学歴のない学歴の書誌学者・日本文芸史に造詣の深い森銑三
2024年、戦時中の国もある落ち着かない世界で、パリ・オリンピック開幕!
テレビ観戦に忙しいが、こうしたスポーツの世界とは別な楽しみに「本」がある。
本の世界は広く、奥深い。その本ついてはもちろん、専門外の分野までも信じられないほど深い知識ある人物が、書誌学者・森銑三である。
森銑三の著述を読むたび一度でいいから直に話を聴きたかった。もっと早く興味をもっていれば、講演を聴けたかもしれないのに、惜しい。
同時代人で森より2年早く死去の羽仁五郎(明治34年~昭和58年)の講演を、有楽町の朝日新聞本社で聴いたことがある。
その日、羽仁五郎の講演で気分が高揚、さっそく三木清全集を注文した。しかし、恥ずかしながら第1巻がやっとで、全18巻積ん読のまま今に至っている。
森銑三をもっと早く知っていたなら、どこへでも聴講に行っただろうに惜しい。当時は、本そのもの、資料についても考えなかった。森銑三につても知らなかったから仕方ない。
森 銑三 (もり せんぞう)
1895明治28年、愛知県刈谷に生まれる。
?年、高等小学校を卒業。
1910明治43年~1911明治44年にかけて工手学校予科を終えた森の回想
―――(工手学校)明治21年創立という古い歴史を持つ私立校で、名も通っていたし、社会的信用をも有した。高等工業学校の卒業生よりは、一段程度の低い技手を二年半で養成する速成校で・・・・・ 教室は、全級150人を一度に教える真四角のだだっ広い一間で・・・・・(中略)・・・・・ 工手学校通学中に衝心に近い脚気に倒れて帰郷し、工手学校は中退・・・・・ 病が癒え、郷里で町立刈谷図書館の母体となった村上忠順旧蔵書の整理、目録編纂に従事した。この仕事が森の独自の史眼を育てた・・・・・(『工手学校』)。
工手学校
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1912明治45年7月6日、第五回オリンピック、三島弥彦・金栗四三初参加。
―――(<明治大正の文化>(陽増刊)ストックホルムの世界オリンピック大会に招かれて出席したが、全敗の歴史を止めたたに過ぎなかった。しかし、二人の帰朝後に、わが陸上競技に与えた教訓は、非常に尊かった。それが大正以後に大きな発展を遂げる基礎となった。・・・・・(『明治東京逸文史』)。
1915大正4年、刈谷図書館に入る。
旧刈谷藩医で国学者・村上忠順の旧蔵書25000余冊の整理に当たり、村上文庫を編纂。のちに近世学芸史家となる端緒となる。
?年、刈谷小学校の代用教員。雑誌『赤い鳥』に寄稿したのはこの頃かも。
?年、高崎小学校に代用教員。
教え子の童謡をまとめた雑誌『小さな星』を刊行。また、『おらんだ正月』『支那童話瑠璃の壺』『中納言の笛』など児童の読み物にも意を尽くした。
1925大正14年、上野図書館内・文部省図書館講習所に入る。
1926大正15年、東京帝国大学史料編纂掛図書部に勤務。
このころ大田南畝や平秩(へずつ)東作をはじめ近世学芸史上の人物研究に本格的に着手。書誌学者として高い評価を受ける。しかし、独自の見解を発表するもアカデミズムに無視された。
1934昭和9年、渡辺刀水とともに史伝研究者の会合機関、三古会をつくる。また伝記学会をおこし機関誌『伝記』を発刊。
自ら書いた諸篇を集め『近世文芸史研究』出版。新発見資料によってあきらかとなった国学者・下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の研究、それま誰も問題にしなかった鳥取の儒者・佐善雪渓を発掘した論考などを収録している。
―――自身が好ましく感じ、また懐かしく、慕わしいという人物にかぎられ、うぶな良質の資料を博捜して、真の人物像を資料そのものよりして浮き上がらせるという方法を採っている。資料を丁寧に整理し、叙述されていく文の読後感は、無味乾燥な思いは微塵もなく、たぐいまれな魅力ある文体によって、人物がいきいきと表出されてくるのであった。・・・・・(小出昌洋『民間学事典』)。
1939昭和14年、尾張徳川家蓬左文庫主任。
この間、伝記学会機関誌『伝記』に関係。
「三古会」・「掃苔会」中心会員として活躍
1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾回答。
―――最近私は鷲尾順教博士の『仏家人名辞書』の改訂版の原稿が全部烏有に帰したことを聞いて、・・・・・暗澹とせずにはいられなかった。何十年という長い歳月を費やして集められた原稿が、一朝にして失せたのである。今度の戦争のために、いかに多くのすぐれた労作が、書物の形を成す前に亡ぼされてしまったことだろうか。致し方がないとはいえ、おしいことはどこまでも惜しい。・・・・・(『書物』)。
空襲によってそれまで収集した資料のいっさいを焼失、人物研究は打ち切られる。
戦後は、西鶴研究者の著述を批評したりした。とくに、明治の人物および風俗にも興味をもち、明治天皇の逸事、硬軟両派の人物の逸話を紹介。
1950昭和25年~1965昭和40年、早稲田大学で講師を兼ね書誌学を講じる。
1955昭和30年、『西鶴と西鶴本』
―――(西鶴についての最初の著書の末尾にいう) 「内容に詩があるか、詩がないか、問題はかヽってその一事にある」・・・・・過去の書物をただ研究資料としてのみしか見よとしない学者ばかりの世の中に対して、まず鑑賞せよといい、味読し、しかるのちに研究せよといった。すべての学問の態度はここにあった。西鶴論考は、単行本六冊、小冊子五冊、雑誌掲載文は五百を越すであろうし・・・・・一つの研究でこれだけの論考を著した人はかつていない。・・・・・森の説に対して、学界は黙殺し、あついは軽くあしらう・・・・・その節に酬いることはなかった。森はこれを学界の偏狭に由来するものとも感じていた。・・・・・(小出昌洋)。
「所謂(いわゆる)西鶴浮世草紙の半数は他作なり」という、学界を震撼させる論考を発表。その没する日まで、「西鶴はただ『好色一代男』あるのみという説を唱え続けてやまなかった」。
1970昭和45年~1972昭和47年、近世学芸史研究の成果を纏めた『森銑三著作集』全12巻・別巻(中央公論)で読売文学者受賞。
―――物を書きかけると、また、新しく見たい本が出来る。それで私は、帝国図書館(1972国立図書館と改称)勿論のこと、その他の図書館へも、玉川の静嘉堂文庫、西大久保の無窮会神習文庫、その外、早稲田大学図書館、慶応義塾図書館と、利用する図書館も殖えた。しかし、それと同時に、行く先々で新しい資料に接しもするので、新しく書きたい題目が幾らでも出来るし、書きかけの原稿が難関にぶつかって、先へ進ませなくなった。すつと、それは置いて外の物に取りかかったり、われながらせはしない日々を送ったことだった。・・・・・(『思ひ出すことども』)。
1985昭和60年3月、死去。享年89。
著作は、編著書あわせて百余冊に及び、内容と多彩さに驚くばかり。とても一人の仕事とは思えない。あらためて凄い人がいたと感心するばかり。さいわい岩波文庫・東洋文庫などに収められた著述も多く、おりおり愉しみたい。以下は著作の一部。
『近世文芸史研究』弘文荘・ 『駿台雑話』岩波文庫・ 『国学者研究』伝記学会編 ・ 『塙保己一』三国書房・ 『近世日本の科学者達-おらんだ正月』青雲書院・ 『典籍叢話』全国書房・ 『近世人物叢談』大道書房・ 『書物と人物』熊谷書房・ 『宮本武蔵言行録』三省堂・ 『渡辺崋山』創元選書・ 『星取棹:我が国の笑話』積善館・ 『学芸史上の人々』二見書房・ 『書物と江戸文化』大東出版社などなど。
参考: 『工手学校 旧幕臣たちの技術者教育』茅原健2002中公新書ラクレ / 『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 『明治東京逸文史』1969東洋文庫 / 『思ひだ出すことども』森銑三1983 / 『書物』森銑三・柴田宵曲1997岩波文庫
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