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2024年5月27日 (月)

ニコライ堂を施工した旧会津藩士・長郷泰輔

 コロナ禍で4年もご無沙汰だった友人と会うことになった。どこ行こう。待ち合わせはいつもの上野駅、文化会館前でいいか。それとも久し振りに銀座にする?
 そんなこんな都内のあちこちを思い描いていたせいか、『紙碑・東京の中の会津』が目に入った。会津贔屓には興味深く、参考になる。
    けやきのブログⅡ<2011.12.29都心にのこる幕末明治、会津藩士の収容所跡(東京都・福島県)>

 今回はその『紙碑・東京の中の会津』にあった<日本建築史上の草わけ、ニコライ堂を施工したという旧会津藩士「長郷泰輔」>に興味をもった。
 ニコライ堂は御茶ノ水に行くと目に入るお馴染みの建物だが、設計施工人について考えもしなかった。
 取りかかってさっそく躓いた。姓の読みが、ちょうごう・ながさと・なごうといろいろある。ここでは、『紙碑・東京の中の会津』にある「なごう」とした。
 また、まとまった資料を得られなかったが、立志伝中の人の波乱の生涯をみると仕方ないかも・・・・・諦めかけたが見逃すには惜しい。纏まりがないまま記した。

     長郷 泰輔    (なごう たいすけ)

 1849嘉永2年2月11日、会津藩士・長郷佐平の三男に生まれる。
 1861文久元年、ロシア正教会大司教・ニコライ・カサートキン、函館に来る。
   宣教使の入国は重大問題であるが、条約で各国居留人だけを対象にするという条件のもとに領事館内に教会堂の設置が許された。
 1868慶応4年1月、19歳。鳥羽伏見の戦いに従軍。
   12月(明治元年)、榎本武揚ら蝦夷地を占領、五稜郭を本営とする。
   ―――(泰輔二男・長郷有泰の書信)・・・・・五稜郭に合するため、徒歩奥州を横断し青森より小舟にて函館に着したるが既に遅し・・・・・新政府軍の詮議を逃れ*ロシア領事館に身をのがれ、牧師ニコライの家僕となる・・・・・(『紙碑・東京の中の会津』)。
   泰輔はニコライに従者として仕え、正教を受洗し洗礼名「イリヤ」を授かる。

 1869明治2年~1870明治3年頃、贋札事件が続発。
   ―――その中心となったのは主として会津・米沢などの旧藩士であった。・・・・・泰輔もあるいは行方不明犯人の一人であったか・・・・・ もちろん、贋金造りはいつの時代においても天下の違法にちがいないが、・・・・・国家権力の移行期の混乱を背景に・・・・・言語を絶する窮乏が駆りやったことで、今日的な犯罪と同一視することは打倒ではあるまい。・・・・・・(『紙碑・東京の中の会津』)。

 1871明治4年、泰輔は領事館牧師ニコライに従い上京する。
 1872明治5年、ニコライ、神田駿河台(大久保彦左衛門子孫の屋敷跡)の宣教団本部に居住。泰輔はニコライに一生の職業を相談すると、
   ―――ニコライ師の御考にて建築業が可ならんとて、横浜居住の建築家*レスカス氏に就くこととなり一年余横浜に通い建築の技を習い、ニコライ師が聖堂建設の運びに至りたるときは当時政府御雇い英人コンドル氏と共同して設計建設にたづさわり聖堂の地下約四十間の所には墓石に両人の姓名を刻したる銘板あり・・・・・(『紙碑・東京の中の会津』)。

   レスカス:ニコライ堂の設計監理はフランス人と伝えられており、横浜居住地で建築事務所を営んでいたジュール・レスカスが定説・・・・・土木分野の技術者だったらしく、遅くとも1872明治5年には来日、官営生野銀山の建屋建設に携わっている。大山巌や西郷従道ら元勲の邸宅を手がけたとされている・・・・・(『ニコライ堂と日本の正教聖堂』)。

 1880明治13年3月、二男・有泰 生まれる。
   長郷有泰:東京帝国大学法科政治科卒業。越後鉄道株式会社営業部長・法学士・東京府平民(財界フースヒー)

 1884明治17年3月、東京御茶ノ水、ニコライ堂(東京ハリストス復活大聖堂)着工。
    施工者・長郷泰輔。
   ―――日本ハリストス正教会の総本山。ニコライはロシアに帰国し聖堂建築資金を募金。建築家シチュルゥポフが設計図を作成、日本での工事監督はイギリス人ジョサイア・コンドル、工事請負人は神学校の修復をてがけた信徒 イリヤ長郷(旧姓古田)泰輔。建設資金を布教にあてるべきとの沢辺琢磨たちの強い反対があった・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

   ―――ギリシャ正教の教会堂に通例のビザンチン様式で、設計図はロシアでシュチュルボフgが作成し、コンドルは構造設計と施工管理のみ担当した。・・・・・(『明治の建築』)。

   ―――ニコライ氏の教会堂 神田駿河台北甲賀町なる露国宣教使ニコライ氏の新築工事は、芝区今入町二番地の長野(長郷泰輔)が引き受け、・・・・・目下日々百余名の職工を使用して工事を急ぎ居るも、落成を告ぐるは来る二十二年五、六月頃の見込みなるよし。右の煉瓦は他に比類なき堅牢なるものにして、建物の厚さは六尺余、これを貫くに鉄の棒を用いたれば、いかなる地震にも崩壊の気遣いなく、・・・・・(時事20.2.16)
   のち、1923大正12年9月、ニコライ堂(ハリスト復活聖堂)焼失。

 その後のニコライ堂:大正12年関東大震災。堂鐘楼が本堂の上に倒れ、本堂内部も焼ける。昭和4年復興・・・・・1998平成10年修復完了、現在に至る。

 1885明治18年5月25日 <賞勲局>
    東京府下寄留福島県平民 長郷泰輔 露国勤勉褒章佩用ノ儀 別紙ノ通願出候條御允許相成可然?哉此條上申壮候也  公文録( 国立公文書館デジタルアーカイブ)。
 1886明治19年、「長郷組建築会社」設立。
 1887明治20年5月16日、<外国勲章佩用ノ件>
   福島県平民長郷泰輔 澳地利国恵匈牙利国勲章佩用ノ件。
「別紙 福島県平民長郷泰輔 澳地利国恵匈牙利国フランツ ジョゼフ第五等ゴルデ子 ヘルディンス クライツ勲章佩用願出之儀御允許可相成哉此段上申ス」
   フランス大使館、ロシア大使館なども建設したようだが、詳細は不明。

 1888明治21年、「大日本建築会社」設立。
   建設工事はニコライ堂のほか帝国議会第二次仮議事堂、北海道セメントなど。
   参考:「大日本建築会社の沿革と長郷泰輔について」
      https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/85/775/85_2013/_pdf

 1890明治23年、第一回帝国議会議事堂。木造2階建、日比谷公園西隅に建てられる。
 1891明治24年3月、「7年の歳月をかけたニコライ堂開堂式挙行」
   ―――来会する者無慮三千余人、その重なるは西郷伯爵夫人、後藤伯爵夫人、各国公使、ボアソナード氏および重野安嗣氏、中村正直氏等その他諸氏にて、式畢(おわ)りて立食の饗応あり・・・・・(24.3.10東京日日)。

   1月、できたばかりの議事堂、全焼。
   ―――衆議院内政府委員室雷管暴騰して発火・・・・・火はたちまち貴族院の方に燃え広がり、名に負う大建築もたちまち猛火に包まれて了りぬ・・・・・(24.1.2 朝野新聞)。
   10月、帝国議会仮議事堂(木造・再築)。長郷、関わったらしい。
   11月、新議事堂の参観人、三日間で十万人を越す・・・・・(24.11.19 国民新聞)。

 1894明治27年、日清戦争。
   多くの利益を得て、鉱山に投資するも失敗して資産を失ったらしい。
   3月、日本建築合資会社(芝区今入町)資本金50万円。業務担当:長郷泰輔・金子宗象。

 1897明治30年、「大日本建築会社」を閉業、「長郷組」として活動したらしい。
 1901明治34年、『日本紳士録』第7版 交詢社
   長郷泰輔:土木建築請負業、麹町区永田町二丁目七。
 1903明治36年、「仁寿生命保険合資会社登記事項中左ノ如ク変更ス」
   有限責任者員 宮原篤ハ明治36年12月4日其持分全部ヲ長郷泰輔ニ譲渡シテ退社シ長郷泰輔ハ之ヲ譲受ケ同日入社セリ
   一金一万円 有限。東京市麹町区永田町二丁目七番地  長郷泰輔
     (『仁寿小史 創立四拾周年記念』1935仁寿生命保険株式会社)  
   12月、出資社員・長郷泰輔入社

 1904明治37年5月24日、官報。次の記録があるが詳細不明。
   特許局 日本「パナマ」製造法特許・・・・・・・・・・「特許局審決録 明治37年1月-明治38年6月」特許局 明治39-大正4。 請求人 長郷泰輔。

 1906明治39年、「長郷組」の活動終了。
 1907明治40年2月、辻新次・東條一郎・長郷泰輔重任
    業務担当社員 長郷泰輔
 1910明治43年、仁寿生命保険会社を除名となる。

 1911明治44年7月15日、胃癌で死去。享年63。(7.18 東朝)
   雑司が谷霊園に葬られる。墓石裏面には桜井勉(明治期キリスト教者・木村熊二の実兄)の撰文が刻まれている。
   ―――長郷泰輔の歴史上の位置づけは、「工部大学建築家出身の辰野金吾が未だ大いに世に名博せざる間に、長郷早くも先駆をなし、明治建築史上普及の業績を遺した」・・・・・(『紙碑・東京の中の会津』)。

 

    参考: 『紙碑・東京の中の会津』牧野昇1980歴史調査研究所 / 『明治の建築』桐敷真次郎2001本の友社 / 『ニコライ堂と日本の正教聖堂』池田雅史2021東洋書店  / 『明治日本発掘 4』1994河出書房新社 /  「大日本建築会社の沿革と長郷泰輔について」平山育男https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/85/775/85_2013/_pdf

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