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2024年8月19日 (月)

小説家・ミュージシャン、中島らも

 ある年、家を建て引っ越して間もなく近所に図書館が建った。小さい館だけど大好きな東洋文庫が並んでいる。なんて良い図書館!
 ところがある日、棚ごとそっくり消えた。苦情を言うと、読む人がとても少なく共同図書館の書庫にしまったという。
 それから暫くして、苦情を受けとめてくれた館員さんの働きで東洋文庫は棚ごと戻った。これを機に図書館便りに本の紹介を書くことになり、10年ほど寄稿、東洋文庫を中心に書いた。
 第一回は勝海舟の父、勝小吉の自伝『夢酔独言』。
 内容は父子の情愛はむろん幕末の世相が垣間見え、小吉のその奔放な生き様にひきこまれ、あっという間に読める。
 マルコポーロの『東方見聞録』や『アラビアン・ナイト』などを紹介したが、次第に範囲を拡げた。その一冊が『お父さんのバックドロップ』。

 ところで、この<けやきのブログⅡ>の登場人物の殆どは、いかなる困難にあってもめげず、世の為人のため奮闘する。
『お父さんのバックドロップ』の中島らも努力し頑張るが、ちょっとニュアンスが違う気がする。
 以前の自分なら、一見「ちゃらんぽらん」な風を良しとしなかったが、今は中島らもの生き方とか、人はそれぞれ、いいんじゃない。そう思う。

      *  *  *  *  *  *  *  *

             (1998年 図書館便り38号 <本は呼んでいる>)
  子どもと大人のさかいはどこにあるのでしょう。わたしの背丈は子どものようだけれど、髪はしらがまじり、いちおう大人です。心は少し子どものままですが、世の中には子どもの心を丸ごともった大人がいます。それが中島らも。
 はじめて中島らもの『明るい 悩み相談室』(朝日新聞)を読んだとき、げらげら笑ってしまいました。「こういうの好きだなあ」とうれしくなりました。
 その中島らもの本が、子どもコーナーにありました。それは“子どもより子どもっぽいお父さん”の話を集めた本『お父さんのバックドロップ』です。

    『お父さんのバックドロップ』 (中島らも 1989 学習研究社) 
   <お父さんのペット戦争>
 同級生のセミ丸と馬之助のペット競争に、魚河岸ではたらくお父さんと動物園長のお父さんが、ついむちゅうになってしまう話です。イセエビにはキウイ鳥を、100匹のワタリガニにはカニクイザルで対抗します。
 次は何が出てくるのやら。負けてがっかりするセミ丸君のお父さん、ついに夜の動物園にしのびこみました。向かうはゾウのおりです。そんなムチャな! 読んでみて。   

   <お父さんのバックドロップ>
 悪役レスラー牛之助のスタイルは、ふりみだした金髪、顔は白ぬり、目と口のまわりにまっかな隈取り(くまどり)がしてある。みどり色にそめた舌をチロチロッとだして、くさりがまをふりまわす。レフリーをなぐって反則負けする。こういうお父さんの子どもだったら、どうする?
 カズオ君は悪役レスラーのお父さんを、尊敬できないとなやみます。それではと、牛之助お父さんはアメリカの空手チャンピオンに、挑戦状をたたきつけます。
 「負けるのがこわい。死ぬかもしれない・・・おれがここで戦うのは、たった3人の人間のためだ。その3人さえおれのことをわすれずにいてくれたら、それでいい。そのために戦う。それはおれ自身と、おれのカアちゃんと、おれのムスコだ」わたしは牛之助のことばに泣けました。勝つか負けるか、読んでみて。

 ほかに<ロックンロールお父さん> <カッパ落語お父さん>もいるのに、紹介できず心のこりです。
 読むと、おもしろおかしく笑ってるうちに、大人は子どものつづき、子どもも大人も、かわらないとわかってきます。
 (平成10年)

      *  *  *  *  *  *  *  *

     中島 らも
 
 1952昭和27年、兵庫県尼崎市に生まれる。
 ?年、灘中学校に入学。
   ―――灘中学校には八番で合格なさったそうですね。・・・・・(中略)・・・・・ (灘校は)戦前に神戸の酒造家と柔道で有名な*嘉納治五郎が援助してできた学校で、校風としてはひじょうに自由でしたね。・・・・・文武両道のタイプがけっこう多かった。それ以外は、頭ばっかり大きくて、スポーツができないいわゆる火星人タイプ。僕はどっちかというと改正人タイプだったですね。・・・・・
・・・・・強烈な自我が出てきたのは、十五、六だったけど、早めに出てよかったと思っています。人によると四十くらいでくるでしょ。・・・・・(『その日の天使』)。

  けやきのブログⅡ<2014.11.1 柔術から柔道へ、講道館四天王>

  ?年、大阪芸術大学放送学科、卒業。

 1982昭和57年、広告代理店でユニークな企画を手がける。
   ―――コマーシャルソング「てっちゃん、てっちゃん、かねてっちゃん。ちくわとかまぼこちょうだいな ♪」・・・・・ 大阪で開かれた中島らもを忍ぶ展覧会「らもてん」の打ち上げで・・・・・宮前賢一社長がかまぼこの板を叩きながら熱唱していた・・・・・(中略)・・・・・異能異才の人・中島らもを世に知らしめた怪広告「啓蒙かまぼこ新聞」そしてその姉妹編「微笑家族」は企画広告で、「啓蒙」は雑誌『宝島』で82年8月号から「微笑~」は情報誌「プレイガイドジャーナル」(略称・プガジャ)で83年6月号から連載がはじまった。・・・・・
・・・・・らもさんがラリリと酔いどれの二重生活あら抜け出し、大阪の広告代理店に就職したのが81年3月・・・・・(小堀純『啓蒙かまぼこ新聞』)。

 ?年、バンドを結成。これぞ エンタテインメントといえる多彩な活動。
    エッセイや幅広いジャンルの小説を多数発表
 1984昭和59年~1994平成6年、朝日新聞で「明るい悩み相談室」を10年連載。
   ―――「明るい悩み相談室」の連載が始まった1984年、父はまだ広告会社に勤めていて、サラリーマン業のかたわら、ラジオやテレビのコントなども執筆しはじめていた。当時幼稚園の年長組だったわたしは、家の居間の天井近くにしつらえられた古いスピーカーから流れる『月光通信』のラジオコントを聴きながら、家の中の風向きがなにか得体の知れない方向に少しずつ変わっていくさまに、気づいていたような、いないような。・・・・・(中略)・・・・・
・・・・・父は一枚一枚に目を通し、時には身をのけぞらせて大笑い・・・・・爆笑させてくれた“珍質問”たちは宝物のように大事にファイリングされ、カバンの中に入れて肌身離さず持ち歩いていた。父は・・・・・投稿を読むのを毎週たのしみにしていたそうだ。・・・・・(中島さなえ編『中島らもの置き土産 明るい悩み相談室』)。

 1986昭和61年、劇団「笑殺軍団リリパット・アーミー」を旗揚げ、脚本執筆。
 1992平成4年、『今夜、すべてのバーで』吉川英治文学新人賞を受賞。
   ―――(わるもの列伝) たとえば一杯飲み屋に行くと、サラリーマンの話題はほとんど上司の悪口である。人間の場合、愛情というものも大きなパワーの素ではあるが、憎しみというのも活動力の素になる。そういう意味で「イヤな奴」だの「悪役」だのは人間にとってたいへん重要なそんざいなのだ。だから悪役の本性に深く立ち入ったりするのは愚の骨頂で、悪い奴というのは少し離れて遠巻きにして石を投げているうちが華だ。・・・・・(『僕にはわからない』)。

 1994平成6年、『ガダラの豚』日本推理作家協会賞を受賞。
   ―――長編部門を受賞した『ガダラの豚』 アフリカまで舞台を広げ、超能力や占い、そして新興宗教をテーマにして現代人の心の闇を描いていた。ホラー小説と冒険小説のテイストが絶妙にブレンドされていて、かなりの大作ながら一気に読まされてしまう。・・・・・(山前譲『幻異』)。

 1996平成8年、ロックバンド PISS結成。

 2004平成16年7月26日、転落事故による脳挫傷などのために死去。享年52。
   ―――・・・・・「明るい悩み相談室」もそうだが、らもさんは「広告」とか「相談」といった、"ある制約"の中で、自分の世界をつくり出すことに長けた人だった。そこに身を置くことをてれて はいるのだが、そこに決してこびたりはしない。・・・・・ そうしてそれは「小説」という制約のなかに身を置いた、作家・中島らもの本質でもある。らもさんはいつでも、どこでも読者をうらぎらない。・・・・・(小堀純『啓蒙かまぼこ新聞』)。

   参考: 『幻異』日本推理作家協会賞受賞作家 傑作短編集52017双葉文庫 / 『お父さんのバックドロップ』中島らも1989学習研究社 / 『啓蒙かまぼこ新聞』中島らも2008新潮文庫 / 人生のエッセイ『その日の天使』中島らも2010日本図書センター /  『僕にはわからない』中島らも2008講談社 / 『中島らもの置き土産 明るい悩み相談室』中島らも・中島さなえ編2013朝日新聞出版

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   2024.7.25 毎日新聞  木曜カルチャー
   <文化UP TO DATE>
   今も人々をつかむ純粋さ  没後20年 作家・中島らもさん
   「間口の広さ」魅力   来年に全集第1巻   (石川将来

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