明治初めの浅草にて写真館開業・北庭筑波、子は大正期の新派名優・伊井蓉峰
―――下に掲げるのは、最近予が本多子爵(仮名)から借覧することを得た、故ドクトル北畠義一郎(仮名)の遺書である。・・・・・(中略)・・・・・北庭筑波が撮影した写真を見ると、北畠ドクトルは英吉利(イギリス)風の頬髭を蓄えへた、容貌魁偉な紳士である。
これは大正期『中央公論』掲載の芥川龍之介「開化の殺人」の書き出し、文中の北庭筑波は田本研造・小川一眞らと同時代の写真師である。
手元の人名辞典にはないが、河竹黙阿弥など小説にも登場するほど有名だったよう。
北庭筑波の読みは「きたにわ つくば」、家の北に筑波山が見えるから「北庭筑波」と号し、瓶米雷(ヘベライ)先生とも呼ばれた。
ちなみに、子は大正期の新派の名優・伊井蓉峰(いい ようほう)。親が「北には筑波山」だから、子は「西には富士ヶ根」の芙蓉峰(ふじさん)。
けやきのブログⅡ<2021.11.13 土方歳三を撮った箱館(函館)の写真家、田本研造>
けやきのブログⅡ<2016.9.10 明治の営業写真家・印刷業者、小川一眞>
けやきのブログⅡ<2018.7.21 東京田端、芥川龍之介(東京)>
1842天保13年12月、伊井幸之助、江戸日本橋呉服町の裕福な油問屋に生まれる。
号・北庭筑波、瓶米雷(ヘベライ)。
1854安政元年、―――内田九一は東武浅草旅籠町に住み・・・・・横山松三郎 浅草なる北庭筑波 江崎礼二その他有名の輩枚挙にいとま非ず(『武江年表』)。
1868慶応4年、下岡蓮杖の弟子・横山松三郎、東京両国で写真館開業、のち上野不忍池に移り独自技法の写真油絵など新しい写真技法に取り組む。
1871明治4年、北庭は浅沼藤吉を動かして写真材料商(浅沼商会)を開業させ、自らも浅草花屋敷で写真館を営む。
8月16日、長男・申三郎(のち伊井蓉峰)生まれる。
伊井蓉峰:大正期の新派俳優。ドイツ協会学校を中途退学、三井銀行に入るも辞めて依田学海の改良演劇済美団に入る。吾妻座(済美館)にて男女合同の改良演劇「政党美談淑女操」に出演。次いで川上音二郎一座に入るが脱退、都内の小劇場で公演を続け、歌舞伎座に進出。その後、新演劇の創造につとめ、大正期、新派劇の中心となって活躍。
親が「北には筑波山」であるから、子は「西には富士ヶ根」の芙蓉峰。
伊井蓉峰は好い容貌・・・・・(『私の今昔物語』)。
―――(新橋花月 平岡得甫老談)私が父から花月を譲られてから道楽の限りをつくして店も何も滅茶苦茶、その日の米にも困る様に・・・・・隣家にいた北庭筑波といふ傑物、よく裏から大根だの秋刀魚だのをそっと持ってきてくれました。・・・・・私が大きな花月の中につくねんと座つて困り切つてゐるのをみていはば貸座敷といふやうな日本はじめての商売を教えてくれた。・・・・・(『戊辰物語』)。
1872明治5年7月、『新聞雑誌』第53号
―――浅草山内花園ニ住セル北庭筑波ナル者、ヘブライト号ス、写真ノ述ニ精妙ナリシガ、此頃マタ米国人ヨリ一種新発明ノ方法ヲ伝習セリ、四方ノ有志者就テ其方法ヲ試ムベシ」とある。・・・・・(『異種日本人名辞書』)。
1873明治6年、横山松三郎、洋画塾を併設。
写真師の北庭筑波や中島待乳、木版・石版画家の亀井至一や下国羆之輔らを輩出する。
「浅草に写真店が軒並べる」<北庭筑波、闇夜もOK>(6.5.15東京日日)
――― 「浅草金龍山内の写真師 北庭つくば、その術の妙あるよく人の知る所、今般闇夜に写すべき器械を取り寄せ、これを持ってその術をなすに、白日に写せるものとすこしも譲れる所なし、出写、来賓とも意のごとくなり。けだし風雨を論ぜずと。実に一の発明というべき也」とあり。当時既に、マグネシユムを燃やすなどの、暗夜撮影の法行はれしか。・・・・・(『明治事物起原』)。
1874明治7年、日本最古の写真雑誌『脱影夜話』深沢要橘と創刊。
出版・浅沼商会。写真ジャーナリズムの先駆をなした。その交遊の広さから写真業のみならず、画家や文士らと親交も厚く写真文化の基盤を築く大きな功績をのこす。
―――1889明治22年2月(北庭筑波没後)、写真師・小川一真『写真新報』発刊。この『写真新報』は・・・・・『脱影夜話』の後継となった機関紙。発行所は博文館書店、編集発行人は小川一真、印刷人安野政幸で毎月発行、定価十五銭であった。・・・・・(「幕末明治の写真師列伝・鈴木真一」)。
1875明治8年、<写真師 北庭筑波の声誉 「研究に沈潜」>
―――東京府の影相家(しゃしんし)月を重ね日を積んでますます盛んに、これをもって口を糊し生を営めるが、ひとり浅草奥山に住せる北庭筑波はしからず、真にこの技をもって性命に替え沈潜研究し、その至妙に詣(いた)らざれば止まずと期せるにより、他人嘖々称賛して措かずといえども、自心なお歉然(けんぜん)として餧色(いしょく)あり。・・・・・(8.1.5郵便報知)。
北庭筑波を発明家とする説もある(伊井蓉峰の項)。
1878明治11年11月、「写真学校会」(仮名読み新聞)
―――瓶米雷(ヘベライ)先生(北庭つくば)は、豪商の家に生まれて商売の利を省みず、舎密の学に心を傾け、写真の術に勉強する事十有余年、誰がナントいつても東京写真屋の親玻璃(親玉)だと評判・・・・・浜町梅やしき相鉄の茶亭にて、写真学校を毎月一度宛開くと云ふ。洋書翻訳の講義は井口先生、席費には一人前二十五銭、講談中は茶、煙草を禁ずるとの事。是は写真屋さん許りに限らず、舎密に心のある者は聞事で有ませう。
1879明治12年、<浅草奥山の客引き競争>(12.11.18東京日日)。
―――浅草奥山の写真師は現在三十七、八軒も開店して、目を突くほどなれば、北庭、江崎の二軒のほかはいずれも競って客を引き入れんと、・・・・・可笑しくもなきにニコニコ物で往来の人の袖を引っ張り・・・・・組合二十余名が申し合わせて、右悪弊を止めさせんため・・・・・奥山内へ更に二カ所の写真場を設け・・・・・(『明治日本発掘』)。
1885明治18年5月、『西洋手づまの種』北庭筑波編・稲垣良助出版。
―――(緒言) 春は花を愛て酒宴を開き秋は月下に風雅の筵を設け歓楽を極めるも各々目を喜ばすの限り愉快・・・・・手品の手(て)術たるも遊宴の席上・・・・・奇々妙々不可思議の賛成を得るも又愉快ならずや・・・・・手品中に三ツの区別あり薬法より為す術あり機械より為すあり手術の錬磨より為す技あり・・・・・応需本業の余暇に 北庭筑波 戯述・・・・・
・・・・・ 第一 洋蓋の中の墨を清水となし金魚を出す法 ~ 第二十三 真に幽霊を出す法 ・・・・・『明治名人伝』にも、「花街柳巷に其名聞こえて一個風流といふべし、異名をヘブライ先生と云へるは何の故なるやを知らず」とある・・・・・(『西洋手づまの種』)。
―――「西洋手づまの種」(定価二十銭)奇々妙々の珍書なり・・・・・絵双紙店にて御求めを願ひ上枡 東京うさぎ屋/横浜 守屋正造・・・・・(『偽紫田舎源氏』の広告頁より)。
1886明治19年、写真版権免許「板垣退助像」北庭筑波・東京(1886.9.15官報964号)。
1887明治20年12月10日、死去。享年45。
参考: 「幕末明治の写真師列伝 第33回 鈴木真一 その四」 森重和雄 / 『異種日本人名辞書』1931宮武外骨編・刊行 / 『世界大百科事典』平凡社1972 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『明治日本発掘』1994河出書房新社 / 『私の今昔物語』巌谷小波1928早稲田大学出版部 / 『新聞集成明治編年史 第三巻』1940林泉社 / 東京日日新聞社会部編『戊辰物語』1928万里閣書房 / 『明治事物起原』石井研堂著1908橋南堂 / 『現代演劇綜覧』高沢初風1919文星社 / 国会図書館デジタルコレクション
| 固定リンク
コメント