速記、福岡隆の『活字にならなかった話』
第96回アカデミー賞。日本の「ゴジラ-1.0」、長編アニメーション「君たちはどう生きるか」が受賞。喜び会見を見て、日本の知惠と技術も成功の一因かなと感じた。
今や世界の出来事を瞬時に知れるが、昔は簡単ではなかった。
―――速記者が出現したことによって、様々な人物が自ら、或いは他から勧められて自己の過去を語り、出版するということも行われた。勝海舟の『氷川清話』(明治30~31年)、福沢諭吉の『福翁自伝』(明治32年)、徳川慶喜の『昔夢会筆記』(明治40年から大正2年・・・・・)、高田早苗の『半峰昔ばなし』(昭和2年)、渋沢栄一の『青淵回顧録』(昭和2年)などが代表的なものである。・・・・・(伊藤隆「歴史研究とオーラルヒストリー」)。
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けやきのブログⅡ<2021.5.15 速記者が眺めた名士の演説ぶり、小野田翠雨>
さて今回は、昭和のフリー速記者・福岡隆の『活字にならなかった話』。
若いころ著述を読んだ、講演を聴講した作家や編集者のエピソードが面白かった。当ブログを読んでくださる方にも興味がありそうな話もあり、本編を引用しつつご紹介。
フリー速記者・福岡 隆
1916大正5年、広島県因島に生まれる。 1929昭和4年、商業・速記・英語の各学校卒業。早稲田大学文学部通信教育修了。 1935昭和10年、新聞記者。ついで雑誌編集者を振り出しに雑誌編集者、出版社業務部長。松本清張の専属速記者。
著書:『蘇へる無医村』『人間・松本清張』『日本速記事始』(田鎖綱紀の生涯)。
『活字にならなかった話』 福岡隆1980筑摩書房
一、ソロバンからペンへ
―――私が速記文字を初めて見たのは一九三二(昭和七年)・・・・・ある日、浅草の観音さまへお詣りすると、境内で大勢の香具師(やし)たちにまじって速記術の宣伝をやっている男がいた。黒板を背にした若い男は弁舌が巧みで、速記術の便利さについて面白おかしく語った。
まず、「憂鬱」という字を書きながら、「見たまえ。この漢字は見るからにゆうつな字じゃないか。書く段になると、さらにゆううつだ。それにひきかえ、速記文字だったら、こうも簡単に書ける」と言って、速記符号をさっと書いた。
―――当時は就職難の時代で、「大学はでたけれど」という言葉が流行・・・・・商業学校を出ると、簿記とソロバンの一級試験を受けるため、神田美土代町の簿記学校へ入学・・・・・ 速記科が併設されていたことから、思いきってソロバンをペンに持ち替えた。・・・・・ 教師は石母田峻という田鎖式の人で、歴史学者・石母田正(いしもだしょう歴史学者)氏の実兄に当たる人だった。・・・・・卒業後も助手となって速記の実務や教授に当たった関係から、石母田兄弟とも起居を共にし、公私とも大へん御世話になった。
―――当時の民間速記者の生活は、今と違って惨澹たるものだった。数少ない仕事先のほとんどを国会速記者に独占されていたからである。
――― 一九三六年末、単身静岡へ赴任、静岡民友新聞(「静岡新聞」の前身)に就職・・・・・新聞社裏の須長家へ下宿・・・・・仕事は電話速記だったが、ナマの肉声を聴くのと違って機械という媒体を通しての音だから、はっきり聞き取れるまでには相当の日数を要した。・・・・・甲子園を目差す島田商業ナイン取材のため、伝書鳩の籠をさげて島田までいったことがある。
―――日中戦争は拡大の一途をたどり、遂に静岡連隊の田上部隊にも動員令が下って、従軍記者として上海へ赴くはずだったが、幸か不幸か、急性肋膜炎に罹って従軍記者は取りやめとなった。・・・・・自分の身体に自信を失った私は、三年たらずの新聞記者生活に終止符を打った。悄然と東京へ戻った。
二、*修養団と無敵海軍
―――千駄ヶ谷の財団法人修養団編輯部へ就職・・・・・(中略)・・・・・ 蓮沼先生は、まだ五十代の働きざかりで、全国各地で開催される講習会に飛び回っておられた。私も橿原(かしわら)や伊勢の神都道場での講習会には係員として参加したが、未明に五十鈴川でみそぎをした経験はいまだに忘れられない。
けやきのブログⅡ<2012.8.2 修養団・蓮沼門三(福島県)>
―――結婚後、一ヶ月半後の十二月八日、「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」・・・・・「欲しがりません勝つまでは」の耐乏生活・・・・・一年後に生まれた長男は、栄養失調で死んだ。・・・・・悲しみを乗りこえるため、著述に専念した。『甦へる無医村』は記録ものばやりの時流に乗ってベストセラーとなった。
―――出帆後、数ヶ月たって私に赤紙(召集令状)が来た。横須賀海兵団に入団、そこには私と同じような丙種合格の国民兵がたくさん招集されていたのを見て、戦局の容易ならざることを知った。
三、敗戦後に出会った人びと
友人の紹介で桜菊書院編輯部へ就職、ここで菊池寛、林芙美子、大下宇陀児(うだる)と出会う。一年足らずで八雲書院に移り、『近代文学』に関わることになる。
―――創刊(1946年1月)当時の同人、荒正人、平野謙、埴谷雄高、本多秋五、佐々木基一、小田切秀雄、山室静の諸氏が足繁く出入りする・・・・・ いずれも三十代の若さであった。・・・・・ 今、思いおこしても「近代文学」の人たちの活躍はめざましく一九六四(終刊号)まで約十七年間、日本の戦後文学に残した足跡は大きい。
―――創刊当時の同人たちが島崎敏樹氏を迎え、深層心理の座談会を開催・・・・・私は業務部長をしていたので、速記はよそへ頼んだ。ところが、この速記のできが悪く、もう一度座談会をやるから、速記してもらえないか、と頼んできた。・・・・・勇を鼓して引き受けることにした。
五 なくて七くせ言葉ぐせ
―――速記文字は、かなやローマ字と同じように表音文字だから、それを表意文字に直すのは一苦労・・・・・「きしゃのきしゃがきしゃできしゃした」は、同音異義語でよく用いられる例・・・・・私などのように旧かなづかいを習った人間には、新かなづかいに慣れるのにもひと苦労した。
―――録音機の発明によって速記者はずいぶん恩恵を受けているが・・・・・十数人の座談会で話が二手に分かれたようなあ場合には雑音となって役に立たない。そこへいくと速記者は人間だから、頭脳で判断して話の主流をキャッチできる。そのかわり人間の耳で聞き取れない音も録音機は正確にキャッチする利点を持っている。それぞれ長所と短所があるから現在(1980年代)の段階では録音機を併用するのが一番よいように思う。
―――私にとって忘れられない言葉がある。・・・・・その日、議員宿舎に一面識もない羽仁五郎氏をたずねた。・・・・・終戦の年の三月、反戦で入獄。敗戦後は参議院議員に当選して、国会図書館創立や破防法反対などに理論的支柱を与えた。これが国会議員羽仁五郎氏の大きな業績である。・・・・・口述は、羽仁五郎氏が得意とするアテナイの歴史から始まったが、速度もゆっくりで、内容もさしてむずかしくなかったから、速記としては楽なほうであった。しかし、燃料節約のためか、暖房のないコンクリート造りの部屋は底冷えがシテ、鉛筆を握った私の手はかじかんだ。やがて身体じゅうに悪寒がひろがった。・・・・・一週間も続けているうちに、私はとうとうカゼをひいてしまった。・・・・・私が激しく咳きこんだとき、羽仁氏はむっとして「思索のじゃまになる」と言った。・・・・・私はじっと耐えて『世界史』上巻を書きあげた。
―――職業柄、右翼の仕事も左翼の仕事も忠実にやったが、職業上で知りえた秘密は固く守り続けてきた。絶対中立こそ速記者の本分だと心得ている。
八 忘れえぬ作家たち (一)
―――「総合文化」の編集長だった花田清輝氏とは、座談会でたびたび速記したことから、非常に親しくなったが、ぎょろりとした目玉と、箱型のがっちりした体躯が印象に残っている・・・・・。
―――真善美社は、なれぬ素人商法から二、三年で倒産した。私は焦げついた速記料をもらうため・・・・真善美社をたずねた。あいにく社の人たちは留守で、閑散とした部屋のソファには六尺豊かな大男がひとり腰をおろしていた。作家の田中英光氏である。・・・・・田中氏は「実は、きのうから水ばかりがぶがぶ飲んで、めしらしいものは何もたべてない。きょう、原稿料をもらいに来たら留守で、途方に暮れていたところだ」
―――私は「新日本文学」の仕事をすることになった。・・・・・たびたび速記した人たちは、中野重治、坪井繁治・栄夫妻、佐多稲子、窪川鶴次郎、宮本顕治・百合子夫妻、中島健蔵、金達寿、蔵原惟人、秋山清、関根弘、西野辰吉、井上光晴、霜多正次、武井昭夫、大西巨人の諸氏と、「近代文学」の同人で新日本文学会の会員だった人たちである。
余談: 東京東中野の「新日本文学会」の文学教室に通ったことがある。広くもない教室に男女が20人程いたでしょうか。ある晩、井上光晴氏の講義を聞くうち、自分には文学の才能が無いと悟り教室をやめた。そして、ほっとした。実は、親に洋裁学校へ行くと嘘をついて通っていたからである。
九 忘れえぬ作家たち (二)
―――生活に窮した私は早川書房へ出版も手伝い隔日出勤した。・・・・・戦後作家の中では椎名輪造麟三氏と武田泰淳氏が好きで、泰淳の『異形の者』に強く惹かれ・・・・・中目黒の長泉院へ武田泰淳氏を訪ねた。泰淳氏は、速記者でなく編集者として来訪したことに不審をいだき私が説明すると、「編集者の代わりはあっても優秀な速記者は少ないから、一日も早く速記一本になることだな」これはありがたい忠告である。
―――椎名氏も武田氏と同様、・・・・・「どんなに苦しくても速記一本で頑張るべきだ。・・・・・陰ながら応援するよ」親身になって激励してくださった。
十 松本清張氏との出会い
一五 江戸言葉との格闘
―――落語の速記を手がけたのは、もう四十年も前で、柳家三語楼・柳家金語楼・先代三遊亭円生・・・・・もともと落語が好きで、青年時代にはよく寄席に通った・・・・・『桂文楽全集』の速記をしてもらいたい、という電話があった。・・・・・一般の図書と異なり、落語本は速記原稿が生命である。
―――私を苦しめたのは、酔っぱらってまくし立てるときの言葉や、泣きじゃくりながら、笑いながらのことばである。演者はその雰囲気が出さえすればいいのだから・・・・・ところが、それを文字化する私はそうはいかない。正確な言葉を原稿用紙に書き込まなければならないのである。
一六 動機善にして結果悪なり
――― 一九五九年か六〇年ころだが、松本清張氏の口述筆記をした帰途、私は青梅街道からタクシーに乗った。帰宅してから、速記帳のはいったカバンを置き忘れたことに気づいた。しかし、さいわいなことに・・・・・問い合わせたところ、すぐわかった。
―――東京で開かれた全国大会で、地方から代議員が出てきた会議の場合は、もう一度やることは不可能だから大変なことになる。その大変なことを私はもう少しでやるところだった。
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