幕末動乱を越え明治を生き大正に歿した漢学者、岡鹿門(千仞)
若いころ『ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書』を読んで涙した。それから20年余り「柴五郎とその時代」という卒論を書いた。
そしてなお、柴五郎に別れがたくその兄達を追いかけ『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』を出版した。
その節、五郎の四兄・東海散士が幕末に英語を学んだ英漢学塾主宰者・山東一郎(のち山東直砥)に興味を抱いた。そして『明治の一郎・山東直砥』を出版。
「明治の一郎」を書くきっかけは、親の反対を押し切ってまで高野の僧になった。にも拘わらず、熱心なクリスチャンになるからである。
調べると、山東はロシアの宣教師ニコライ、ヘボン式ローマ字でお馴染みヘボンとも交際があった。かと思うと、大政奉還を徳川慶喜に勧めたなどでも知られる後藤象二郎を手伝い、長崎の高島炭鉱に出張したりしている。
有為転変は世の習い。まして幕末明治は波乱動乱の世、志の趨くままに東奔西走する元気な「明治の一郎」に沼落ち、資料を探すとあった。
山東は無名ながら教科書に載る歴史人の坂本龍馬をはじめ福澤諭吉、大隈重信、岡本監輔、後藤象二郎、渋沢栄一、陸奥宗光などと交りその方面から足跡を辿ることができた。
人なつこい山東は有名無名関係なく、出会えば師と仰ぎ親しい友となった。
ところが、なかには気質が異なるせいか、折り入って話す事もなく遠ざかることもあった。仙台藩出身の漢学者・岡鹿門(千仞)がそうである。
二人は幕末の大阪、堂島の学塾「双松岡」で出会い一つ屋根の下で暮らしたが、鹿門にとり山東はただの学僕でしかなかった。筆者はそれで鹿門に興味を失ったが、ふと、鹿門の生涯を知れば「それも無理もない」と言えるかもと思いなおし、その生涯を見てみた。
岡 鹿門(ろくもん)/ 千仞 (せんじん)
1832天保3年11月2日、陸奥国、仙台藩大番士・岡蔵治の五男に生まれる。
名・千仞。通称・啓輔。号・鹿門。
藩校・養賢堂で、大月盤渓、石沢二水に学ぶ。
江戸に出て、*昌平黌(しょうへいこう)に入門。安積艮斎、古賀茶渓に学ぶ。
昌平黌:昌平坂学問所。旗本の子弟の教育としたが、別に諸生寮を設けて陪臣・浪人の入学を許したので、幕末には諸藩の優秀な学生を集め活気を呈した。
1853嘉永6年6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー軍艦4隻を率い浦賀に来航。
7月、ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチン軍艦4隻を率い長崎来航。
9月、鹿門、房総海岸視察のため学友と江戸を発し、品川・鎌倉・浦賀・鋸山を視察。銚子で勤務中の父を訪ねて江戸の昌平黌寮に帰る。
天下騒然たる中、鹿門は眼を病む。同郷の蘭医・大槻俊斎が伊東玄朴と協議、治療にあたった。眼病は過度の勉強、それに加えて食費節約による栄養失調などが原因。
1854安政元年、ペリー、浦賀に再来、神奈川条約調印。
9月、鹿門、昌平黌詩文掛となる。
1858安政5年、昌平黌舎長、助勤に挙げられ、安積艮斎(あさかごんさい)の助言により仙台藩から学資を受ける。
この年、安政の大獄。翌年、橋本左内26歳、吉田松陰30歳刑死。
1860万延元年、西遊のため江戸を発し、名古屋・大阪・京都・山陰を巡り播州林田(姫路)では河野鉄兜を訪ねる。帰路、松本奎堂や松林飯山に会い、三人で大阪に下る。
1861文久元年11月、大阪堂島に「双松岡」塾を開く。
その時の塾僕の智賢がのちの山東一郎・直砥である。
塾に本間精一郎、清河八郎ら志士が出入りし盛んに尊攘論を説くなどしていた。
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1862文久2年4月、寺田屋の変。
「双松岡」閉鎖。智賢こと山東一郎は松本奎堂に従い淡路島を遊歴。
鹿門は藩命で帰国、京大阪の情勢を報告。養賢堂、教授となる。
1864元治元年、私塾「鹿門精舎」建設。入門する者多く、塾舎増築資金のため各地を、*売文遊歴す。
売文:文章を作ったり、添削したりしてその報酬を得ること。
遊歴:諸国を巡ること。遍歴。
1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争。
名を千仞と改めるが、ここでは鹿門のままとする。
3月、奥羽鎮撫使九条総督以下、寒風沢に来航し会津攻撃を督促。勤王論者の鹿門も奥羽列藩同盟に反対して投獄される。
――― 岡千仞は身分の低い小身の家に生まれ、昌平黌の舎長にまで進んだが、元来が養賢堂の学風にあきたらなかったのが災いし、あまり仙台藩に用いられず、藩の保守主義に反対する故を持って投獄される始末・・・・・(『鹿門・岡千仞の生涯』)。
9月、仙台藩、新政府軍に降伏。10月、鹿門、出獄。仙台藩主、東京へ護送。鹿門その先発を命ぜられる。
1870明治3年、上京。芝愛宕下の旧藩邸内に、私塾・綏猷堂(すいゆうどう)を開業。
8月、東京府出仕。
大学助教に任ぜられたが大学の内紛によって失職、その後の勤めも藩閥外のため辞せざるを得なかったもよう。
1871明治4年、早稲田の洋漢学塾「明治新塾」にかつて教えた旧門下生を訪ね、その洋漢学塾主宰者が双松岡の学僕だった智賢坊こと山東一郎と知って驚く。
7月、文部省出仕。
1872明治5年、正院八等出仕、修史局勤務。
正院:太政官の最高官庁。1877明治10年、廃止となり鹿門、失職。
1874明治7年、暑中休暇を利用して、富士登山をする。
7月24日出発、8月9日帰宅。紀行文「暑暇游記」または「登岳紀行」。
1879明治12年、東京府書籍館(しょじゃくかん)幹事、事実上の図書館長となる。
以後、大学校助教。東京府学教授、修史館協修。東京図書館長を歴任。
1881明治14年、病気のため退官、私塾の漢学塾・綏猷堂(すいゆうどう)を開く。
――― 漢学塾である綏猷堂は芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若き俊英が集まり、一時は三千人の子弟を抱えたといわれる。尾崎徳太郎(紅葉)、北村門太郎(透谷)、加藤拓川、石井民司(研堂)、片山潜、福本日南などその門を叩いている。・・・・・(2007.4.29「ケペル先生のブログ」)。
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1894明治27年、中国を遊覧し李鴻章と中国改革などを論じ、のち旅行記『観光紀游』を著す。
その他著述:『尊攘紀事』『千台史料』。 翻訳「訥耳遜伝」「法蘭西志」「米利堅志」
1914大正3年2月18日、胃腸病のため東京府荏原郡大崎町で死去。享年82。
――― 在野の文人として一生を終える。八十二年の生涯の半ば以上を仙台以外で過ごしたためか、仙台では、あまり岡千仞は知られていない。・・・・・千仞は嘉永五年二十歳で江戸に出て・・・・・床席穿つ(座席に穴があく)ほどのくそ勉強をして人を驚かせた。彼自身の語によれば、
吾は少年なり。時事熱狂輩と其の撰を異にす。謂えらく、吾の遊学は吾が学を研き、吾が大器を大成せんとするためなり。天下の大事は、一年少書生のかるがるしく論ずる所とのみ心得、(鹿門「在臆話記」)たのであるが、のち三河の松本奎堂、肥前の松林飯山らと親しむうち、一代の文人たらんと志しながら、いつの間にか時勢にまきこまれて慷慨の義徒と化し・・・・・ 時の勢いは、千仞を右に左に操るのであった。・・・・・(『鹿門・岡千仞の生涯』)。
葬儀には斎藤海軍大臣・徳川公爵・後藤男爵・長谷川参謀総長・都築枢密顧問官ほか、500余名が参会。目黒祐天寺に埋葬。
参考: 『鹿門・岡千仞の生涯』宇野量介1975岡広 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『日本史辞典』1981角川書店
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