« 明治・大正時代の商事会社、鈴木商店主宰・鈴木よね | トップページ | 有島兄弟母・有島幸子は南部藩士の娘、父・武は薩摩士族で官僚 »

2024年4月 1日 (月)

こころうつくしき人かな、馬場孤蝶

 気温の変化がはげしく、やっと東京の桜の開花宣言がでた。気候のせいではないがコロナ禍以来、実家の墓参りをしていない。東京上野の北隣り、谷中墓地で父母が寂しがってそう。
 そんなこと思いながらファイル整理をしていたら、黄ばんだ駐在所便り「てんのうじ」が出てきた。今もあるのだろうか。

   <平成4年9月「てんのうじ」下谷警察署天王寺駐在所発行>
 その内容は、青空駐車・置き引き・交通安全運動・酒は重大事故をさけられない等々をユーモラスなイラスト付で注意喚起。その中で何ともぶっそうなのが、“谷中墓地に爆弾犯人”
  ―――天皇皇后陛下が中国へご訪問されることが決定されました。そこで心配されるのが中国ご訪問を妨害しようとしている極左テロ・ゲリラ犯人の動き・・・・・墓参者のみなさん、どんなに小さなことでも、ためらわずお知らせ下さい。

 昔も今も事件・事故の種は尽きない。溜息しつつ裏を返すと、「JR日暮里駅~鶯谷駅、谷中霊園の著名人一覧・墓地案内図」。

 no.1は、俳優・長谷川一夫(1908~1980)。ずーっと前、その墓前に居並ぶタカラジェンヌを見たことがある。
 一覧の最後はno.46、日本画家・菊地容斎(1787~1878)である。
 話ついでに、駐在所から離れた所に徳川慶喜の墓があり、大河ドラマ放映中は行列ができて大賑わいだった。
 ところで、映画にもなった古着屋吉蔵殺し、no.8、高橋お伝(1851~1903)の墓がメインストリート桜並木の傍にある。すぐ目に入るが誰も振り向かず、なにがなし哀れをさそう。
 この項終わりに谷中霊園に眠る<けやきのブログⅡ>登場人物の過去記事をあげてみた。

 さて、今回の主人公はno.31、英文学者・馬場孤蝶である。
 孤蝶の兄・馬場辰猪と東海散士・柴四朗は仲が良かった。しかし、弟の孤蝶は四朗をよく思わないようす。
  けやきのブログⅡ<2009.10.26上野不忍池で競馬があった、馬場辰猪>

 馬場辰猪は幕末の嘉永生まれ、孤蝶は明治2年生まれ、19も下である。親子同然の年代差、志向の違いは当然かも、英文学者と国権主義の東海散士とは相容れないだろう。
 では、馬場孤蝶はどのような生涯を送ったのだろう。孤蝶の名は知るも作品を読んだことはない。そして調べはじめて
「あっ、え~、そういえば・・・・・」樋口一葉の評伝にでていた!
 かなり前に点訳ボランティアをしていたことがあって、その点訳第一冊が『樋口一葉をよむ』でした。
 

    馬場 孤蝶

 1869明治2年11月8日、土佐高知藩士・馬場来八の子に生まれる。
   本名・勝弥。兄は自由民権家、馬場辰猪
 1878明治11年、10歳。父母と共に上京。翌12年、忍岡小学校入学。
 1888明治21年11月1日、兄の馬場辰猪、アメリカで客死。
 1889明治22年、明治学院普通学部本科2年に入学。
   島崎藤村戸川秋骨と同級で仲が良く、二人に影響を受けた。

 1891明治24年、23歳。明治学院卒業。
    年末、高知の共立学校に教師として赴任。
 1893明治26年2月、島崎藤村、高知に来遊。
   8月、辰猪は高知を去り上京、東京本郷龍岡町の父母と住む。
   1月、文芸雑誌『文学界』創刊。
      創刊当時の同人は星野天知・星野夕影・平田禿木・島崎藤村・北村透谷・戸川秋骨、のちに馬場孤蝶・上田敏が加わる。
   11月、孤蝶、はじめての詩「酒匂川」を発表。
   ―――『文学界』時代は創作・詩の筆もとったが、むしろ評論および西洋文学、とくに大陸文学の翻訳・紹介者として功績があった。・・・・・ 時代の浪漫主義者としての面影は「酒匂川」・「孤雁」などの詩や、「片羽のをしどり」「流水日記」「雪の朝」などに認められる。・・・・・(『現代日本文学大事典』)。

     「酒匂川
  秋風立ちし 昨日今日 野面の色も 者さびて
  行水の瀬に 愁ひある 夕のかげは 静かなり
    ・・・・・
  殊さら雲は 朝(あした)より 高峯を出ヽ 空にみち
  西野入日も 微かにて 茜の色も 包まれぬ ・・・・・(以下略)
   ―――2段組6頁にもわたるこの詩には、『文学界』時代の浪漫主義者としての面影が認められる。(『現代日本文学大事典』)。

 1894明治27年1月、処女小説「片羽のをしどり」を『文学界』に発表。
   以後、「流水日記」「みをつくし」を同誌に連載。
   3月、はじめて樋口一葉を下谷龍泉町の家に訪問

 1895明治28年、詩「すりごろも-別れ路」を『文学界』に発表。
   5月、文部省中等教員検定英語科試験に合格。
   9月、滋賀県彦根中学校に英語教師として赴任。以後、休暇ごとに父母の家に帰省。

   ―――丸山福山町の一葉の借家には性別・年齢・境遇・職業を問わず、さまざまの人びとが集まった。一葉という当代の類い希な女性を焦点として、西村釧之助(相場師)、平田禿木・戸川秋骨馬場孤蝶・星野天地(文学界同人)、関如来・横山源之助(新聞記者)、川上眉山・斎藤緑雨・幸田露伴(作家)などや、野々宮菊子・安井哲子(教師)・大橋時子(博文館大橋乙羽夫人)、その他、和歌や国文・習字などを習いにくる学生たちで賑わった。・・・・・ なかでも気骨も情もそして男の愛嬌も合わせ持ち、一葉から「こころうつくしき人かな」(明治28・10)と評された馬場孤蝶は、明治二十七年三月十二日の初訪問以来、一葉が亡くなるまでずっと交流があった数少ないひとりである
・・・・・ とくに孤蝶が二十八年九月、彦根中学の教師として赴任してから交わされた五回にわたる二人の往復書簡は、「手紙」という形式が、ちょっと距離のある男女の間のコミュニケーションとしていかに優れたメディアであるかを雄弁に語っている
・・・・・ 手紙は遠くにいる人と人との心を華やかに演出する。「夏はやし女あるじがあらひ髪」(明治28.5.7)と句に謳った孤蝶は「女主人」をもり立てることのできる人であった。・・・・・ (『樋口一葉をよむ』)。 

 1897明治30年2月、埼玉県第一尋常中学校教師となる。
   11月、日本銀行に入り9年間勤める。
 1901明治34年、33歳。
   美文「秋のゆふべ」、短歌「湖山秋風」十首を『明星』に寄稿、以来、上田敏とともに顧問格として敬重される。

 1902明治35年、詩「友を悼む歌」の他、小説、翻訳、美文など『明星』に発表。
 1903明治36年、翻訳集『やどり木』刊行。

 1905明治38年9月頃、『万朝報』の詩の選者となり、翌年にかけて新体詞華集『花がたみ』『春駒』を編集・刊行。
  ―――孤蝶が新しいものに対してきわめて敏感に反応したことは、彼の感性がいつ迄も老化衰退しなかった事を示すものといふべく、それなればこそ、彼は青少年が投稿する『萬朝報』や『秀才文壇』の詩欄の選者を長く嘱託された・・・・・ 彼の不滅の功績は、泰西の新文芸をいちはやく輸入紹介した点にあると言ふべきであろう・・・・・(『明治詩人集(一)』)。

 1906明治39年~1930昭和5年、慶応大学文学部教授。英文学を教える。
   この間、詩作をしトルストイの「戦争と平和」、ホメロス「イリアッド」を翻訳。
   1月、『芸苑』(第二次)上田敏主宰、森田草平・生田長江らと発行。
 1910明治43年、『国事探偵』ゴリキー原作、昭文堂。

 1925大正14年、随筆『紫煙』大阪屋号書店。

 1936昭和11年、『明治文壇回顧録』協和書院。
   のち、生前の随筆集から再編成した『明治文壇の人々』刊行。
   おもな項目:鷗外大人の思出・斎藤緑雨君・若かりし日の島崎藤村君・樋口一葉女史に就いて・『文学界』のこと。
  ――― 一葉の回想は、著者が一葉と最も親しい友人の一人であったといふことで、内容も印象的であるが・・・・・一葉が福山町を転宅して、そこに訪れるやうになってからの一葉に対する観察は客観的で面白い。・・・・・全体的に感じられることは、明治二〇年代の一部青年の持っていたピューリタニリズムである。これは後代の青年にも若干継承されているが、「文学界」の同人ほど純粋で且つ情熱的であったものは少なかろう。・・・・・この孤蝶の随筆などを見ていると、如何にも英国型の紳士らしい筆調である。何といってもそのいい人柄がにじみ出ている。その代わり、相手の良さだけを書いているという点もみえなくはない。・・・・・(『文学的回想集』)。

 1940昭和15年6月22日、肝臓ガンに腹膜炎を併発して、渋谷区松濤の自宅で死去。享年72。

   参考: 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『明治詩人集(一)』明治文学全集1983筑摩書房 / 『文学的回想集』1967筑摩書房 / 『樋口を一葉をよむ』関礼子1992岩波ブックレット

     ~~  ~~  ~~  ~~  ~~  ~~  ~~

   けやきのブログⅡ 
 2012年12月 1日 会津藩士のカラフト、明治の教育者・南摩綱紀(福島県)
 2012年11月17日 戊辰戦争スネルと横尾東作(仙台藩士)
 2013年3月23日 明治のジャーナリスト・事業家、岸田吟香
 2014年5月24日  ペリー、プチャーチン応接係、維新後は神道:平山省斎(福島県)
 2015年12月12日 登米県権知事、漢学者・鷲津毅堂(宮城県・愛知県)
 2017年8月 5日 将軍侍医のち軍医監、石川桜所 (宮城県)
 2018年11月 3日 自由民権あまりに性急すぎて、赤井景韶 (新潟県)
 2019年2月16日  世界的な植物分類学者、牧野富太郎(高知県・東京都)
 2021年1月23日 大村藩つながり、松林飯山-楠本正隆-岡鹿門(千仞)
 2021年5月 8日  "医は仁術"上は徳川将軍から庶民まで治療、浅田宗伯

 

|

« 明治・大正時代の商事会社、鈴木商店主宰・鈴木よね | トップページ | 有島兄弟母・有島幸子は南部藩士の娘、父・武は薩摩士族で官僚 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 明治・大正時代の商事会社、鈴木商店主宰・鈴木よね | トップページ | 有島兄弟母・有島幸子は南部藩士の娘、父・武は薩摩士族で官僚 »