« 明治初めの浅草にて写真館開業・北庭筑波、子は大正期の新派名優・伊井蓉峰 | トップページ | 大正期、悩みをもつ女性の理解者となり話相手となった三宅やす子 »

2024年5月13日 (月)

能登半島・羽咋(はくい)のいろいろ

 近年の観光地、日本人はもとより来日外国人も押し寄せるなどオーバーツーリズム。
 その一方、災害地の能登半島に赴きボランティアをする感心な人が少なくない。
 自分はといえば、老いを言い訳にして能登半島の地図をながめるばかり。
 その能登半島、地図をみると雰囲気ある地名が多く歴史を感じさせると感心したが、能登半島の玄関口「羽咋」が読めない。「咋」の字も知らない。
 それで「羽咋」を調べてみた。
 
 「咋」。読みは「さく・さ」。
 意味 ①くう・くらう・かむ ②しばらく。たちまち。
 羽咋の歴史は古く、四柳貝塚があるように縄文時代から人が住み着き、弥生時代の遺跡としては吉崎・次場遺跡がる。親王塚・丸山・観音山などの古墳がある。

 741天平13年、能登国は越中国の併合され万葉歌人・大伴家持が5年間国司をつとめ、能登半島を巡察している。
  之乎路(しおじ)からただ越え来れば 羽咋の海朝凪したり船楫もがも(万葉集
  之乎路よりまっすぐ山をこえてくれば、羽咋の海は朝凪して何と静かなことか、舟を漕いでみたいものだ。・・・・・(『郷土資料事典19』)。

     「羽咋」(はくい) 地名の由来

  ―――往古、邑知潟(おうちがた)羽咋の入海たりし頃、羽咋はその海岸にありしが、後ち漸く人煙蕭疎(しょうそ・さびしくまばら)の部落を作れるなりと、あるいは曰く、羽咋は往古今の兵庫粟生二村の辺に隣れる地境に一部落をつくる、当時子浦川は今の町の中央を紆曲て流れしかど、幾多の清爽を経て、水沢沮洳(しょじょ沼地)の地漸く埋るに及びてここに移り、戸口漸く加はれりと、・・・・・此地は往古より郡の本郡にして、今も郡衙警察皆ここに在り、本郡の首都として百貨集散要枢たり・・・・(『石川縣羽咋郡誌』)。

  ―――羽咋神社や邑知潟周辺にのこる神話や伝説によれば、命が滝崎の怪鳥を射落したとき、命のつれていった3匹の犬が、その羽を喰い破るったことから「羽喰」と呼ばれるようになり、後に「羽咋」と変わったのだという。・・・・・(『郷土資料事典 石川県』)。

     明治初期の羽咋村落

  ―――羽咋村落(現在の羽咋市域を構成している部落)は、藩政時代には大部分は前田藩に、一部は土方領及び公()領に属して、各村は数ヶ村ずつ集まって組を組織し、郡奉行――十村役の下に統括された。明治維新後・・・・・前田領は金沢藩となり、公領及び土方領は飛騨県に編入され・・・・・(中略)・・・・・ 明治五年七月羽咋村落の町村区画 能登国第五区(羽咋郡) 一番組 ~ 四番組・・・・・(『石川縣羽咋郡誌』)。

 ○ 邑知潟
   能登半島のつけ根を北東に走る潟湖。別名、千路潟、菱湖。羽咋神社の社記によると、「往古この潟を大蛇潟(おろちがた)と呼び、磐衝別命が退治した大蛇が住んでいた」とあり、いつしか邑知潟と呼ばれるようになったという。湖面には眉丈山(びじょうざん)が影を映して美しい。
 ○ 鹿島路リンゴ
   眉丈山山麓一帯は、“鹿島路りんご”の特産地、収穫期は観光リンゴ園が開かれる。
 ○ 神社・寺院
   羽咋神社・八幡社・少彦名社・稲荷社・魚取神社・釜屋神社
   本念寺・ 正福寺・ 栄通寺・ 蓮舟寺・ 潮音寺など古社寺が多い。


     羽咋の近現代 
             (参考1917『羽咋市史 現代編』)

 1868慶応元年、能登国口二郡を支配する郡奉行所、金丸村より羽咋に移す。
 1870明治3年、平民の苗字が許される。
 1871明治4年、能登四郡と越中射水郡をもって七尾県を設置。
 1872明治5年、七尾県が廃止となり能登四郡石川県に属す。
 1873明治6年、羽咋区学校を設置。
   教員は神官・僧侶、学識者。生徒は全郡から150名、10歳~25歳を寄宿舎に収容。
   経費は区の負担、生徒は授業料・食費50銭を納めた。
 1874明治7年、羽咋郵便局開局。

 1877明治10年、西南戦争。
   8月、粟生、塵浜(千里浜)をはじめ各漁村で漁場の境界を策定する。
   9月、阿武松和助ら一行80人、相撲興行を願い出る。
 1878明治11年、羽咋郡役所設置。
 1882明治15年、栗原村に発生したコレラは柴垣、中川村に飛び郡内死亡者59名。

 1887明治20年、羽咋町と改称。町長を置く。
 1892明治25年、小学校令実施。羽咋尋常小学校設置。
   石川県は全国平均とくらべ、とくに明治20年代の就学率の高さが目立っている。
 1893明治26年、郡役所内に蚕稚検査所設置。
   能登清酒品評会を羽咋町に開く。
 1894明治27年、日清戦争。

 1900明治33年、七尾鉄道開通(七尾-金沢)。
   この地は金沢と七尾の中間にあり、商圏が広い。
   羽咋郡農会、組織。
 1901明治34年、羽咋組合小学校の運動会を羽咋海岸で行う。
   青年団:羽咋町壮年団同盟会を組織して、青年風儀の矯正、精神の修養を計る。主な事業(~大正期)。
   戦時記念羽咋図書館の設置・壮年講話会・青年夜学会・物産品評会・共同人夫請負。
 1904明治37年、日露戦争。
 1905明治38年、日露戦役記念のため、壮年団同盟会の主唱で図書館創設。
   経費1500余円の大部分は青年の勤労により、蔵書は3000余。
 1906明治39年、羽咋町ほか一ヶ村組合立実業補習学校を 羽咋尋常小学校内におく。

 1907明治40年、七尾鉄道、国有。
   小学校令・義務教育6年となる。
 1909明治42年、西東直吉、南極探検船「海南丸」船長となる。
 1912明治45年、五ヶ村学校組合立女子裁縫学校を羽咋高等小学校内に付設。
   修業年限2年、専任教師1名、生徒数50名。

 1914大正3年、ドイツに宣戦布告(世界大戦に参戦)。
    「工業」輸出羽二重が盛ん。清酒・醤油・醸造業、藺筵業、漆器業など。
    「商業」呉服商が盛ん。小売店のほか料理飲食店は20戸余。
 1916大正5年、立開六ヵ用水の水門新築。
 1918大正8年、輸出羽二重の最盛期を迎える。富山の米騒動が波及。
 1920大正9年、関西方面への出稼ぎ多く羽咋郡で366名を数える。
 1921大正10年、羽咋町壮年団運営の図書館を羽咋町で買い上げ。
 1923大正12年、羽咋-金沢間に直通電話新設。
 1925大正14年、能登鉄道、羽咋-高浜間開通。
   羽咋署で自転車鑑札を交付。
 
 1930昭和5年、東善作(羽咋小卒・日本人初の三大陸横断飛行に成功)の歓迎会。
 1934昭和9年、能登鉄道株式会社が羽咋-飯山間にバス営業開通。
 1940昭和15年、肥料不足により邑知潟の水藻が高値をよぶ。
 1943昭和18年、*大政翼賛会の羽咋支部を地方事務所内に設置。
   大政翼賛会:新体制運動の一環として一大強力新党実現を期し、全政党解散を経て設立。近衛文麿首相が総裁。会の性格をめぐって対立があり、結局、隣組などを最末端の下部組織とする官僚主導の国民統合組織となる(『近現代用語事典』)。
 1944昭和19年7月、全県下に初めて空襲警報が発令。
 1945昭和20年、アメリカ軍B29が飛来。
   8月、広島長崎に原爆投下される。
   9月、降伏文書に調印。
 1947昭和22年、天皇陛下を羽咋中学校奉迎場で迎える。

 1956昭和31年、羽咋町・邑知町・余喜村・鹿島路村が合併、羽咋町となる。
   ―――本町は郡の中部羽咋川の河口にありて、西は日本海に面し、南は塵浜村(千里浜)及び粟保村に、東は富永村に、北は越路野及一の宮両村に接す・・・・・(『羽咋市史 現代編』)。
 1958昭和33年7月、市政施行。羽咋市人口2万8400人。
 1964昭和39年、東京オリンピック大会開催。柴垣海水浴場が公営となる。 

 

   参考: 『石川縣羽咋郡誌』1917石川県羽咋郡役所 /  『羽咋市史 現代編』1972羽咋市史編纂員会 / 『郷土資料事典17 石川県』1989人文社 / 『郷土資料事典19 石川県』1982昌平社

|

« 明治初めの浅草にて写真館開業・北庭筑波、子は大正期の新派名優・伊井蓉峰 | トップページ | 大正期、悩みをもつ女性の理解者となり話相手となった三宅やす子 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 明治初めの浅草にて写真館開業・北庭筑波、子は大正期の新派名優・伊井蓉峰 | トップページ | 大正期、悩みをもつ女性の理解者となり話相手となった三宅やす子 »