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2024年6月 3日 (月)

「天災は忘れた頃にやってくる」物理学者・随筆家、寺田寅彦

 食事の支度をする時、たいてい耳はテレビ、目は手元だが、先日<越中富山の薬売り>が放映され思わず見入った。 
 <越中富山の薬売り>は置き薬・配置薬をあらかじめ各家庭に届けておいて、次ぎに訪れたとき使った分だけ料金を受け取る。
 昔、東京下町のわが家にも薬売りの小父さんが来、紙風船をもらった覚えがある。
 それにしても、「越中富山の薬売」が今も続いてるとは知らなかった。便利になったようでも、近くに店舗もコンビニもない不自由な地域がある。
 富山の薬売りを営む夫婦の話によると、その店は親子三代80年以上続いており、能登半島地震の被災地、羽咋(はくい)市にも顧客がいるとのこと。
 夫婦は未回収の薬代の心配より被災した顧客を案じていた。どうか無事に再会できますように。

 近年、忘れる間もなく災害が起きているような気がしないでもない。が、やはり“天災は忘れた頃にやってくる” 寺田寅彦が発明したというこの諺、忘れないようにしないと。

   ―――「地震国防」(中央公論S6年1月) 伊豆地方が強震に襲われた。四日目に日帰りで三島町まで見学に出かけた。・・・・・いっこう強震のあったらしい様子がないので不審に思っていると突然に倒壊家屋の一群にぶつかってなるほどと合点がいった。町の地図を三十銭で買って赤青の鉛筆で倒れ屋と安全な家との分布をしりして歩いてみた。がんじょうそうな家がくちゃくちゃにつぶれている隣に元来のぼろ家が平気でいたりする。・・・・・
・・・・・つぶれ家はだいたい蛇のようにうねった線上にあたる区域に限られているように見えた。地震の割れ目か、昔の川床か、もっとよく調べてみなければ確かな事はわからない。・・・・・震央に近い町村の被害はなかなか三島の比ではないらしい。災害地の人びとを思うときあすは たが身の上ということに考え及ばないではいられない。・・・・・(『寺田寅彦随筆集二』)。

 寺田寅彦の随筆の数々は多くの人に親しまれている。わたしも読者の一人だが物理学の方は難しく敬遠、それもあってか寅彦の生涯を顧みなかった。判る範囲で見てみた。

   けやきのブログⅡ<2010.6.2 寺田寅彦、大塚楠緒子>

     寺田 寅彦

 1878明治11年11月28日、東京都麹町区平河町(千代田区平河町)で生まれる。
   父・利政(陸軍会計官)、母・亀の長男。
 1881明治14年、父が*熊本鎮台へ単身赴任。
   祖母らと郷里、高知大川筋の家に移る。
   熊本鎮台:軍団。のち師団。

 1883明治16年、土佐郡江ノ口小学校に入学。
 1885明治18年、父の転任により東京麹町区へ転居。番町小学校入学。
 1892明治25年、高知県立尋常中学校、2学年編入。
 1894明治27年8月、清国に宣戦布告(日清戦争)。
 1895明治28年、夏、上京。父は*予備役招集で麹町の旅館で暮らす。
   予備役:常備兵役の一つ。現役を終了し陸軍は4年4ヶ月。

 1896明治29年、熊本第五高等学校(理科)入学。夏目漱石に英語と俳句を学んだ。
   ――― 夏目先生の家は白河の河畔で、藤崎神社の近くの閑静な町であった。・・・・・雑談の末に、自分は「俳句とはどんなものですか」という世にも愚劣なる質問を持ち出した。・・・・・その時に先生の先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。「俳句はレトリックの煎じ詰めた者である」「扇の要のような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」・・・・・「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、初めからうまい人もある。」・・・・・(『寺田寅彦随筆集』)

 1897明治30年7月、阪井夏子と結婚。
 1899明治32年、東京帝国大学理科大学物理学科に入学。
   谷中に下宿。漱石の紹介で正岡子規を訪ねる。
 1900明治33年、本郷西方町に新居を構える。

 1901明治34年2月、妻・夏子が高知で病気療養。5月、長女生まれる。
   9月、自らも発病、肺尖カタルをわずらい高知県須崎で療養。1年間休学。
 1902明治35年8月、上京、復学。11月、妻、夏子死去。
 1903明治36年7月、大学卒業。9月、大学院進学(実験物理学専攻)。
   これより数年、音響学や液体・固体の振動の研究、本多光太郎講師とともに海水振動の観測など地球物理学の調査や実験を行う。

 1904明治37年、日露戦争
   9月、東大理科大学講師となる。
 1905明治38年8月、浜口寛子と結婚。12月、小石川原町に新居をもつ。
 1906明治39年、漱石の木曜会で、森田草平・鈴木三重吉・野上豊一郎らと知り合い、交友が始まる。

 1908明治41年10月、「尺八の音響学的研究」などの論文により理学博士となる。
 1909明治42年1月、東京帝国大学理科大学助教授。
   ドイツ留学。5月、ベルリン大学留学。一般物理学・気象学・地理学などを聴講。
 1910明治43年10月、ゲッチンゲン大学に移る。
 1911明治44年、アメリカ経由で帰国。物理学講座担任。
   11月、本郷弥生町に住む。

 1915大正4年2月、『地球物理学』刊行。
 1916大正5年1月、「科学の目指すところと芸術の目指す処」を発表。
   7月、東京帝国大学理科大学教授となる。
     のち<寺田の法則>と呼ばれる「偶然現象の見かけの周期」を発表。
   12月9日、夏目漱石死去。享年50。
     漱石の弟子というより互いに尊敬する友人として交友していた寅彦は漱石の死後、ふぬけのようになってしまい、その苦しみは数年も続いた。

 1917大正6年10月、妻・寛子死去。
 1918大正7年8月、酒井紳と結婚。本郷曙町に移る。
 1919大正8年12月、胃潰瘍により吐血。休職して休養。
 1920大正9年、療養中に随筆を書き始め吉村冬彦のペンネームを用いる。以後、晩年まで執筆活動を続ける。

 1921大正10年、大宮・浦和・尾久、玉川・成増などへ写生旅行。
   11月、病が癒え大学に復帰。
 1922大正11年、アインシュタイン博士来日。特別講義を聞き歓迎行事に出席。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。震火災の調査を行う。
   『冬彦集』(岩波書店)・『薮柑子集』(岩波書店)出版。
 1924大正13年、理化学研究所研究員。「地震雑感」 「流言蜚語」発表。
 1926大正15年、地震研究所所員となる(兼任)。
   理学部で「火災論」ほか特別講義を始める。

 1927昭和2年、地震研究所専任教授となる。
 1928昭和3年、「丹後地震に於ける地殻変動について」など発表。
 1931昭和6年、「青磁のモンタージュ」
   ―――「黒色のほがらかさ」というものの象徴が黒楽(くろらく)の陶器だとすると、「緑色の優秀」のシンボルはさしむき青磁であろう。前者の豪健闊達(かったつ)に対して後者にはどこか女性的なセンチメンタリズムのにおいがある。それでたぶん、年中胃が悪くて時々神経衰弱に見舞われる自分のような人間には楽焼きの明るさも恋しいがまた同時に青磁にも自然の同情があるのかもしれない。・・・・・(『寺田寅彦随筆集』)。

 1932昭和7年2月、「映画の世界像」
   ―――映画のスクリーンの平面の上に写し出される光と影の世界は現実のわれらの世界とは非常にかけはなれた特異なものであって両者の間の肖似はむしろきわめてわずかなものである。それにもかかわらずわれわれは習慣によって養われた驚くべき想像力のかつどうによって、この僅かな肖似の点を土台にして、かなりまで実在の世界に近い映画の世界を築き上げる。そうして、いつのまにか映画と実際との二つの世界の間を遠く隔てる本質的な差異を忘れてしまっているのである。あらゆる映画の驚異はここに根ざしこの虚につけ込むものである。・・・・・(『寺田寅彦随筆集』)。
   10月3日~5日、北海道帝国大学地学部で地球物理学の講義。

 1933昭和8年、『柿の種』『地球物理学』(坪井忠二共著)刊行。
 1934昭和9年、玉川、粕壁、八王子へドライブ。星野温泉、上高地。
 1935昭和10年12月31日、自宅にて死去。享年、57。
   ―――転移性骨髄腫のために亡くなったが、まだ57歳という若さであった。その間に彼が成した多くの仕事は、いっそうの輝きをもって現代を照射・・・・・さまざまな随筆は、彼の書き物とそれを通じての思いが今なお多くの人に強い印象を与え、しばしばその生き方にも影響している・・・・・(『寅彦と冬彦』)。

 

   参考: 『寺田寅彦の生涯』小林惟司1995東京図書 / 『寅彦と冬彦』池内了2006岩波書店 / 人物書誌大系36『寺田寅彦』大森一彦2005日外アソシエーツ / 『寺田寅彦随筆集二』『寺田寅彦随筆集三』小宮豊隆編1986岩波文庫 / 『民間学事典』1997三省堂

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