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2024年4月15日 (月)

『古寺巡礼』倫理学者・文化史家、和辻哲郎

 日々、愉しみの一つが「新聞」。ときに気になる記事をスクラップするが、日付・出所の記入を忘れる。次もそれだが一部引用。
   ―――「日本に亡命したロシア人」 ラファエル・フォン・ケーベル “明治期に西洋学を伝授” 教え子に漱石、西田、和辻、上田敏ら・・・・・ 在日ロシア人の歴史は1854年に始まる。ロシア系移民の多くが心から日本を愛し、第二の故郷だと考えていた。一部の移民は、スポーツから哲学、舞踊から食品産業までさまざまな側面で発展に貢献してきた。 亡命ロシア人がどのようなことを成し遂げたのかについて紹介・・・・・ (中略)・・・・・ ケーベルの主な仕事は哲学の講義であった。 夏目漱石や哲学者の西田幾多郎のほか、教え子には傑出した人文科学者が20人ほどいた。例えば、儒教学の権威・井上哲次郎、倫理学者の和辻哲郎、翻訳家の上田敏、評論家の高山樗牛ら・・・・・(後略)。

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 ケーベル先生の教え子の一人、和辻哲郎の『古寺巡礼』 「漱石先生」 「ケーベル先生」を読んだことがあり和辻哲郎を選んだ。
 ところが、倫理学者・文化史家としての和辻の著述は未読、それなのに選んでしまった。後悔先に立たずだが、なんとかしたい。

     和辻 哲郎    (わつじ てつろう)

 1889明治22年3月1日、兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(姫路市仁豊野(にぶの))の医家の次男に生まれる。
 1906明治39年、姫路中学を卒業し、第一高等学校入学。
   『校友会雑誌』に評論「霊的本能主義」、小説「菜の花物語」を発表。
   当時隆盛を極めていた自然主義的風潮には批判的であった。
 1909明治42年、東大哲学科へ進学。
   主任教授は井上哲次郎、哲学科教師ケーベルであった。
   岡倉天心講師の「泰東工芸史」など聴講。
 1910明治43年、『帝国文学』に戯曲や創作「わかいんだもの」を発表。
   9月、小山内薫に兄事。
   さそわれて浅草新片町の島崎藤村を訪ねた。
 1912明治45年6月、高瀬照と結婚。7月、卒業。

 1913大正2年、かねて敬慕の夏目漱石に手紙を送り、返書を受けて漱石山房を訪れる。
   漱石山房を見学したことがある。思ったよりこぢんまりとしたそこが、フランスのサロンのような雰囲気だったかもと想像、行ってよかった。
   
 1916大正5年、『文章世界』『新小説』『新潮』などに文芸論を発表しはじめる。
   反自然主義の立場から文芸批評や文明批評を行った。  

 1917大正6年5月、友人たちと「古美術の力を受けて自分の心を洗い、高めよう」と古寺を巡礼して歩く。
   和辻は仏教美術の甘美な、牧歌的な、哀愁の沁みとほつた心持ちに感動、その結果が『古寺巡礼』(大正8年刊)である。
   ―――<法隆寺」五重塔の運動>・・・・・ 塔は高い。従ってわたくしの目と五層の軒との距離は、五通りに違っている。各層の勾欄(こうらん)や斗拱(ときょう)もおのおの五通りに違う。・・・・・塔の各層の釣り合いが――たとえば軒の出の多い割合に軸部が低く屋根の勾配が緩慢で、塔身の高さがその広さに対し最低限の権衡を示していること、・・・・・上部にとがって行く塔勢が、かすかな変化のために一層美しく見えることなどが、重大な問題である。・・・・・(『古寺巡礼』)。

 1918大正7年3月~4月、小説「健陀羅(ガンダーラ)まで」(読売新聞)
   6月、東京市芝三田綱町一番地に転居。
   12月、評論集『偶像再興』を岩波書店から出版。
 1919大正8年10月、小説「除隊兵」を『新小説』に載せる。
   創作はこの時期で終わる。
 1920大正9年~、東洋大、法政大、慶大、津田英学塾で講義。
 1921大正10年、岩波書店から雑誌『思想』発刊。
   谷川徹三、林達夫と編集に参画。
   この頃から数年間、幸田露伴に俳諧の指導を受ける。

 1923大正12年、「ケーベル先生の生涯」発表。
   ―――ケーベル先生が、あおの鮮やかな「要をつかむ」力と、明快な、直感的な描写の技能とによって、自分の生涯の追憶を詳らかに物語られたならぼ、われわれは非常に有益な、またおもしろい自叙伝を持ち得たことと思う。しかし先生は「一身上のことをいうのを好まない」人であった。・・・・・ その魅力はむしろ、静かな日常の生活生活に現れた希有に自由な心の動き方にあるのだと思われる。・・・・・(和辻哲郎「ケーベル先生」)

 1925大正14年、西田幾多郎らの推薦で京都帝国大学、講師。
   7月、助教授となり倫理学を担当。
 1926大正15年・昭和元年9月、「京都帝大新聞」に京都学連事件について、「学生検挙事件所感」を書いて河上肇から批判され、論争。
   9月、『原始仏教の実践哲学』出版。

 1927昭和2年、道徳思想史研究のためドイツ留学、翌年帰国。
   留学中にハイデッガーの「存在と時間」を読み、啓発されると同時に独自の方法で問題をつかんで書かれたのが、『人間の学としての倫理学』(昭和9)『風土』(昭和10)。
   ―――ドイツで学んだハイデッガーの現象学的解釈学を換骨奪胎して<風土>理論をうちたて、<共同体>の思想とむすびついた独自な文化史の理論をきずき、日本的生の解釈学をつくりあげた。<風土>の理論は日本主義の哲学的基礎づけであった。・・・・・(竹内良知『世界大百科事典』)。
 1928昭和3年7月、ドイツから帰国。
   留学中の妻宛の書簡は死後、『故国の妻へ』として角川書店から出版。

 1929昭和4年、『哲学研究』に「日本語に於ける存在の理解」を発表。
   6月、『正法眼蔵随聞記』校訂、岩波文庫に入れる。
 1930昭和5年、『思想』9月号に「砂漠」・11月号に「モンスーン」発表。
 1931昭和6年、京都帝国大学文学部教授。
   『哲学研究』に「カントに於ける『人格』と『人類性』上下」を発表。
 1932昭和7年、『思想』に「現代日本と町人根性」を連載。
 1933昭和8年10月、満洲国および中華民国へ16日間出張。
 1934昭和9年、東大文学部教授。
 1937昭和12年、文部省教学局参与。
 1939昭和14年、『思想』に「プラトンの国家的倫理学」を発表。
   6月、法隆寺壁画保存調査会委員。

 1941昭和16年4月、高等官一等。
   12月、『神代史の研究』などで不敬罪容疑で起訴されていた津田左右吉の弁護のために証言。
       太平洋戦争はじまる。
 1943昭和18年1月、宮中の講書始の儀で「心敬の連歌論」について進講。
   この年、蓑田胸喜「和辻哲郎氏の思想法」を書き、吉村貞司が「和辻の不敬思想を撃つ」を書き、それぞれ和辻を攻撃。
 1945昭和20年、敗戦。

 1946昭和21年、『世界』に「封建思想と神道の教義」を発表。
   この前後から天皇制支持を明らかにした意見を発表しはじめる。
 1919昭和24年、停年退官。
   以後、著作に専念、かたわら文化財保護のための仕事をする。
 1955昭和30年、文化勲章を受ける。
 1959昭和34年、元旦の朝、NHKテレビで安倍能成と対談。
 1960昭和35年12月26日、心筋梗塞のため練馬の自宅で死去。享年71。

 

   参考: 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『古寺巡礼』和辻哲郎1991岩波書店 / 近代日本思想大系25『和辻哲郎集』1974筑摩書房 / 『世界大百科事典32』1972平凡社

 

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