家も屋敷も売って文献大百科つくった父子、物集髙見・高量 / 『百歳は人生の折り返し点』
“けやきのブログ”をはじめたのは、卒論がもとの『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』(2008年刊)紹介のためである。
それから十年余、ブログの登場人物に励まされ続けている。
ところで卒論は、多くの資料にあたらなければならず、また不慣れもあって苦労した。大学図書館・史料館・国会図書館などに通って資料カードを漁り、古書店も訪ねた。福島県会津や北海道から九州まで訪ね歩いた。
しかし終わってみれば、費やした手間と時間は自分の身にも皮にもなった。
それでも早めに史資料が得られるといい。そして今、それが可能になった。パソコンどころかスマホで簡単に「検索」、居ながらにして情報が得られる。
それはさておき、立派な検索文献があっても難しい学問や書籍は筆者には歯が立たない。しかし、その道の人や研究者には大いに役立つ。
その貴重な文献索引が物集髙見・高量父子が完成した文献大百科『群書索引』『広文庫』である。
父の物集高量は難しい分野を研究して抜き出し、さらにそれを「五十音順に配列して編纂」した。
子の高量はその偉業『広文庫』完成を手伝った。
『群書索引』:古典・日本史及びその周辺分野の研究に必要な原文を収録した一大文献百科。『広文庫』の姉妹編。
『広文庫』:百科史料事典の一つ。20冊。和漢書・仏書中から5万余項目の関連記事を抄出して五十音順に配列されている(見つけやすい)。文献中の必要な原文を収録したもの。内容は、天文地理・山川草木・鳥獣虫魚・神仏・人物・衣食住・冠婚葬祭・遊戯宴会・武技戦闘・家屋庭園・疾病医薬・器具調度など。
―――ある学者はその一冊をひもといた時の驚きは今も忘れ難く、・・・・・仮りに伊勢物語ある東下りで有名な「八橋」を調べるとしよう。本書には一一の書があげられ、それぞれから該当する記事が抄出してあり、これらを通覧すると、鎌倉から江戸時代に至る八橋のありさまがよくわかる。そして特に、編者の意見を全く加えていないところが一般の辞書と異なる点で、あくまで使用者の自主判断を尊重しているからだ・・・・・(『異能異才人物事典』)。
物集 髙見 (もずめ たかみ)
1847弘化4年、豊後国杵築城下(大分県)で生まれる。国学者・物集高世の長男。
1865慶応元年、長崎で蘭学を学ぶ。
1869明治2年、22歳。父・高世につれられ上京。宣教史生の職につく。
宣教使:明治政府が神道に基づく国民強化を行うため神祇官内に設置した役職。
平田鉄胤(かねたね)に国学、近藤真琴に英語を学ぶ。
1872明治5年、神祇省にかわり教部省(のち内務省)設置で公務員になり、『本邦言語考』などあらわす。
1879明治12年4月、長男・高量生まれる。
『ことばのはやし』『日本小辞典』編纂。
7月、出羽三山の宮司に任命され一家4人、人力車で赴任する。
1882明治15年、宮司を辞して帰京。東京本郷区に居住。
1883明治16年、東京帝国大学に招かれる。かたわら東京師範学校教授、文部省参事官を兼任。
和文に文法を加え「国語」を案出したり、原文一致の書を著して口語運動を提唱。
1885明治18年、『日本文明史略』著す。
1886明治19年、穂積陳重教授に、文献整理を増補して刊行するよう勧められる。
1887明治20年、宮内省から『日本大辞林』編纂を依頼される(明治27年刊)。
1899明治32年、文学博士。これを機に学問研究に没頭するためすべて辞任。
―――それからは門戸を閉じ、客を謝し、諸友との交際を辞し、専心一意に読書を事とし・・・・・当時その存在を知られた古典籍のすべてを網羅しようというのだ。しかも書物の多くは写本である。抜粋するところに朱を引くのに他人の本にはつけられない。・必要な書籍は購入するか書写しなければならない。そのために、今日では想像もつかぬほどの労力と資金を必要とし・・・・・山林田畑は言うも更なり、家も売り、屋敷も売りてての事なりし。・・・・・(中略)・・・・・決意から三〇余年後の大正五年に刊行の運びとなった・・・・・その間、朝から寝るまで机の前に座し、手の指先は「一種血ばみたる折目を生じ」冬はとりわけ痛苦に悩まされ、目は極度に疲労し、水で冷やしながらであった・・・・・(『異能異才人物事典』)。
1910明治43年、このころから高量は父の仕事を手伝い始める。
1915大正4年、肥前の豪商・中村氏兄弟が援助を申し出て負債を肩代わりしてくれた。
1916大正5年、広文庫刊行会を設立。『群書索引』『広文庫』刊行。予約者を募集。
―――おおよそ二〇年を費やした後、『広文庫』全二〇巻、『群書索引』全三巻の刊行を自費出版で開始する。それまでは全国を行脚して約五万冊の書をあつめ、それを読破するなど寝食を忘れて研究に励んだ。・・・・・莫大な借金を抱え、果ては数度の倒産を体験するが、最後には援助者もあらわれ、晩年は郷里に帰り、『忠孝譜』『百人一首山彦抄』をのこして歿した。・・・・・(『民間学事典』)。
1925大正14年、物集邸、債権者の手に渡り、髙見は藤波剛一方に寄宿。
1926大正15年、小石川青柳町の借家に移る。
1928昭和3年、死去。享年81。
物集 高量 (もずめ たかかず)
1879明治12年4月3日、東京本郷で生まれる。
髙見が生まれたとき、国学者の祖父、高世は歌人と恋愛し出奔中だったという。
1885明治18年、麻疹(はしか)の高熱で骨膜炎で神田駿河台の杏雲堂病院に入院。
1886明治19年、7歳。学習院学監・下田歌子見舞いに来る。
父・髙見、下田歌子のために副読本を作った。
1892明治25年、13歳。英語塾、翌26年、漢学塾に通う。
1895明治28年4月、日清戦争終結。回覧雑誌「木の葉天狗」発行。
1898明治31年、19歳。郁文館中学卒業。
国民英学会および正則英語学校に通う。
1899明治32年、20歳。第三高等学校入学。
1905明治38年、26歳。日露戦争終結。東京帝国大学文学部卒業。
―――幸田露伴氏の「四行の詩会」に向島へいく。数日後、汐干狩に誘われ隅田川から船で沖へ。露伴氏は舟の中央にて酒をのむばかり・・・・・(『百歳は人生の折り返し点』)。
1906明治39年、『東京朝日新聞』懸賞小説に応募、「罪の命」が当選。賞金500円(現在500万円くらい)はその当時、貧窮していた父が研究費に使った。
1907明治40年、大阪朝日新聞に記者として入社。
夏目漱石が『虞美人草』を連載中でその原稿取りをする。
1908明治41年、父のすすめで「忠文社」に入社するも事業不振。
1913大正2年、忠文社を退職。小説や論文の著述をする。
1916大正5年、父が広文庫刊行会設立。編集・刊行に従事。
―――このころ、妹和子が平塚らいてうらと物集邸に編集部をおき『青鞜』を発刊・・・・・現在、東京文京区の団子坂の物集邸跡に「青鞜発祥の地」という碑が建っている。・・・・・(『民間学事典』)。
1918大正7年、『広文庫』の売れ行きよく、髙見の名声ますますあがる。
1928昭和3年、父の髙見死去。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
―――戦前は資産家となり悠々自適の生活を送ったが、ギャンブルなど遊興に費やし、戦後は親戚縁者から援助をうけて細々とくらした。
1973昭和48年、94歳。正月元日、独りで屠蘇を酌む。(『百歳は人生の折り返し点』)。
―――人は死す、自分は生きる、これは不思議! 人生五十年! 自分は九十余年! (何事にも除外あり)――わが畏友、三宅恒方君の言葉――ふと思い出す・・・・・(『百歳は人生の折り返し点』)。
1974昭和49年、生活保護を受けながらも、かくしゃくたる独り暮らしの95歳で話題となる。
11月、月3万円の生活保護を受け、週二回訪問するホームヘルパーの世話になりながらも、頭脳明晰、記憶力の確かさ、クイズ、競馬、女の話、明治大正期のそうそうたる文学者たちの話など、その“学者極道”うりと、話のおもしろさに、また『群書索引』『広文庫』の復刊を契機に“時の人”になる。
1979昭和54年、100歳を機に『百歳は折り返し点』正・続をあらわしベストセラー。
テレビ朝日の「徹子の部屋」に出演。
1985昭和60年、106歳(当時男性長寿東京一)で大往生とげる。
参考: 『異能異才人物事典』祖田浩一1992東京堂出版 / 『民間学事典』人名編/事項編1997三省堂 / 『百歳は人生の折り返し点』物集高量1979日本出版社
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