の東條英機を首班とする内閣が成立。
12月8日、日本軍はアメリカ太平洋艦隊の基地ハワイの真珠湾を奇襲攻撃。
1942昭和17年、日本軍の緒戦勝利がつづいた。
1月、フィリッピンのマニラ占領。
2月14日、オランダ領スマトラ島の油田地帯を占領。15日にはシンガポールを陥落させ湘南島と改称。
2月、衣料の消費規制のために衣料切符制実施。戦争の開始とともに大衆団体を統合、大日本婦人会、大日本翼賛壮年団など。
6月、ミッドウエー海戦で日本は4隻の航空母艦を失う。
8月、南太平洋上のガダルカナル島へアメリカ兵約2万名上陸。補給と装備の不足した日本軍は、飢餓と病気に苛まれて劣勢であった。しかし、国民に知らされず「欲しがりません勝つまでは」など戦意高揚が求められた。
1943昭和18年1月、内閣情報局は、若者に人気の英米音楽リストを発表、これらの演奏やレコードの発売を禁止。
文芸作品も谷崎潤一郎『細雪』など情報局の圧力で掲載中止となる。
5月30日、アッツ島の日本軍守備隊が戦死と自決によって全滅。当局は玉砕とよんで美化した。
10月21日、学徒出陣の壮行大会、雨の神宮外苑競技場で挙行。最後に数万人の参加者全員で悲壮感みなぎる「海ゆかば」が歌われた。
徴兵された学生たちの悲劇は『きけ わだつみのこえ』になまなましく描かれている。
1944昭和19年7月7日、サイパン島陥落。
守備隊3万人と住民1万人は戦死または自決。
労働力不足のなかで、学生の勤労動員、朝鮮人・中国人の強制連行があった。
8月、大都市の国民学校児童の学童疎開が決められた。
10月10日、米軍が沖縄に大がかりな空襲、那覇市街は丸焼けに。
24日、レイテ沖海戦で日本連合艦隊敗北。この直後から神風特攻隊の攻撃開始。
11月24日、アメリカのB29約70機東京空襲、本格的な本土空襲はじまる。
1945昭和20年、戦局はいっそう悪化。
3月、B29150機が東京爆撃、ついで大阪を襲った。
―――沖縄戦は「鉄の暴風」といわれるほどに激しい砲爆撃がくりかえされ、喜屋武(きゃん)半島にうちこまれた弾丸の数は六月だけでも六八〇万発、島民一人あたり五二はつというすさまじさであった。・・・・・アメリカ軍に捕らえられる前に手榴弾などで集団自決をする民衆があいついだ。・・・・・五月七日、ナチス。ドイツが連合国に無条件降伏・・・・・日本政府内では七月にはいってようやく終戦工作が極秘のうちにすすめられるようになった。・・・・・(『昭和時代年表』)。
8月6日、アメリカ、広島に原爆投下。約14万人が悲惨な死をとげる。
8月9日、長崎に2発目の原爆投下、死者は約7万人にのぼった。
このような事態になって日本はポツダム宣言に受諾を決定。
8月15日、連合国に無条件降伏をして、第二次世界大戦は終わる。
9月1日、GHQは東條英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令。
10月9日、幣原喜重郎内閣成立。
マッカーサー連合国最高司令官は、幣原内閣に「人権確保の五大改革」を指示、民主化を進めるよう要求。
12月17日、20歳以上の男女に選挙権が与えられ、婦人参政権はじめて実現。
敗戦の荒廃:大都市では空襲による被害がひどく、住む所も食べる物もない有様であった。占領軍に対する批判は禁じられ、紙不足のため本の出版も途絶えがちだった。
この年、戦後映画の第一作「そよ風」が封切られ、並木路子が歌う主題歌「りんごの唄」が人びとのこころをとらえた。
1947昭和22年5月3日、「日本国新憲法」基本的人権の保障・主権在民・戦争放棄の三つを基本とする新憲法が実施された。
2024令和6年、ロシアのウクライナ侵攻止まず。
参考: 『昭和時代年表』中村政則編1986岩波ジュニア新書 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店 / 『日本史辞典』1981三省堂
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