天才数学者・詩人・文化と教育、岡潔
春3月は卒業シーズン。遥か昔に女子高を卒業、思い返せばただ懐かしい。
友との別れは淋しかったが、赤点免れるのがやっとの数学にサヨナラできた。そんな数学、まして数学者に興味はなかった。
ところが、数学者に“詩人”と冠するものを見、また和歌山県紀見村(橋本市)で困窮した生活の中で主要な論文をまとめ上げたというエピソードにひかれ、岡潔に興味をもった。
橋本駅から南海高野線に乗って高野山に行き宿坊に泊まった事がある。その体験から豊かな自然が、岡潔の数学研究を助け、詩心を育んだという話が頷ける。
肝心の数学論文は自分には難解で割愛するしかないが、分かる範囲で岡潔をみてみた。
岡 潔
1901明治34年、大阪氏東区で生まれ、3歳で父の郷里和歌山県紀見村に移る。
―――私(岡潔)はこの国土の景色が好きである。柔らかくて、こまやかで、変化に富んでいて、木の葉にもにおいがある。私は外遊して、このくにを外から見た経験は一度痔かないのだが、そのとき、フランスから却って、電車で郷里の谷あいにはいると、ちょうど五月であったが、木の葉のよいにおいがした。電車をおりて峠(紀見峠)への道を歩くと、日はもう暮れていたが、むせるような甘い若葉のにおいがした。フランスにはこのにおいがないのである。私は自分の国に帰って来たのだという気がした。・・・・・(『わが人生観』)。
1914大正3年、和歌山県立粉河中学に入学。
3年生のときに「クリフォードの定理」と出会い、数学の魅力に目覚める。考えすぎて鼻血までだしたという。
余談:明治10年、粉河寺境内に陸奥宗光の意を受け、山東直砥・児玉仲児らが人材養成のため猛山学校を開設。その跡を見学した事がある(『明治の一郎・山東直砥』)。
1919大正8年、第三高等学校理科甲類に入学。
1922大正11年、京都帝国大学理学部に進学。
1925大正14年、卒業とともに京大講師を嘱託される。
4月、小山玄松の四女・みちと結婚。
1929昭和4年4月、文部省在外研究員としてパリ留学。数学研究のかたわらフランス語の個人レッスンを受ける。
パリ滞在中、イギリス留学から帰国途中の物理学者・中谷宇吉郎、さらに中谷の弟で考古学者・中谷治宇二郎と出会い親友になる。
―――研究テーマ「多変数解析函数」に出会うが、どこから手をつけていいのか、手がかりもなく、「ひどい荒地を開拓することがやりがいのある仕事だと思った。」・・・・・荒地の開拓は実に20年以上に及んだ。・・・・・(「メトロガイド」)。
1930昭和5年、妻みちもパリに来、夫妻と治宇二郎の三人で日を送る。
1932昭和7年、帰国。夫妻と治宇二郎の3人一緒に帰国。
広島文理大学助教授。
論文3編著す。研究時間を惜しみ、給料の大半がタクシー代と書籍代に消えた。
1936昭和11年、「他変数解析函数について」の論文を発表。
広島事件:京都帝大の数学者の歓迎会に出席。その途中で心身の調子が悪くなって帰宅したが行方不明になった。翌朝、現れたものの一時騒然とした。原因不明で病気とみなされ入院する。
退院後、中谷宇吉郎の静養先の伊東温泉でともに静養、療養して論文を書き上げる。
1938昭和13年、行き先を告げず広島を発ち、行方不明とみられる奇異な行動をしたりなどで休職と帰郷を余儀なくされる。
1939昭和14年10月、休職中。岡は広島からの帰途、加古川に立ち寄る。
その後、京都に行くといって家を出て音信が途絶えたり、淡路島から紀見村役場に連絡があったりなど学問と生活が乖離、理解されない所があった。
1940昭和15年、「第二の発見」について、蛍狩りを回想。
―――昼間は地面に石や棒で書いて考え、夜は子供をつれえ谷間でホタルをとっていた。殺すのはかわいそうなので、ホタルをとては放し、とっては放ししていた。そんな暮らしをしているうちに突然難問が解けてしまった。・・・・・(『岡潔 数学の詩人』)。
10月、京都帝国大学から理学博士の学位を授与。
1941昭和16年、北海道帝国大学に理学部の研究補助員として就職。
1942昭和17年、ミッドウエー海戦敗北。
大戦下、札幌で数学研究に打ち込むが9月大学を退職、突然帰郷。
紀見村に帰るも収入もなく、戦況悪化のなか空き地を耕しながら研究を続け、大きな発見を含む4編の論文を完成させる。
「情緒の道」と名づけられた紀見峠の山道を散策しては、棒で地面に図や数式を各姿が目撃されている。時には高野山などをめぐり数日に及んだ。そうした岡潔の心情は周囲に伝わらない。
10月、数学の学会で「多変数解析関数論について」を講演。
学会後、岡潔は突然興奮状態になり、大声で話したり買ってきた花籠を往来に投げつけたりし、また入院を余儀なくされたが原因不明。退院すると帰郷した。
この年から昭和24年まで、*風樹会の奨学金を受けた。
風樹会:岩波書店主・岩波茂雄により設立された財団。哲学・数学・物理学など基礎的学問の研究者を対象に奨学金を支給。
1944昭和19年11月、マリアナ基地のB29、東京初空襲。
1945昭和20年8月15日、終戦の詔書の玉音放送があり長い戦争が終結。
1948昭和23年、もっとも重要な第7編目の論文「いくつかのアリトメンティカ的概念について」を完成。
岡は仏訳したその論文を渡米する湯川秀樹に託す。
―――論文はパリに渡り、同分野の権威アンリ・カルタンも絶賛。フランス数学会誌に掲載され、誰も解けないと思われていた大難問の解決が世界に認められた。・・・・・論文発表後、岡のもとには世界的数学者が来訪した。58年に訪れたドイツ人数学者のジーゲルは「K・OKAは団体名でなく、個人の名前なのか」と驚愕。これほどの偉業はとても一人でやれる仕事とは思えず、20~30人もの数学者集団だと長い間信じていたのだ。岡の仕事の偉大さはこの一言に凝縮されている。・・・・・(「メトロガイド」)。
1949昭和24年、奈良女子大学教授。論文3編著す。
8月。 歩み入る山寺は秋も寂(しず)かにて
12月。 一日実に良い天気 ポカポカと 家を出て一点の雲もなく お日さまを西山にお見送りする
1950昭和25年、第七論文、フランスの数学会会誌・第7巻に掲載される。
論文は巻頭を飾り、岡潔に強い影響を与えた数学者カルタンは岡潔の論文に感嘆。
―――多変数関数論の開拓をそれぞれに志し、論文のみを通じて長い時間をかけて語りあい、経緯と親愛の心を相互に深めていった。「この人だけは懐かしいという気がする」とカルタンを回想する岡潔の言葉は美しく、今もしみじみと耳朶を打つ。・・・・・(『岡潔 数学の詩人』)。
1951昭和26年、「多変数解析函数に関する研究」で日本学士院賞受賞。
奈良市法蓮佐保田町に転居。
1954昭和29年、朝日賞(文化賞)受賞。
1960昭和35年、文化勲章受章。
―――文家勲章を受章し、国内において一躍名を知られた頃から、多年に亘る思索のなかで、深められた情緒を基底に、日本の文化、教育面について積極的になされるようになった警世の発言は、巷間に伝えられた奇行と相俟って、共感を交えた大きな反響を呼び、一数学者を越えて、思想家として一世を風靡した感があった。・・・・・(『近代浪漫派文庫・岡潔』)。
1961昭和36年、橋本市名誉市民第一号。
1963昭和38年、第一エッセイ集『春宵十話』刊行。ベストセラーとなる。
以後、教育・文化などの随筆を多く出版。とくに訴えたのが情緒の重要性。
1964昭和39年、奈良女子大学を定年退官。引き続き非常勤講師。
1966昭和41年、岡家は道路の拡張工事に敷地の半分が削られ内務省に売却、同じ紀見村内に転居。
ふる里は家なくて唯秋の風 岡潔(『春雨の曲)。
―――然し、家の門の所に立ってわたしを見送ってくれている、父母や父や母や妹の顔は、今でもマザマザと思いだすことができる。時の彼方に行けば、この人達は何時もわたしと一緒に住んでいるのである。・・・・・岡潔の心の世界は時空を超越し、大勢の岡家の人々がいつもいっしょに暮らしていたのである・・・・・(『岡潔 数学の詩人』)。
1969昭和44年、京都産業大学理学部教授。
1978昭和53年3月1日、死去。享年77。
―――よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかりしらないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。・・・・・(『わが人生観』)。
参考: 「メトロガイド」(和歌山の偉人)2019年1月号 / 『わが人生観1』岡潔1968大和書房 / 『岡潔・胡蘭成』近代浪漫派文庫㊲2004京都新学社 / 『岡潔 数学の詩人』高瀬正仁2008岩波新書 / 『わが人生観1』岡潔1968大和書房 / 『明治の一郎・山東直砥』中井けやき2018百年書房
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