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2024年4月 8日 (月)

有島兄弟母・有島幸子は南部藩士の娘、父・武は薩摩士族で官僚

 コロナ禍以来、久し振りに友人と小旅行をした。
 4月の初めの花曇り。渡良瀬川沿いに広がる桜をめでつつ風に吹かれて好い気持ち、トロッコ車輌の揺れも心地良い。私はのんびり、向かい席の友人は写真撮影に忙しい。
 その、わたらせ渓谷鉄道は足尾銅山と渡良瀬川流域を通る線で 1911明治44年~1914大正3年開業という。足尾銅山といえば日本の公害の原点、弾圧の歴史があり田中正造を先頭に住民が抵抗した歴史がある。
  けやきのブログⅡ<2010.7.13足尾鉱毒事件/左部彦次郎のなぜ?>
 それから百余年余り、トロッコ列車は笑顔の観光客を乗せ走っている。時に、困難な歴史をのりこえた先人の努力があって今あるのを思いおこしたい。

 さて話変わって前回の馬場孤蝶を調べ中、 孤蝶の<「名人長次」になるまで――翻案の経路>という文に出会った。
 読むと、有島兄弟の母・有島幸子がフランスの作家、モーパッサンの短編集中の一篇「親殺し」を翻案したものが円朝の「親殺」という話。講談や芝居にもなったという。
 ところで、活躍するとその父は誰々と記されがち、母はあまり見ない。もし、母の名が出ていたとしても母の父は誰々、生家は○○となりがちである。
 その時代に有島兄弟の母と記された有島幸子はどういう人、生い立ちは?
 

     有島 幸子   (ありしま ゆきこ)

  1854安政元年1月2日、幸子、南部藩江戸本邸(千代田区日比谷公園)で生まれる。
   父・加島英邦は南部藩江戸表留守居役。母は久留米藩士・今井九一郎次女・静。
   静は早く夫を失い五人の子を得たが先立たれ、残った女児は幸子一人であった。
 1865慶応元年、幸子は幼くして祖父・父も失い維新の変動に朝敵となり苦難を味わう。そして、一家の再建をはかる母の静を助け、苦労をともにする。

 1865慶応元年4月、江戸の情勢が不穏になり盛岡へ帰国。
   8月、南部家奥勤め、翌年2月より小姓役をつとめる。戊辰戦争時、城内より奥方に付き添って藩老の邸まで逃げのびる。

 1874明治7年11月、一家で上京。
   弟・英郎は朝日新聞社の校正係、幸子は針仕事の内職をして家計を支える。
 1877明治10年5月12日、幸子25歳。新渡戸稲造の養父・太田時敏の媒酌で有島武37歳と結婚。
    有島武:1842天保13年2月10日、薩摩藩支族の下級武士の家に生まれる。祖父は平佐藩お家騒動に巻き込まれ流罪になり苦労する。江川塾で砲術、大島塾で蘭学、箕作塾で英語を学んだ。

 1878明治11年3月4日、小石川水道町で長男・武郎を出産。五男二女に恵まれる。
   幸子の母・山内静、同居。有島武郎は静の宗教心など影響を受ける。
   武、関税交渉に関する国務を帯びて松方正義に従い米・英・独に出張、翌年2月、帰国。

 1881明治14年、有島武、横浜税関長となり1890明治23年まで横浜月岡町に住む。
   ―――税関長として関税自主権獲得のため諸外国と渡り合ってきた経験から、武は託児所から小学二年までバイリンガルの教育を無無理強いした。子の学校選びは、税関長婦人幸の居留地社交界での人脈から決まった・・・・・(『有島武郎事典』)。
 
   ―――ある夜与謝野寛君のところで小宴が開かれ・・・・・その席で「名人長次」の翻案であることの話が出た。僕(孤蝶)は日本における出所が福地(桜痴)氏であることに疑いを述べた。すると、有島君が突然、「あれは私どもが横浜にいた時分に親父に仏蘭西語教えに来ていた人があの話をしたので、それを母(幸子)が書取って一冊にまとめて置いたが、後日円朝にその話をすると、面白がったので、その原稿を円朝のところに貸してやったのです・・・・・」・・・・・(『三遊亭円朝 探偵小説選』)。

   ―――有島君の母堂は「親殺し」の話は当時の仏蘭西新聞に掲載されたもので、それを幾回かに分けて聞きとって控えたという話だった。生馬君と二人で試みに母堂の原稿とモウパッサンの「親殺」そのものの訳文とを対照してみると、それが同一のものである・・・・・母堂の原稿は極めて美しい筆跡で総仮名である。(生馬曰く。当時の父母は熱心な仮名の会、会員であった・・・・・)・・・・・(『有島武郎事典』)。

 1882明治15年、次男、壬生馬(みぶま)(小説家/洋画家・有島生馬)生まれる。
 1888明治21年7月14日、四男、英夫(小説家・里見弴)生まれる。
   幸子の弟死去。英夫、養子入籍して山内を継いだが有島家で育つ。
 1982明治25年、武、大蔵省国債局長・内閣の製鋼事業調査委員に任命され、その審議から官営製鉄所開設が実現。
 1893明治26年、武、大蔵大臣・渡辺国武と衝突、鎌倉材木座に隠棲。

 1894明治27年、日清戦争。
   武、松方正義の世話で、第十五国立銀行世話役となる。
 1896明治29年、有島家は麹町の1200坪広大な旧旗本屋敷に転居。
   9月、武郎、学習院から札幌農学校予科5年に編入学。
   ―――母幸子宛の手紙は、詳細な会計報告に農学校での日常を知ることのできる・・・・・定期的になされた会計報告からは、几帳面な有島の性格・・・・・父母との関係をかいま見られる。て・・・・・(『「白樺」の人びと』)。

 1897明治30年、武、将来を考慮し北海道狩太(現ニセコ町)の農場を手に入れ開墾。
 1898明治31年、武郎、札幌遠友夜学校校歌を作詞。
   けやきのブログⅡ<2015.4.11札幌遠友夜学校(新渡戸稲造)と有島武郎(北海道)>

 1899明治32年6月、静没。享年70。
   幸子は浄土真宗に深く帰依した静の影響をうけ、のちのち島地黙雷や九条武子と親しく交わる。また、有島兄弟もみな女丈夫で篤信家の祖母の影響を受けた。
 1900明治33年、北清事変。
 1901明治34年、愛国婦人会創立:北清事変の際、戦地を慰問した奥村五百子が軍部や近衛篤麿らの後援を得、上流婦人多数を会員とし傷病兵・遺族の保護を目的とした婦人団体。幸子も加入。
   幸子は有島武の妻として、また社会活動に関わる上流夫人としてメディアにしばしば紹介されたほか『婦人之友』『婦人世界』などの雑誌に寄稿。 
 1903明治36年、武、東京市議会議員を一期つとめる。
   夫婦ともに女子文芸学社(千代田高等女学校)支援、評議員として積極的に関わる。

 1904明治37年、日露戦争。
 1907明治40年、『家庭問題:名流座談』(羽仁もと子・博愛社)
 1911明治44年年、この年から武、校長代理を死去するまで務める。

 1916大正5年12月4日、武、胃癌で死去。享年74。
   新政府で薩摩閥を生かしながら地歩を固めた典型的な成功者の一人。諸外国の印紙税制度を*星亨と訳して編集した『印紙税略説』がある。
   けやきのブログⅡ<2022.9.24 明治時代の政治家・星亨、人とエピソード>

 1918大正7年、1月の『新家庭』武郎は若き日の母幸子の苦境に触れている。
   ―――「母は凡ての悲境と圧迫とに対する悲しみ苦しみをよくよく飲み込んでゐる筈です。それは子にとってどれ程の力でせう」。
 1920大正9年、武郎『惜みなく愛は奪ふ』刊行。
 1922大正11年7月、武郎、創作上の行詰まりと思想的限界を打開し、思想と生家k角完全な一致を計るべく農場解放と私有財産の放棄を敢行する。

   ―――有島君の母堂は「親殺し」の話は当時の仏蘭西新聞に掲載されたもので、それを幾回かに分けて聞きとって控えたという話だった・・・・・(生馬曰く。当時の父母は極めて熱心な仮名の会、会員であった・・・・・)・・・・・(中略)・・・・・書き出しは確かにモウパッサンの「親殺」に拠ったものであるのみならず、よんで行くに従って・・・・・ 犯人が「ブルヂョア(旦那)と綽名のある指物師・・・・・法廷の有様や、どこを見ても、一行一行、モウパッサンの作の殆ど翻訳であると言い得る位に原文の句を写し用いてある。・・・・・(『三遊亭円朝 探偵小説選』)。 

 1923大正12年9月1日、関東大震災。
   6月9日、有島武郎、軽井沢三笠山の別荘で波多野秋子と死。麹町の本邸で告別式、青山墓地に葬られた。

 1934昭和9年2月3日、幸子死去。享年80。
   礼女教会の常務委員として活躍。和歌を南部明子、のち中島歌子に学び、夫の武とともに謡曲を命尾寿六に習う。
   能筆家で『近世女流書道名家史伝』に名がある。
   ―――(武郎)「若い時から世の辛酸をなめつくした為か、母の気性には闊達な方面と共に、人を呑んでかかるやうな激しいものが間々現れた。若い時には極度に苦しんだり悲しんだりすると、往々卒倒して感覚を失ふことがあつた。・・・・・然し生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリに変つて、泣き崩れて理性を失ふといふやうな所はなかつた。」要するに父が情の人であるのにたいして、母は、理性的な知の人であるという。さらに母の芸術上の愛好心をのべ、豊かな想像力に言及する。・・・・・洋画家であり作家である次男・有島生馬、作家である里見弴(山内英夫)と、三人まで一流の芸術家をだしたことは、・・・・・母の芸術的感化によるもののようである。・・・・・(『有島武郎集』)。

1935昭和10年、一周忌にあわせて与謝野寛、晶子が編集『有島幸子家集』出版(国会図書館デジタルコレクションで読める)。
   

   参考: 『三遊亭円朝 探偵小説選』2009論創社 /  『有島武郎事典』2010有島武郎研究会 / 『日本文学全集25 有島武郎集』1971集英社 / 『初期白樺派文学集』1983筑摩書房 / 『有島武郎集』1971集英社 / 文学者の手紙2『「白樺」の人びと』2004博文館 / 日本現代文学全集48『有島武郎集』1962講談社

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