« 能登半島・羽咋(はくい)のいろいろ | トップページ | ニコライ堂を施工した旧会津藩士・長郷泰輔 »

2024年5月20日 (月)

大正期、悩みをもつ女性の理解者となり話相手となった三宅やす子

 子どもの頃、浅草の伯母さんが来るとうれしかった。いつもお土産をいっぱい持ってきてくれる。ただ、お行儀にやかましいのがちょっと難だった。
 お転婆な私、明治生まれの伯母のみならず大人たちに「女の子なんだからお行儀よく」とか注意された。
 その類いの注意というか、お叱りというか「女なんだから」「女のくせに」近ごろあまり聞かないが、実は言葉にしないだけみたい。

 NHKテレビ小説「虎に翼」日本初女性弁護士のドラマを視ている。
 主人公寅子が女ゆえ差別され、報われないのを見ては、なんという時代だったのか。そう嘆くと同時に、大正時代はもっとでしょうねえと思わずにはいられない。
 その大正期、女性問題を家庭の主婦の立場から論じた作家で評論家、三宅やす子がいる。
 ところが、筆者はその明治生まれの三宅やす子をまったく知らなかった。
 たまたま国会図書館デジタルコレクションでみかけた平易で読みやすい文章に興味をもった。そして、全文読むなら紙の本の方がいいので図書館の蔵書検索をしたが見当たらない。
 デジタルコレクションに著作が数あり、人気作家だったと思われる著書が図書館に無い。でも人名辞典には「三宅やす子全集」全4巻とある。どうしてかな。
 幸い『現代日本文学大事典』に三宅やす子の項あり、見てみた。

     三宅 やす子

 1890明治23年3月15日、京都市富小路丸太町で生まれる。
   このころ京都師範学校校長だった加藤正矩の娘に産まれる。
   戸籍では嫡子だが実母は正妻ではなく、実母を「ばあや」と呼んで育った。こうした生い立ちが、のち作家となったとき作品に反映される。

 1899明治32年、9歳。東京に移り、番町小学校入学。
   ―――私は京を離れたのは九つの夏、汽車の窓から知人が贈ってくれた大きな枇杷の籠を覚えている。 其籠に寄りかかり乍ら汽車が逢坂山のトンネルを越すまで泣いて、泣いて居た。 春にも秋にも、折々に、京はたのしみの深いところだつた。・・・・・(『生活革新の機来る』三宅やす子)。
   ?年、 御茶ノ水高等女学校を卒業。
   ?年、 父の死により伯父・*加藤弘之の邸内に移り住む。
     自己の出生の複雑さと、体面を重んずる周囲への反感から文学好きの少女となり、*『女子文壇』に投稿したりした。

   『女子文壇』:女流文芸誌。
    文壇の大家・新進に寄稿をあおぎ広く投稿を募った。女性の現状に即しつつ、その自覚をうながし、微温的ながら自由と解放の道を開き、当時のいわゆる新しい女としての生き方をしめした。

   加藤弘之:(1836~1916)明治の啓蒙的学者。
    幕府の開化路線に洋学者として奉仕。維新後、天賦人権論を唱えたが、民選議院設立は時期尚早として政府を擁護、民権派と対立。

 1904明治37年、日露戦争。
 1910明治43年3月、理学士・昆虫学者・三宅恒方と結婚。やす子21歳。
    ―――夫の恒方は*光風会に出品するほど絵の趣味をもち、自らにかわってやす子がものを書くことを褒め、夏目漱石のもとに通わせた。・・・・・(『現代日本文学大事典』)

   光風会:洋画・工芸の美術団体。
    旧白馬会の中沢弘光らが創立、穏健な官展系作家団体。
 1912明治45年、長女・恒子生まれる。

 1914大正3年、第一次世界大戦に参加。
   長男・恒雄うまれる。のち、次男も生まれるが二人とも夭折する。
 1916大正5年、夏目漱石死去。
   漱石の死後、未亡人の紹介で*小宮豊隆に師事、小説を学び、のち、『新小説』に小説を書く。

   小宮豊隆:ドイツ文学者。漱石の門下。歌舞伎・能・俳諧などにも造詣が深い。

 1921大正10年2月、夫の恒方、急死。文筆で子どもを育てる決心する。
   ―――自己の体験を織りこんだ小説を書くとともに、おりおりの婦人に関する時評や評論を書いて次第に特色をしめし、「女性のために」ほか二七編の感想と「白い部屋」「過ぎ行く時」「若き妻の悩み」三編の創作を合わせた『心のあと』(実業之日本社)に、小宮豊隆の序をつけて出版。

 1923大正12年、33歳。
   家庭の主婦の立場から女性問題を平易、かつ自由率直に論じ、執筆・講演に活躍。
   ―――感想評論集を次々と出し、旧道徳に対して自由な女性の立場を平易に説いて<女流思想界の明星>とも言われる。
   『未亡人論』(文化生活研究会)・ 『八つの泉』(災害救済婦人団)・ 『生活革新の機至る』(新作社) 
   6月、雑誌『ウーマン・カレント』(~昭和2年)創刊。
     頼まれる原稿では言いたいことが言えないからと独力で創刊。巻頭論文から随筆・小説・料理メモなども書いた。

 1924大正13年、『婦人の立場から』(アルス)・『我が子の性教育』(文化生活研究会)・ 『私達の問題』(アルス)。

 1926大正15年、短編集『ある夫人の手紙』(アルス)出版。
   長編小説『奔流』:大正15.1.2~4.29「東京朝日新聞」に118回連載。
   ―――妾腹に生まれ、父に早く別れた香川淳子は伯父の世話になりながら生母おちかと暮らしている。淳子は医学生と恋をして縁談を断り、家出をしかけるが・・・・・科学者宮原進に望まれて結婚する(前編)・・・・・・・・・・作者の体験がかなり織り交ぜられているが、女主人公の一途な生き方は、女が自己の真実を貫き通すことの困難な状況の中で、かなりの反響をよび、*高畠華宵の通俗的ながらモダンな幻想美に富んだ挿絵もあいまって注目をひいた。・・・・・力をこめた長編であり傑作といってよいだろう。・・・・・(井上百『現代日本文学大事典』)。

  けやきのブログⅡ<2020.6.13甘美な感傷・華麗な叙情で一世を風靡、高畠華宵(愛媛)

 1928昭和3年、『愛の賛美』(教文社)。若い読者を対象として出版。
 1929昭和4年3月18日――中公論者主宰・文芸講演会、時事講堂にて、大宅壮一・織本貞代・三宅やす子、小島政二郎。
   3月29日――読売新聞文芸部主催、各派女流文芸講演会、読売講堂にて、中本たか子、吉屋信子、岡田禎子、三宅やす子林芙美子、中河幹子。

 1930昭和5年、『金』(先進社)・『燃ゆる花びら』(新潮社)・『真実に歩む』(教文社)などを出し、執筆に、講演に花々しく活躍。
 1931昭和6年7月、結婚するつもりでいた夫の後輩、昆虫学者と別れる。

 1932昭和7年1月18日、死去。享年42。
   昆虫学者と別れた痛手から仕事にも無理をしていた。

   長編「偽れる未亡人」を『婦人公論』に書いている時、心臓麻痺で亡くなる。
   ―――その小説は、自己の体験や見聞に基づいた自然主義風の私小説的なものが多く、通俗的でもあるが、その常識的な家庭の主婦らしい親しみやすさとともに、女性らしい繊細な感覚と鋭利な観察が、当時としては大胆な表現で自然に率直に述べられている点が、多くの読者を得た所以であろう・・・・・手慣れた小説で一見通俗的だが、独自の個性ある人という評価は、・・・・・大方のものであったらしい。・・・・・評論を通して、現実的生活の場にたちながら、女性の恋愛・貞操・結婚の問題を論じ、悩みをもつ女性の理解者となり話相手となった功績は大きい。・・・・・(井上百『現代日本文学大事典』)。

   参考: 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本人名辞典』1993三省堂  / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 国会図書館デジタルコレクション

|

« 能登半島・羽咋(はくい)のいろいろ | トップページ | ニコライ堂を施工した旧会津藩士・長郷泰輔 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 能登半島・羽咋(はくい)のいろいろ | トップページ | ニコライ堂を施工した旧会津藩士・長郷泰輔 »