『アラビアン・ナイト』をアラビア語から日本語に初めて直訳した歴史家、前嶋信次
『十二国記』・『アラビアン・ナイト』(図書館便り1998年)
若者が社会へでると踏み出す先が不透明、迷える羊ならぬ狼に? 出口を見つけられずキレル者もいます。しかしあふれる想像力と本を抱える若い人はまだまだいます。それを実感したのが図書館主宰《十二国記シリーズの魅力を語る/朗読と懇談会》でした。
小説『十二国記』は、小野不由美が紡ぎ出す壮大な物語。イラスト・山田章博。
懇談会は中学生から社会人まで若い人ばかり、思わず「年齢制限ある?」に笑い声。
さすがプロの朗読。高校生が「本当にアニメを見てるみたいだった!」 聴く者それぞれの眼前に一場のドラマが出現しました。
続く編集者を囲んでの懇談会、
「友人に薦められ次は自分が勧めた・戦うシーンがいい・キャラクターが好き・己を見捨てた友でも苦境に立つと助ける姿に泣けた・上巻がとても暗く下巻がつまらなかったら捨ててやると思ったのにハマッテしまった」などの感想や思い入れに同感でした。
“本は年代を超える共通語”と意を強くしたが、「イラストが良くて読む」にトシの差を感じた。
なにはともあれ、若者から親世代まで楽しめる本は?
それにはストーリーが変化に富み、神々も怪獣も活躍、人間と共存する創造の天地が必要のようです。
恋に友情、冒険、王子と姫、個性あるキャラクター妖しいものも登場、現実がかいま見える。そしてできることなら物語の絵手引き、イラスト付きがいい。この注文に合う本こそ『アラビアン・ナイト』でしょう。
シャハラザードが国王に千一夜の物語をするそれです。なあんだ知ってるよと言わないで、庶民の日常から波乱の物語まで何でもあり。
中東の昔々、美男美女を満月に讃える詩には砂漠の風土文化を感じ、善人が悪人にひどい目にあう場面には憤慨! いつの時代どこでも現実は厳しい。ジェット機の時代こそ絨毯で空飛ぶ世界は捨てがたい。
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アラビア語原典から翻訳の前島信次訳『アラビアン・ナイト』全18巻(平凡社東洋文庫)を紐解いてはいかが。
丁寧な索引がまた日本と違う風俗習慣について参考になる。
訳者・前嶋信次はどのようにして「アラビア語原典」に辿りついたのか。
戦後日本の中東イスラム研究・東西文化交流史研究の先達として、長年に亘り学界にも一般読書界にも足跡を残した歴史家・前嶋信次博士をわかる範囲でみてみたい。と、その前に話の種。
幕末に来日したフランスの駐日公使レオン・ロシュは大層なアラブ通だそうである。
前嶋 信次 (まえじま しんじ)
1903明治36年7月20日、山梨県東八代郡の医師・前島玄長の三男に生まれる。
生家は代々の漢方医、のち、西洋医学に転向。のち前嶋と改める。
1904明治37年、日露戦争。
1916大正5年、山梨県立日川中学校(現・日川高等学校)入学。
1921大正10年、東京外国語学校(東京外国語大学)仏語部文科に入学。
故郷でフランス文学の英訳に親しみ、漠然と文学に興味を抱いていた。
1924大正13年、東京帝国大学(文学部)東洋史学科選科入学。のち本科。
東洋史学者・白鳥庫吉の西域研究に出席、また藤田豊八(剣峯)教授のもと卒業論文「西域に於ける唐と大食との関係」のため*東京駒込の東洋文庫に通い、東洋学、東西交渉史やイスラム史への道を拓かれる。
大食:唐・宋代のサラセン国
けやきのブログⅡ<2020.6.27 G・E・モリソン、柴五郎、東洋文庫(東京駒込)>
1928昭和3年、卒業。新設の*台湾、台北帝国大学文政学部助手として赴任。
台湾:日清戦争後の下関条約により清国から日本へ割譲され、以後、昭和20年まで50年間、日本の殖民地であった
―――台北や台南では、地元の歴史や民俗を調査研究するのみならず、そこから台湾海峡を挟んだ対岸の福建省・広東をも望見し、現地への旅行も試みた。のちに、泉州や福州に来航したアラブ・ペルシャの人々やヨーロッパのキリスト教宣教師たちの活動に興味をもつ淵源がここに・・・・・(『台湾からの眺望』)。
1930昭和5年、27歳。川口敦子と結婚。
1932昭和7年~1940昭和15年、台南の第一中学校教諭。歴史家主任。
12年間の台湾時代は関心のある研究ができず不遇であった。その一方、地元の民俗や伝承に関心をもち、古老の話を聞き歩いたり、古碑・古廟・古地図・古書などを集め論文や随筆を発表。
―――この台湾時代は中東の社会史・生活史・文化史、あるいは説話への関心へ・・・・・西域ではなく南洋、「南シナ海・インド洋・アラビア海からイスラムの歴史に迫ろうとする」斬新な発想を生み出した・・・・・また、台北でも台南でも、中国語(北京語)を習う機会を得た・・・・・(『千夜一夜物語と中東文化』)。
1939昭和14年夏、中国・満洲・朝鮮半島を単身で旅行。途中、東京に立ち寄る。
1940昭和15年6月~1945昭和20年12月、満鉄東亜経済調査局入社。
―――フランスの東洋学者ガブリエル・フェランの旧蔵書を一括して購入・・・・・いわゆる「回教文庫」を自由に活用して、基礎研究を行うことができた。・・・・・一般に昭和10年代は、日本のイスラム研究が一挙に進展した最初の時期であった。これには、日本の海外への軍事的・経済的進出に伴って、中国大陸や南洋地域に居住するイスラム教徒の研究が必要になったという政治的要素も関係していただろう。・・・・・(『千夜一夜物語と中東文化』)。
1945昭和20年、敗戦。
満鉄東亜経済調査局が解散、職を失う。
1950昭和25年、慶應義塾大学語学研究所所員となる。
1951昭和26年4月、慶應義塾大学文学部非常勤講師。
1952昭和27年月、東京外国語学校仏語部非常勤講師。
『玄奘三蔵――史実西遊記』出版し名を高める。
―――戦後数年間の苦しさは、今になって回顧してもゾッとするほどである。・・・・・(中略)・・・・・あんな嫌な目に二度とあってはたまらない・・・・・続く失意と虚脱の時期に仏教に心惹かれるようになる。「空海入唐記」など、異文化を旅する求道者たちを主題とした一連の評伝を『大法輪』に寄稿・・・・・ その試みの掉尾を飾るのが『玄奘三蔵』であった。・・・・・(『千夜一夜物語と中東文化』)。
1953昭和28年、学位論文「東西交渉史上に於けるイスラム教徒勢力の消長に関する研究」で文学博士となる。
1954昭和29年、慶應義塾大学文学部専任講師(東洋史学専攻)。
『三大陸周遊記』イブン・バットゥータ・前嶋信次訳・河出書房新社。
イブン・バットゥータ:1304~1377。アラビアの旅行家。北部モロッコに生まれ、22歳の時に聖地メッカの巡礼を志し、以後、足かけ30年間にわたり、アフリカ・西アジア・南ロシア・バルカン半島・中央アジア・インド・スマトラ・中国・スペイン・サハラ砂漠など三大陸を旅行。この間、滞在地で法官に任ぜられるなど高い教養の持主であった。
―――(訳者・前嶋信次のあとがき)・・・・・旅行記に対する全般的評価・・・・・この書は、世界文学中の傑作の中に加えるべきもので、すでに消え去った世界を全般的に復活させるだけの内容をもった著作の一つである。そして、イブン・バットゥータが復活させたすでに消え去った世界とは、一四世紀のユーラシア大陸、とくにイスラム世界なのである。・・・・・(『三大陸周遊記』)。
1957昭和32年、東京都立大学大学院社会学研究科非常勤講師。
1958昭和33年、日本オリエント学会理事。
1960昭和35年、フルブライト全額支給交換研究員として、シカゴ大学東洋言語・文明科およびプリンストン大学東洋研究科にて研究に従事。
1961昭和36年7月~10月、イギリス・フランス・スペイン・スイス・イタリア・ギリシャ・トルコ・アラブ連合・レバノン・タイ諸国の史跡・大学・博物館などを見学。
『千夜一夜物語と中東文化』アメリカ・シカゴ大学で、西暦9世紀のものとされる姶良美案内と稿本と巡りあった日、老婦人N・アボット教授と接した日々の心象風景が綴られている。
―――(前嶋のスタイル) 書物の話ではじまり、原典の所在、版本の相違、著者の人柄や著作の因縁、研究・翻訳がでた経緯、ときに書物を買った場所・・・・・文献案内かと思って読み進むうち、読者は知らぬ間にすでに本題の叙述のなかに引き込まれている。つまり、かけがいのない個としての「私」の係わりと観点を淡々と押し出した歴史記述なのである。・・・・・(板垣雄三『書物と旅 東西往還』)。
板垣のことばで、難しそうなのに「読めてしまう前嶋博士の著述」その理由がわかった。また前嶋博士が文学好きというのもあるかもしれない。
1963昭和38年、日本イスラム協会理事、『イスラム世界』編集委員。
1964昭和39年6月、中東調査会理事。東北大学文学部東洋史学科非常勤講師。
1965昭和40年、『アラビアの遺書』出版。その執筆動機は、
―――漢方医であった生家の思い出や、アラブ医学と漢方医学との共通点に触れ、自分は「古風な薬の香りや薬研を磨す音などのただよう、楽しいのんびりとした本を」・・・・・『千夜一夜物語と中東文化』)。
1967昭和42年8月、国際東洋学者会議に出席、ミシガン大学その他に旅行。
9月、日本サウディアラビア協会理事。
1968昭和43年~1981昭和56年、『アラビアン・ナイト』アラビア語原典邦訳。
1969昭和44年2月、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所運営委員。
3月、旧ソ連領中央アジア、カフカース、モスクワ旅行。
1970昭和45年、青山学院大学文学部史学科非常勤講師。
NHKテレビの大学講座『歴史』を松田寿男と共に担当。
1971昭和46年、慶應義塾大学を定年退職。
専門分野での論文集、慶應義塾大学退職記念『東西文化交流の諸相』。
1975昭和50年、中近東文化センター初代理事長。
10月、バグダードで開催されたファーラービー千百年祭に招待され、イラク各地を旅行。
一般向け啓蒙書『イスラムの蔭に』。
1976昭和51年5月、日本オリエント学会顧問。
1983昭和58年、心不全のため死去。享年79。
厚木霊園に埋葬。
追悼論文集『西と東と』。
参考: 『千夜一夜物語と中東文化』前嶋信次2000平凡社 / 『書物と旅 東西往還』前嶋信次著作撰42001平凡社 / 『台湾からの眺望』著作撰52000平凡社 / 『三大陸周遊記』イブン・バットゥータ著・前嶋信次訳2023河出書房新社
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