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2024年7月15日 (月)

明治・大正・昭和の女子教育家、安井てつ

 1870明治3年2月23日、旧古賀藩士・安井津守の長女。東京駒込に生まれる。
   哲・哲子とも書く。
  ?年、東京女子師範学校予科・東京女子師範学校女子部入学。
 1890明治23年、東京女子高等師範学校(のちお茶の水女子大学)卒業。
   卒業と同時に助教諭となる。

 1895明治28年頃、樋口一葉に和歌や『源氏物語』を学び、相互に敬愛の念を抱く。

  ―――丸山福山町の一葉の借家にはさまざまの人びとが集まった。西村釧之助(相場師)、平田禿木・戸川秋骨・馬場孤蝶・星野天知(文学界同人)、関如来・横山源之助(新聞記者)、川上眉山・斎藤綠雨・幸田露伴(作家)などや、野々宮菊子・安井哲子(教師)・大橋時子(博文館大橋乙羽夫人)、その他、和歌や国文・習字などを習いにくる学生たちで賑わった。・・・・・
 ・・・・・ 一葉の門をたたき、後年留学後東京女子大学を創立することになる安井哲子も「若い美しい姉妹が、なぜこんな場所を選んですんでゐるのか」「なんとなくその住宅の付近の空気が不愉快でした」(「婦人公論)昭16・11)と回顧するような雰囲気があったらしい・・・・・(『樋口一葉をよむ』)。

 けやきのブログⅡ<2020.12.19明治の女子さっそう、岸田俊子・清水豊子・樋口一葉>

 1897明治30年、文部省留学生として英国ロンドンに留学。
  ――― 教育学・家政学研究を命ぜられて留学。その間にキリスト教ふれこれについて学ぶ。てつは旧士族の出身で一貫して官立学校に学び、みずから愛国者を自認しキリスト教に疑義を抱いていたが、教育には宗教が必要なこと、正義と愛のキリスト教の生活は愛国の精神と矛盾しないことを信じ・・・・・ 帰国後受洗・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

 1900明治33年、帰国。*海老名弾正より受洗。キリスト教入信。
   女子高等師範学校に奉職。教授と舎監を兼任。

   海老名弾正:1856~1937。キリスト教伝道者、教育者。熊本洋学校・同志社に学ぶ。日本各地に伝道に赴き、熊本・神戸・本郷教会の牧師。同志社総長を歴任。

 1904明治37年、シャム国の招聘で同国に赴任、上流子女の教育にあたる。
  ――― <暹羅(シャム)の皇后女学校に日本から教師>暹国皇后陛下の思召に由り、盤谷(バンコク)に設立せられたる女学校は、本邦より招聘せる女教師安井氏の一行去る2月14日同地に到着せるを以て、・・・・・皇后女学校・・・・・ 生徒の現員十八名皆貴顕の子女にして・・・・・(1904.5.11東京朝日)。

 1907明治40年、任務を終え帰国。再び渡英。
   ウエールズ大学で倫理学・英文学を学ぶ。
 1908明治41年、帰国。
   学習院・女子高等師範学校・女子英学塾で教鞭をとる。

 1909明治42年、『新女界』主筆。
  ―――*吉野作造・*鈴木文治をはじめ幅広く言論人を登場させ、家庭問題・女子高等教育問題など大正デモクラシー期の婦人問題を論じる一つの場を提供。・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

   吉野作造:宮城県。東大教授。民本主義を提唱し、大正デモクラシーの理論的基礎を提供。明治文化研究会設立。
   鈴木文治:大正・昭和期の労働運動家。

  けやきのブログⅡ<2015.5.16生計の困難にして不安、更にこれに劣らぬ苦痛は侮辱、 鈴木文治(宮城県)>

 1915大正4年、安井哲『久堅町にて』(警世社書店)より。
  ―――「青年時代の追懐」 明治の人間といへば先頃までは未だ年若き感じがしましたが、それも何時しか四十五年を過ぎ、思ひもかけぬ改元さえあつて今では自分も四十を数へる年齢となりました。・・・・・ まだ元気に充ちて居つた青年の時期・・・・・ ただ将来を夢み無限の空想に憧れて日々を送つて居ました中に、教育といふ仕事の如何にも貴くまた如何にも興味ありげに感ぜられて・・・・・ 智徳を研きこの身を教育に教育事業に捧げてみたいと若い心を動かしました。・・・・・ (中略) ・・・・・その後思ひもかけぬ留学の命に接し ・・・・・ 乗った船は英国船で・・・・・ ロンドンに着き・・・・・
・・・・・ 二三ヶ月でケンブリッジに・・・・・新教徒もあり旧教徒もありましたが、各その属する教会に日曜日の朝を過ごしました。・・・・・私は教育史を読むにつけ学者の講義を聞くにつけ、さすがの基督教嫌ひも此宗教が教育に及ぼした影響の実に大なる事を公平に感ぜずには居られませんでした。・・・・・(後略)。

 1916大正5年8月1日、文部省幼稚園保姆講習会を開催。
   講師:安井てつ・竹島茂郎・倉橋惣三(~8・10) 1924(大正13)年まで毎年開催。

 1918大正7年3月22日、プロテスタント教派・東京女子大学設立 学監。
   学長、新渡戸稲造。 入学76名。
   
  ――― 安井女史は女高師の教授から暹羅(シャム)の宮廷女学校へ、それから学習院如学部から青山女学院へ、それからまた女高師の幼稚部へと・・・・・ 女子に大学教育を施すとして、最も大なる困難は卒業生の就職難と結婚の二つでありませう。女子の高等職業といへば、唯女教師あるのみ(女文士や女画家は茲に数へず)其他の婦人職業が品位に於て劣らざれば
・・・・・ 私立の女子大学は官立の女高師が極めて容易に其の卒業生を就職せしめえらるヽに比べて、到底及びもつかぬ所があります。また結婚に於いては、各高等女学校の卒業生と競争せねばならぬ不利益があります。年長なるは年少なるに若かずといふ如き 結婚に対する一般の風潮が取去られぬ以上、此の困難は中々根深いものがであります・・・・・(1918.12.24読売
 
 1922大正11年12月。新聞より〔芸者屋反対で益々 躍起の女流教育家〕
  ――― 安井さん等が警視総監訪問 中流婦人百名も加盟」新宿十二社に芸者屋を建てると云ふので、淀橋角筈界隈の各女流教育家や中流家庭の婦人達が、反対している・・・・・反対派の世話役なる東京女子大学学監安井哲子さん、精華高等女学校学監勝田馨子夫人などは赤池警視総監を警視庁に訪ふて種々陳情・・・・・(12.16読売新聞)。
  
 1923大正12年、東京女子大学学長。日本で初めての女性学長として評判になる。
  ―――かねてからの主張であるキリスト教主義に基づく女子の高等教育・人格主義教育・リベラルアーツの実現に献身した。とりわけ昭和時代初期の学生の思想運動や、戦時下のミッションスクールに対する弾圧などの困難な時代のなかでその姿勢をくずさなかった。・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

 1940昭和15年、退職。名誉学長。
 1943昭和18年、東洋英和女学校校長事務取扱。
 1945昭和20年12月2日、死去。享年76。

  
   参考: 『日本教育史年表』1994三省堂 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『樋口一葉をよむ』関礼子1992岩波ブックレット / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『新聞集成明治編年史』1971財政経済学界 / 1978大正出版 / 『新聞集録大正史』1978大正出版 / 『久堅町にて』安井哲1915警醒社書店 / 国会図書館デジタルコレクション

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