明治日本で『八十日間世界一周』翻訳出版、銀行家・川島忠之助
2024年7月、体温越えの猛暑の日々。そして20年ぶりに新紙幣発行。
一万円札の顔が福沢諭吉にかわり渋沢栄一になった。
1876明治9年、渋沢栄一一行は*蚕卵紙の売り込みにイタリア・ミラノに趨く。当時、は蚕卵紙はだぶつき気味で売り込みは失敗。通訳はのちの銀行家・川島忠之助である。
蚕卵紙: 蚕の蛾に卵を産み付けさせた種紙。養蚕業の発達にともない特産地が生まれ、幕末開港後、ヨーロッパ蚕種の病害のため、列強は日本蚕卵紙の購入を熱望し、幕府派これを許可。明治初期に至るまで重要輸出品となった。
英仏語ができる川島忠之助は帰国後、日本で初めて『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ)を翻訳、自費出版する。江戸から明治へ間もない時にどこで語学を、誰に学んだ? 原作をどこで手に入れた?
ともあれ、川島忠之助訳「(新説)八十日間世界一周」を読んでみようと、『翻訳小説集(二)・新日本古典文学大系明治編』を借りた。ところが、漢文体の翻訳文は読みにくい。
でも折角なので、親切な脚注を頼りに読むとして、まずは川島忠之助の経歴をみてみる。
川島 忠之助
1853嘉永6年5月3日、江戸本所外出町で生まれる。
父は幕府の軽官で川島六知脩(奥六)。父の任地、飛騨高山に移り住む。
1858安政5年、父が病没、江戸に戻る。
漢学を学ぶかたわら、兵式調練にも加わる。
1867慶応3年、従兄・中島才吉の斡旋で横須賀製鉄所の製図見習い工となり、仕事上の必要からフランス語・英語を学んだ。
当時すでに、フランス原書『八十日間世界一周』を読んでいたらしい。
1868明治元年、*横須賀製鉄所を新政府が接収、規模を拡大し横須賀造船所と改称。
造船所伝習生となる。しかし、新政府の方針が固まらず混乱していたので退職。
1869明治2年、横浜に出てフランス公使館付医師アレクサンドルの学僕となる。
『日仏辞書』を見て、これほど便利な辞書があるのかと驚く。
横須賀製鉄所/横須賀造船所: 慶応元年フランス人ヴエルニーが建設し幕営の製鉄として設立。維新後、新政府に接収され、明治4年規模を拡大し横須賀造船所と改称。翌年、海軍省所管。明治19年、横須賀海軍造船所と改称。
1870明治3年、*横須賀造船所、フランス語伝習生となる。
造船学や機械学を修め、フランス語の力をつける。
1872明治5年、海軍省に出仕。しかし、造船の仕事になじめず、従兄・中島才吉の縁で官営工場・富岡製糸場の通訳となる。
富岡製糸場では中島中之助の名で通訳のほか書類の翻訳に携わる。
渋沢栄一、古河市兵衛、原善三郎ら実業家の知遇を得る。
富岡製糸場の首長ポール・ブリューナの紹介で和蘭八番館の番頭になり、諸官庁との連絡や館主などの通訳を行う。
1876明治9年、忠之助は*蚕卵紙売り込みに行く渋沢栄一一行の通訳に選ばれ、ミラノに赴く。
12月25日、横浜出航。サンフランシスコに上陸しニューヨークに渡り、フィラデルフィアで開かれていた独立百年記念を見物して、ヨーロッパに渡りパリ・リヨン経由でミラノ着。
1877明治10年、日本は蚕卵紙の売り込みに必死だったが、蚕卵紙はだぶつき気味で売り込み失敗。忠之助はその間、スイス・パリ・ロンドンを訪れ見聞を広める。
6月、ナポリ発、セイロンに寄港し7月、横浜帰着。
再び和蘭八番商館の番頭となり、『八十日間世界一周』の翻訳にとりかかる。
1878明治11年6月、『(新説)八十日間世界一周』を自費出版。
ヴェルヌ翻訳の先駆けで、科学ロマンスの面白味を伝える。
―――アメリカで『八十日間世界一周』の英訳を買って読んだら、原作にない部分が増補されているので、いっそうおもしろく訳した・・・・・主人公は英人フォッグ。 あるクラブで八十日間で世界が一周できるかという賭をし、いろいろな冒険の後、やってのける。しかもこの冒険旅行がきっかけで愛人を得るというロマンスになっている。非常な売れ行きで、訳者は二六〇~二七〇円の収入を得た。・・・・・(『現代日本文学大事典』)。
<新説 八十日間世界一周> 仏人 ジヱル、ヴエルヌ氏 原著>
第壱回
千八百七十二年中ニ龍動(ろんどん)ボルリントン公園 傍(かたはら)サヴヒルロー街第七番ニ於テ千八百十四年中シヱリダンガ物故セシ家ニ 同府改進舎ノ社員ニテ 自身ハ勉メテ行状ノ人ノ目ニ立タヌ様注意シアリモ何時トナク奇僻家ノ名聞轟キケルフアイリース、フヲッグ氏ト称スル一紳士ゾ住ヒケル・・・・・
・・・・・ ・・・・・
第三十七回
フヲッグハ予テ時論ノ如ク八十日間ヲ以テ地球ヲ周(めぐ)リ終ニ勝利ヲ占ムルニ至リシハ 是レ全ク郵船、鉄道、馬車、娯楽舟(ゆさんぶね)、商舶、風走橇(ほかけそり)、及ビ象等スベテ旅行ノ便具ヲ使用セシニ因ルト雖 同氏ガ事ニ臨テ沈着厳整ナル天稟ヲ以テ此奇ナル成績ヲ成シタルニ在リト云フベシ・・・・・後編大尾(おわり)・・・・・
1880明治13年6月、『八十日間世界一周』後編を慶應義塾出版から発行。
1882明治15年6月、*横浜正金銀行がリヨンに出張員を出すことになった。
横浜正金銀行:外国貿易金融を扱うことを目的とした特殊銀行(のち東京銀行)。
川島はそれまで勉めていた和蘭八番館をやめて銀行員としてリヨンに赴任。仕事が暇なのでリヨン大学法学部の聴講生となって2年ほど勉強に励む。
ポール・ヴエルニー『虚無党退治奇談』を慶應義塾から出版。一種の探偵小説紹介の先駆けとなる。
1888明治21年4月、帰国。結婚。
11月、リヨンに帰任。
1895明治28年5月、帰国の途中、肺を病んでいた夫人が上海で死去。
6月、横浜本店の副支配人になる。
1898明治31年、ボンベイ(ムンバイ)支店長。
1899明治32年、東京支店長。
1906明治39年7月、本店取締役。
1907明治40年、代表取締役。
1912明治45年春、退職。実務満30年という。
1921大正10年、退職するまで銀行家として活躍。
晩年は富豪・堀越家の財産顧問となる。
1938昭和13年7月14日、死去。享年85。
東京、青山霊園に葬られる。
―――実業家ではあったが、東西古今の古典や英雄伝、詩歌を愛読していて、童顔、じゅんじゅんとして書生のように語ったといわれる。・・・・・(『現代日本文学大事典』)。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『日本史辞典』1981角川書店 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『海を越えた日本人名辞典』2005日外アソシエーツ / 『新日本古典文学大系明治編』2002岩波書店
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