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2024年6月24日 (月)

「家計簿記法」佐方鎮子・小林栄子、「家計簿」羽仁もと子

 NHK朝ドラ<寅に翼>視ている。
   その戦後のシーン、「アコーデオンを弾く傷痍軍人」が映り、昔を思い出した。
 実家の墓は谷中で親が健在な頃はお参り後、上野か浅草で食事をした。浅草へはタクシーだが、上野は不忍池か広小路あたりまで歩いた。
 谷中から東京芸大の前を過ぎ上野公園を抜けて公園を出るが、公園の入り口に階段がある。
 戦後しばらく、その階段の両側に白衣の傷痍軍人さんがずらーっと並び、中にアコーデオンを奏でる人がいた。白衣のせいかアコーデオンの音色が子ども心にも物悲しく、そおっと前を通ったのを覚えている。

 さて<虎に翼>、女性は「無能力者」というシーンにショック! 
 結婚した女性の財産は夫の物だなんて・・・・・女性の地位が低かった認識はあるも、その実態を考えなかった。
 近世はむろん昭和前期、家計は家政の一として戸主である男性が掌握していたのだ。女子は今よりず~っと困難が多かった。そしてそれは今も消え残っている。
 何はともあれ「家計」から「家計簿」を思いついて事典・辞典を繰っていると、意外な所(女権活動家の項)に『家計簿記法』著者名があった。

  ―――大和屋民子(生没年不詳)・女権活動家。本名・中川かる。
 1861文久元年ごろの生まれで、富山県上新川郡の人か。
   『国民新聞』(1891明治24年2月17日)によれば、兵庫県姫路市で、海老茶のフランネルの衣服に小倉の袴、白木綿の後はちまき、襷がけのスタイルで、右手に木刀を持ち、辻ごとに人力車の上で、「妾こそは女権拡張に熱心なる東洋の女浪人大和屋民子」だと呼ばわりながら、当地の智法寺で「腐敗男子の退治」、女子の覚醒、廃娼問題などの大慷慨演説会を開く・・・・・(中略)・・・・・日本初の女性弁士は、1880明治13年3月6日、新潟の新発田で十八歳の柴田ハマが行った演説が嚆矢だという。ただし女権運動に限定しなければ、1878明治11年4月10日、東京女子師範学校で学術演説会を行った*佐方鎮子・小林栄子となる。・・・・・
・・・・・1899明治三十二年には良妻賢母主義を強調する高等女学校令で「妻の役割」としての家計簿教育に・・・・・*後閑菊野・*佐方鎮子の教科書『家計簿記法』が発行され、その延長上に羽仁もと子の家計簿がある。・・・・・(『明治時代史大辞典』)

   佐方鎮子:(さかたしずこ)1857安政4年~1919昭和4年。鳥取藩士佐方氏の次女。東京女子師範附属小学校で教え、次いで東京女高師教授、神田高女校長を務める。家事教科書『家計簿記法』ほか後閑菊野と共著、発行。

   後閑菊野:(ごかんきくの)姫路藩士後閑弥平次の次女。1869慶応2年生まれ。東京女子師範学校卒、のち高等女学校教員検定試験委員など勤める。家事教科書『家計簿記法』『家事提要』『普通文典』ほか佐方鎮子と合著。

 1872明治5年、学制頒布。近代学校制度を定めた109(のち213章)の法令。その中で男女とも「記簿法」採用される。
 1874明治7年、文部省発行『家事倹約訓』などで家計の概念が紹介される。
 1881明治14年、小学校教則で女子のみに「家事経済」の一部に出納として入る。
  ?年、 ―――生活の具体的な場で女性の力を確保するために家計知識を習得すべきだとして高田義甫や穂積淸軒によりイザベラ=ビートンの家政書訳出・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

 1887明治20年、『実地応用家計簿記法』(藤尾録郎・経済雑誌社)出版。(国会図書館デジタルコレクションにある)
   婦女子は一家の装飾物から抜け出るために、「一家の経済を整理すべき」として読者が多かった『貴女之友』誌上に連載、家計簿記概念が普及した。

 1891明治24年、羽仁もと子、東京府立第一高等女学校に入学。
   在学中にキリスト教に関心をもち受洗。翌年、帰郷し退学、地元の小学校や盛岡女学校の教師をつとめ、再度上京し吉岡弥生の至誠病院で女中として働き、在学中から仕事をもった。この経験が、女性の自立の主張の支えとなった。・・・・・
・・・・・もと子は、近代化の重要な要素としての合理性、能率性を高くかかげ、家計簿をつけることにより、収支のバランスのとれた消費生活を営むことの必要を主張・・・・・(『民間学事典』)。

 1899明治32年、高等女学校令公布。
   良妻賢母主義を強調する高等女学校令で「妻の役割」としての家計簿記教育に変質する。
   この年、「後閑菊野・佐方鎮子の教科書『家計簿記法』が発行され、その延長上に*羽仁もと子の家計簿がある。

 1902明治35年、『家計簿記』高等女学校用。
   家計簿記要旨―――従来我が国一家の表簿といへば、唯、小遣帳あるのみにして、これに毎日の諸払を記入さるるに止まり、賄料、交際費、子女教育の為、月々何程を費やししか其等の内訳勘定だになく、従うて物価の高低によりて生ずる支払の差違をも認むること能はず、此の如き法に手は、決して一家の経済を整へたるものと云ふべからず・・・・・一家の要衝に当る妻女の務めは、子女の教育より、衣服の裁縫、食物の調理等に至るまで、万般の事柄多くして、実に繁雑なるものなれば、正式の簿記法はとても実際に取り扱ふこと難かるべし、本書に説き示す計算方法は、普通の家に於て応用せらるべき仕組となしたれば・・・・・(後略)。

 1903明治36年、『家庭之友』(『婦人之友』の前身)で、*羽仁もと子が提案したのが、「家計簿」のはじまりとされる

   羽仁もと子:1873明治6~1957昭和32。青森。大正・昭和期の女子教育者。
    小学校教師・日本最初の婦人記者(『報知新聞』)。自由主義の立場から、婦人が自主的に合理的な生活設計をすすめていく婦人運動の先駆となる。

 1921大正10年、羽仁もと子、各種学校として北豊島郡高田町雑司ヶ谷に夫の羽仁吉一とともに、自由学園を創立。

 1928昭和3年、 (羽仁もと子)大人も子どももみずからの手で自分の持ち物を管理し、身辺自立をするようになってはじめて、自分の「持ち物への無形の思いが及び、無駄なくこれを使用しなければならないという気になって」いくのだ。家計簿をつけるという行為は、たんに収支のバランスをとるという技術主義にとどまらない、生活そのものを変えていく「実験精神」を育て上げる。・・・・・(中略)・・・・・改良した『家計簿』を出版するとともに、雑誌誌上で、その利用を推奨し、一般家庭への家計簿の浸透に大きな役割を果たした。・・・・・(『民間学事典』)。

 

 

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