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2024年9月30日 (月)

閨秀三名家、跡見花蹊・野口小蘋・奥原晴湖

 10月もまだ暑い日があるけど、空は青く高く目にはさやかとみえねども、秋は来ぬだ。そして「秋」と口にするだけで、芸術の秋、スポーツの秋が思い浮かぶ。
 ところで、自分は音痴で絵も下手、芸術にはほど遠いが愉しみ方はいろいろある。美術館、博物館、サッカー場、野球場その他いろいろへ出向けばいい。外出がおっくうならテレビやネットで愉しめばいい。読書の秋もいい。
 本棚に目をやると、宮武外骨の『明治奇聞』がある。目次を見ると「三毒婦」と「閨秀三名家」が並んでいる。まあ毒婦の人生行路さておき、学問・書画詩文に優れた三女性のそれぞれをかいま見てみた。

   <明治初期の三毒婦>
   ―――情夫と共謀して旦那を殺した罪で、明治五年二月、死刑に処せられた夜嵐お絹。アバズレ生活の果て、明治十年二月に狂死した鳥追お松。明治十二年一月に殺人罪で死刑に処せられた有名な高橋お伝。その後この三人を合わせて三毒婦と称した。・・・・・(『明治奇聞』)。

   <閨秀三名家
   ―――明治十四、五年頃より約十年間、書画の妙手として、跡見花蹊・野口小蘋・奥原晴湖。最も生命の永かったのは、跡見学校を建てた花蹊女史。・・・・・(『明治奇聞』)。

     跡見 花蹊   (あとみ かけい)
             明治・大正期の女子教育者

1840天保11年5月10日、大阪で生まれる。次女。名は滝野。
   父の跡見重敬は寺子屋を営んでいた。歌人。
 ?年、漢学を後藤松陰・頼山陽門下の宮原節庵、画を石垣東山・円山応挙らに学び、詩文・歌・画に優れる。

 1859安政6年、父が大阪中之島で開いていた私塾「跡見塾」を継ぐ。
   娘に教養をつけようとする関西圏の良家から若い女性を預かる。
 1867慶応3年、京都に私塾を開くが、家族とともに東京へ出る。

 1870明治3年、東京神田猿楽町に私塾を構え、その女子教育が有名になる。
 1872明治5年、花蹊は日本書画家としても活躍、御前揮毫の栄誉を賜る。
 1875明治8年、日本初の女性教育機関、跡見女学校を創設。
   幕末維新の混沌を目の辺りにし、女子教育の重要性を認識したことが、尊皇派に心を寄せる教育方針の原典になっている。

 1893明治26年、御前揮毫。
   学校経営者としてだけではなく画家としても、書家としてもも「跡見流」といわれる書風を築き上げた。
 1919大正8年、校長を辞す。二代目校長は養女・跡見李子。
 1926大正15年、死去。
   女子教育に専念、生涯独身であった。  

 

     奥原 晴湖   (おくはら せいこ)
             近代日本の代表的な文人画家

  1837天保8年、下総国古河藩主の家臣330石の池田繁右衞門政明の四女、名は節子。
   幼い晴湖は武芸に秀で弓術師範の父から薙刀・剣術・柔術を仕込まれ、上達も早く、年上の男の子を取っては投げていた。
   父は娘に同藩の画家・枚田(ひらた)水石に絵を学ばせた。水石は谷文晁の門人。

         以下、『本朝画人伝』(村松梢風1952読売新聞社)より。
   ―――古河藩、当時の藩主は土井大炊頭利位で非常な賢君で学問芸術も揮った時・・・・・佐藤一斎が藩主の侍講、詩人大沼枕山も侍講となった。枕山は時々古河へもやってきたので、晴湖は詩文の添削を乞うた。・・・・・ 古河藩には蘭学者として有名な鷹見泉石がゐた。・・・・・(中略)・・・・・晴湖の絵画に於ける研究・・・・・ 古画を模写することが第一であった。古来の画家が行ったことではあるが、自由が許されぬ女の身では他に方法がなかった・・・・・ 江戸へ出て門戸を張り、画壇に雄飛しよう・・・・・

 1864元治元年春、幕末も大詰めに切迫している江戸だが、奉公人のおでんと二人で江戸へ。
   ―――(おでん)晴湖は画ばかりでなく、学問でも武芸でも歌俳諧その他何一つとして不得手なものはない。おまけに絶世の美人だ。・・・・・身の丈五尺以上あり。弓術、剣術、柔術など武芸で鍛えたしっかりした体格。・・・・・共々江戸へ出た以上は、いかなる艱難辛苦も堪え忍んで、晴湖が出世するまでは自分の一生を捧げて忠義を励むことを健気にも誓う・・・・・
・・・・・江戸へ出ると奥原姓を名のり雅号を晴湖と・・・・・当時の下谷は文人墨客の渕叢であった。大沼枕山は摩利支天横丁に住み、・・・・・大家はみな此の付近に住んでいたので下谷文人の称呼があった。・・・・・現代のような展覧会などなかった時代に名を売る手段として、先輩大家の門を叩いて交際を求め、名流の出席する書画会の席上画で技倆、顔を知られたりするより外に方法がなかった。
・・・・・明治初期。文人画が流行。激動の人心未だ治まらず・・・・・当時の思想は、狩野や土佐の密画よりも、一筆にして気韻の生動せる文人画を歓迎 ・・・・・ 斯かる絵画混沌時代に遭遇し、風雲に乗じて画壇の王座に君臨して、縦横無尽の細筆を揮って文人画に一新生面を開拓したのが女流奥原晴湖であった。・・・・・

 1871明治4年、男子の散髪廃刀令発布。晴湖は男子と同様散髪してしまった。
   ザンギリ頭に黒羽二重の五ツ紋の男羽織、仙台平の袴、堂堂たる男子の扮装だ。当時の女子の断髪は許されて居なかったので、表面は持病のためと届出をして髪を切った。
 1872明治5年、晴湖は宮中で皇后陛下の前でで御前揮毫。

 1912明治45年、75歳。気力の減退を見せずに作画に精進したが、秋から多少健康を害した。
 1913大正2年7月28日、死去。享年76。
   ―――晴湖の画風は一変し、磊落奔放であったのが、雄渾蒼潤となり覇気は消えて神韻縹渺ある者となった。晴湖はその一生を通し、豊富な天分駆使して努力倦む所を知らなかった。よく明治初年の時代風潮を代表し、一筆で人の心胆を奪い、豪快無類であった。・・・・・晩年になると磊落粗笨になるものだが、晴湖は一般と逆であった。

 

     野口 小蘋   (のぐち  しょうひん)
              明治の才媛

 1847弘化4年1月11日、大阪、徳島県出身の医師・松本春岱の娘に生まれる。
 1850嘉永3年、3歳。軽い天然痘になる。
   ―――発熱のため病床に就いていたが、如何なる事かこの時から、筆を持って遊ぶ様になり、始めは何とも解せない物を画いてゐたけれども、其れが漸々面白い形を顕す様になった。其れから女史は非常に画に趣味を持ち、八歳のとき或画家に手本を一冊書いて貰って、習ひ始めたが、物足りないので、床に懸けてある古人の画や、庭園の草木を始め花鳥山水に至る迄、悉く好個の画題・・・・・昼夜の差別なく研究して画いてみた。・・・・・(『現在人格研究』)。

 1863文久3年、16歳、父死去。
   苦労があったが当時は画家を歓迎したので、小蘋(しょうひん)は母を伴い、京都・名古屋・伊勢地方を歴遊。
 ?年、18歳のとき、日根対山(1813~1869)に師事。星霜7年、一心不乱に筆の洗練に勉める。
   ―――小蘋女史のてになる書画は書画は、ややもすれば繊巧軟弱に失ふ處がある。花蹊女史の墨跡は、縦横淋漓奇峭ただちに人に迫るの気勢がある、・・・・・二家の短長を評してみれば「霜杵敲寒風燈揺夢」の風があるのは花蹊女史の筆意で「暗雨敲花柔風過柳」の趣があるのは小蘋女史の筆致である。  二家の風趣は、其気象に剛柔の別ある如く相反しているが、倶に異色同工と云ふに於ては、何人も亦異論はあるまいと思ふ・・・・・(『現在人格研究』)。

 ?年、日根対山の門人で儒者の森卓斎について漢学、岡本黄石について漢詩を学ぶ。
 1870明治3年、この頃、26歳。上京。 

 1873明治6年、皇后の寝室に用いられる花卉の画八葉を、その後、数回、御前揮毫の光栄に浴す。
    東伏見宮妃殿下ほかの絵画の御用掛などをつとめる。
    華族女学校で6年間、教鞭をとる。
    世界大博覧会(?)で賞。

 1877明治10年、滋賀県の酒造業「十一屋」を営む野口正章と結婚。
 1882明治15年、一家で上京。
   内国絵画協会展など国内外の展覧会や博覧会で受賞。受賞作が御用品となる
 1889明治22年~1893明治26年、華族女学校(学習院)嘱託教授。

 1902明治35年、美術協会に『秋草に猫児』宮内省の御用品となる。
 1904明治37年、女性初の*帝室技芸員となる。
   帝室技芸員:明治23年設置。皇室の美術奨励に基づく美術家の栄誉職。勅任官待遇。戦後廃止。

 1905明治38年、 正八位、
 1908明治41年、従七位。
 1917大正6年2月17日、死去。享年70。
   ―――気品ある優雅な花鳥、山水図を得意とし画壇を代表する南画家の一人として活躍。・・・・・(「韮崎大村美術館」 )。

 

   参考: 国会図書館デジタルコレクション / 『明治奇聞』宮武外骨1997河出文庫 / 『現在人角研究』坂井松梁編1910春畝堂 / 『名媛と筆跡』中村秋人1909博文館 

 

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