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2024年7月22日 (月)

師岡千代子、父は尊皇攘夷の国学者・師岡正胤、夫は明治の社会主義者・幸徳取水

  世の中便利になったが、アナログ人間にはうれしくない。しかし、良くも悪くもスピードは増すばかり。いいニュースは速いと良いが、戦争のニュースはなんとも辛い。さて、これが幕末の事件だったらどうか。
 例えば、幕末の「足利氏木像梟首事件」。
 それが木像だとしても、首を京の三条河原に梟し倒幕の意図を示した事件はアッという間に広まったろう。複数の犯人がいるが、その家族について考えたこともなかった。
 たまたま実行犯、漢学者の娘が幸徳秋水の元妻と知り、その師岡千代子興味をもった。
 父は尊皇攘夷運動で過激な行動をした国学者・神道家の諸岡正胤、元夫は明治の社会主義者、その娘その妻の諸岡千代子はどう生きたろう。

     師岡 正胤(節斎)     (もろおか まさたね)    

 1829文政12年11月、医者である師岡理輔の子として江戸に生まれる。
   のち、京都で国学を学び、また江戸に赴き、平田篤胤の没後門人となる。
 1863文久3年2月、足利氏木像梟首事件
   正胤、小室信夫や会津藩士・大庭恭平ら尊皇攘夷同志と連携して京都等持院に侵入。
   安置されている足利三代の木像の首を晒し、京都守護守護職に捕縛され入獄。7年間、信州・上田藩に幽閉される。明治維新により師岡正胤は大赦。
   徴士を命じられ刑法官として出仕、新政府内の要職を歴任。
   監察司知事・弾正台大巡察・宣教権博士、また宮内省御用掛として神道・神社作興につくす。

 1871明治4年9月23日、幸徳伝次郎、高知県幡多郡中村町に生まれる。
   中江兆民に師事、「秋水」の号を与えられる。
   秋水の親戚で幼友達の安岡秀雄(のち時事新報)の父・安岡良亮は、明治初年の*神風連の乱で殺害された熊本県令。千代子の父・師岡正胤の友人でもある。

   神風連の乱:維新政府の開明政策に反対、熊本に起こった保守的士族の反乱。

 

     諸岡 千代子     (もろおか ちよこ)

 1875明治8年4月26日、千代子、師岡節斎の次女として東京で生まれる。
   千代子は国文のほか英語・仏語も堪能で日本画もよくする才媛であった。
   ―――「千代子姉は父の国学の薫陶を受けて、和歌をよくし国文に通ずるは固より英語・仏語などもよくし、日本画は画家として一家をなし、且つあらゆる女芸に通じて、稀に見る才媛であった」・・・・・(『幸徳秋水』)。

   また、千代子は娘時代、いろいろな本を読んでいたらしく、*斎藤綠雨の愛読者だったとも。千代子は秋水と結婚後、秋水の友人たちと会うが斎藤綠雨にもしばしば会うようになる。
 その綠雨が秋水に宛てた手紙に「妻は茶漬けなり、永久ならんことを要す」とあり、その意味が解らなかつた・・・・・ 昔気質の国学者の家に育つた私は、何だか自分が島流しにでもあつたような心細さを覚えると記している。

   斎藤綠雨:明治の小説家・評論家。小説でも知られたが、辛辣な批評家として知られた。

 1899明治32年1月23日、千代子父・諸岡正胤、死去。享年71。
   松尾大社大宮司兼少教生、宮内省御用掛として、晩年に至るまで神道・神社作興に尽くした。

   7月、千代子、幸徳秋水と結婚、麻布佐久間町に住む。中江兆民の門人・井上音信の仲介による。
   ―――幸徳家の先祖である幸徳某なる人は何でも代々の陰陽師であったと・・・・・ 国学者の娘として古臭い教育を受けた私は、・・・・・ 陰陽師は古い絵巻物や王朝時代の物語に、影のやうに登場する怪しい人物であるとばかり思つてゐた。まさかその子孫に依つて、自分の生涯が決定されやうとは夢にも考えなかつた。
・・・・・ 秋水は誰からも云はれるやうに小柄な人間であった。・・・・・ その眼は吊り上がつて居るばかりでなく、底力のある烱々たる光を帯びてゐた。・・・・・物凄く思はれるその眼には、人を魅するやうな不思議な優しさが潜んでゐた。・・・・・
・・・・・ 私の嫁いだ頃には、幸徳家は薬種商のほかに酒造業を兼ねて居たが、・・・・・ しかし秋水はその全生涯を通じて家業とは直接関係のなかつた人間である・・・・・ 
・・・・・ 秋水の母である多治子の家は古くから土着する郷士で、人々から多少尊敬されてゐる家柄で・・・・・父なる人は学者にして名医の名を恣にした人であつたが、怖ろしく封建的な女性観をもつて居た・・・・・(『夫・幸徳秋水の思ひ出』)。

  秋水も封建的なところがあり、最初に結婚した妻を気に入らずすぐ離縁している。千代子については家柄、才媛としても気に入っていたらしい。

 1901明治34年12月、秋水、田中正造から頼まれて足尾鉱毒事件についての直訴状を起草。

 1903明治36年、秋水ら日露開戦に反対して『万朝報』退社。
   内村鑑三・堺利彦らと「平民社」を結成。「平民新聞」発行。有楽町の社屋に一家で住み、千代子、臨時会計係となる。
 1904明治37年、千代子、堀保子とともに足尾鉱毒被害地の惨状をみる。
 1905明治38年、「平民社」弾圧と社内不統一で解散。翌年再興。40年解体。
  
 1906明治39年7月、千代子、秋水に伴われ初めて秋水の故郷、中村町に赴く。
  ―――秋水の恩師・木戸に会い「今度は好いことでお目に掛かりましょう」と・・・・・恐らく秋水の思想に関係ある言葉であつたらう。・・・・・ 自分の教へた昔の秀才を心から惜しむ先生と、時代から進みすぎたが故に惜しまれる秋水と、いづれも理由ある二人の心情を推量して、腹の底から黒い凝塊の込み上がつて来るのを覚えた。・・・・・(『夫・幸徳秋水の思ひ出』)。

 1907明治40年10月、一家で帰省。妻千代子はそのまま中村にのこる。

 1909明治42年1月18日、千代子、中村から上京。
   3月1日、千代子と秋水、協議離婚。
   3月18日、平民社、千駄ヶ谷に移転。管野スガら同居。7月、平民社、家宅捜索を受け、管野拘引される。
 1910明治43年1月、宮下太吉、平民社を訪問し、幸徳らと空き缶の投擲を試みる。
   5月、大逆事件の検挙はじまる。6月、湯河原で秋水検挙。明治天皇暗殺計画の容疑で逮捕された社会主義・アナーキストら大逆罪で起訴。
   12月28日、秋水の母死去。享年72。

  ―――他家から嫁いだ私への慈しみは、今猶思ひ出しては限りもなく感謝している居るが、・・・・・後にのべるやうな事情の為めに、止むなく私が師岡姓に復帰してからも耐えず母からは慰めの手紙を受け取つてゐた。・・・・・ かつて共に楽しく暮らした三人の者が、即ち母土佐に、秋水は東京に、私は大阪に離ればなれに・・・・・ この母に対する秋水の並ならぬ孝養は、妻であつた私さへ美しく感じた・・・・・(『夫・幸徳秋水の思ひ出』)。

 1911明治44年1月24日、宮下太吉らの自白以外に証拠がないまま、大審院判決で幸徳秋水ら12名処刑される。

  ―――反逆者として世の人々の雷同的な呪詛の中に悲壮な最期を遂げた秋水・・・・・ *三申小泉策太郎が幸徳秋水と刎頸の交りがあつたことは世間周知のことであるが、秋水死後、私までが直接間接並々ならぬ世話になり続けて来た。・・・・・秋水の死後、この世の生活に悩まされ続けた寄る辺ない私は、図々しくも小泉氏の袖に縋つた。しかし、その都度、救済の手を差し延べられたばかりではなく、思ひ掛けないない時に多額の金子を恵与されることさへ屡々あつた。・・・・・五十年来の鴻恩を心から感謝・・・・・(『夫・幸徳秋水の思ひ出』)。

   小泉策太郎(三申):1872~1937。明治・大正・昭和期のジャーナリスト・政治家。

 1960昭和35年、諸岡千代子死去。享年85。
   墓は高知県中村、幸徳家の墓域にある。
   幸徳秋水の資料からは妻に対する想いが見られなかったが、千代子の「幸徳秋水の思ひ出」を読み、二人に通じるものがあったと察せられホッとした。

 

   参考: 『夫・幸徳秋水の思ひ出』師岡千代子1946東洋堂 / 人物評伝三部作『幸徳秋水』田中惣五郎1971三一書房 / 人物書誌大系『幸徳秋水』大野みち代1982日外アソシエーツ / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 国会図書館デジタルコレクション

 

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