明治~昭和前期、才能を生かせなかった不遇の女流作家・田村俊子
ふと、自分の人生を振りかえり、人に話すほどの困難な山も谷もなくまずまずかなぁ。面白味ないけど不満はない。
波乱万丈書中にあり、本さえあればいい。
子どもの時から本を読めさえすればよかった。周囲の大人が坪田譲治童話集とかいろいろ与えてくれ、学校では図書室に入り浸った。
高校では授業中読んで叱られ、家では夜中まで読んで叱られ、終いに近眼になった。そしてそのまま大人になっても変わらない。
それでも縁あって結婚することになった。
さすがに少しはお洒落しようと仕事帰り、東京駅近くの化粧品店に行った。
すると、次つぎ化粧品を並べられ「わあ、こんなに色いろ」目をパチクリ。そしてその場で化粧してもらい順番を教わったが覚えられず、容器に番号を振ってもらった。
そしてその足で待ち合わせ場所に行くと、「きれい」と喜ばれた。
ところで、それらの化粧品は半分も使わない(使えない)まま、箪笥の肥やしならぬ鏡台の飾りになった。
ある日。夫が化粧品の瓶を手に「この番号何?」 説明するとアハハハ・・・・・。
化粧が苦手な妻をもった夫は笑うしかない。
こんな風でも子育て一段落すると、少しはお洒落をするようになった。
それでも、化粧がとても濃い人、男女関係が派手な人は苦手だ。田村俊子についても、そうした方面のようで興味がなかった。
たまたま、坪田譲治と同じ文学全集に入っていたので、読むともなく見ていると「幸田露伴に師事」という一行があった。
露伴は好きな作家。折に触れ読み返すが、田村俊子とは結びつかない。
もしかして、田村俊子は自分が想像するような奔放で艶めかしい女作家と違うのかもしれない。
田村 俊子
(年譜はおもに『現代日本文学大系32』参考)。
1884明治17年4月25日、東京浅草蔵前で生まれる。
本名・佐藤とし。母きぬは米穀商、のち札差業を営む佐藤家の一人娘。
1896明治29年、12歳。東京府立第一高等女学校に入学。
1901明治34年、創立されたばかりの日本女子大学国文科入学。病気で中退。
1902明治35年、18歳。小説家を志し幸田露伴の門をたたき師事。
露英となづけられ、ここで同門の小説家・田村松魚を知る。
1903明治36年2月、佐藤の名で処女作「露分衣」(つゆわけごろも)を発表。
俊子は次第に自己の作風に嫌悪を感じ露伴から離れ、筆を折って文学以外に生きようとする。
1906明治39年、岡本綺堂らの毎日派文士劇の女優となる。
1907明治40年、横浜羽衣座で上演の劇に出演したのが初舞台。
川上貞奴の許に出入りしたこともある。
1909明治42年、25歳。田村松魚(しょうぎょ)と結婚。
1911明治44年、大阪朝日新聞の懸賞小説「あきらめ」が一等当選(賞金千円)。
自我に目覚め自立を願いながらも、情緒と官能の世界に耽る女主人公は俊子自身と重なる。
「美佐枝」「魔」「木乃伊の口紅」「焙烙の刑」「春の晩」などを発表。
自然主義の作品に近い平明な口語体で、女として芸術家として自分の力で生きていくことの困難さ、その苦しみから頽廃へ傾斜していく姿を描いた。
1912明治45年/大正元年、28歳。
「魔」「離婚」「宣言」「嘲弄」などを発表。
このころ松魚は、まったく収入がなく妻に寄生。
1913大正2年~1917大正6年、「女作者」「木乃伊(ミイラ)の口紅」など発表。『彼女の生活』刊行。
1918大正7年、松魚と別れ、鈴木悦と青山に隠れ住む。
『新潮』『中央公論』が田村俊子特集を組むも次第に書けなくなるなかで、『朝日新聞』記者・鈴木悦と恋愛。
10月、鈴木悦を追って渡米。
カナダのバンクーバーに18年間とどまる。そこで悦が編集する機関紙『民衆』を手伝い、日本移民の地位向上に尽くす。
―――俊子はやがて自分の進む道を労働運動に見出し、バンクーバーに16年も腰を据えてしまった。最後まで旅人の意識は捨てなかったが、俊子のヴィジョンは次第に澄み渡ってゆく。そしてふたたび、彼女がバンクーバーに立ちこめる霧を丹念に描写するのは、最愛の人が死んだ後の作品である。・・・・・(『旅人たちのバンクーバー』)。
1932昭和7年、48歳。二人分の旅費が工面できず鈴木悦一人で帰国、翌年急逝。
1936昭和11年、鈴木悦の死後、18年ぶりに帰国。
文壇復帰を期待されたが『山道』を最後に中国に去る。
1938昭和13年12月、中央公論社の特派員として中国をまわるつもりで中国へ赴く。
1939昭和14年、南京、上海をへて北京に滞在。軍の世話になり、滞在が長びく。
1942昭和17年、南京に赴き*草野心平に会い、上海で女性向けの華字(中国語)啓蒙誌『女声』の発刊に尽力。「左俊芝」のペンネームで執筆。
けやきのブログⅡ<2012.7.28 蛙の詩人・草野心平(福島県いわき市)>
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1943昭和18年、59歳。太平洋戦争危局と各種資材の逼迫から雑誌発行困難、生活苦つづく。
1945昭和20年4月16日、上海の北四川路上で脳出血で倒れ死去。享年61。
―――樋口一葉以後、女流にめぼしい作家も見当たらないころ、突然輝きだしたこのおんな星は、ほかのどの星にもみられない独特の光芒を放った、とでも言おうか、その文学は、狭い文壇はもとより広い読書界の注目をひくに十分な、才筆と内容をもっていた。・・・・・ロマンチシズムの香り高い幾つかの名品は永久保存にたえるものであるし、女の作家が作品のなかで女の自我の自覚を鮮やかに描くということは、樋口一葉も踏み入りえなかった境地だった。・・・・・(湯浅芳子『現代日本文学大系32』)。
―――昭和26年4月、七回忌にあたり、・・・・・北鎌倉東慶寺内に墓が築かれた。それより十年後、瀬戸内晴美の『田村俊子』に第一回田村俊子賞が与えられた(紅野敏郎編『現代日本文学大系32』)。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『現代日本文学大事典1965明治書院 / 『旅人たちのバンクーバー わが青春の田村俊子』工藤美代子1985筑摩書房 / 『現代日本文学大系32』1980筑摩書房 / 『日本人名事典』1993三省堂
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