西村天囚『欧米遊覧記』を読む(世界は縮まれり)
新聞テレビで世界のニュースに接している故か『世界は縮まれり』という書名を見、世界各地で紛争は絶えず解決への道は遠く、縮むというより「悪く固まれり」と屁理屈をこねてみた。
さて、「世界は縮まれり」には明治の漢学者でジャーナリスト、西村天囚が著した『欧米遊覧記』を読むという副題がついている。
西村の著作は国会図書館デジタルコレクションで読めるが、漢文体のうえ難しい漢語が多く筆者には難しい。新聞記者・西村の記事を読みこなしていた往時の人々に感心する。
実は、西村天囚について前から気になっていた。
「『佳人之奇遇』は東海散士ではなく、高橋太華とか西村天囚でが書いた」と言ったとか、その根拠を知りたいと思っていた。
西村 天囚 (にしむら てんしゅう)
1865慶応元年7月23日、大隅国(鹿児島県)種子島西之表に生まれる。
家は代々種子島氏の家臣。父・城之助、母・淺子の長男に生まれる。
名は時彦。号は天囚、ほかに碩園・子俊・紫駿道人・小天地園主人。
1868明治元年、3才で父を亡く、父の友人・前田豊山に漢学を学ぶ。
1880明治13年、上京。重野安繹(歴史家・漢学者)の内弟子となり、島田重禮の塾に通う。
1882明治15年、17歳。東京大学文学部古典講習科、官費生として入学。
1887明治20年、官費生廃止のため退学。
5月、『屑屋の籠』を著し名を知られるが、酒のため生活を乱し大阪に流寓。
1888明治21年6月、奥州へ旅。9月、山内愚仙と京都に赴く。
この年、大津で『ささ浪新聞』創刊、主筆となるも半年余りで退社。
1889明治22年、『大阪公論』(「大阪朝日」の姉妹紙)に迎えられる。
社の経営が困難になると西村は論説・小説・紀行文・戯曲など書いて好評を得る。
―――その頃、『大阪公論』及び『大阪朝日』には文学者が多く、西村はこれらの人々とともに浪花文学会をつくり『なにはがた』(明治24年創刊)、関西文学興隆の気運をつくった。・・・・・堺枯川(社会主義評論家)はその頃の西村を懐かしんで、身辺に暖かい情味を放散している人であり、一面豪快不羈、一面忠厚惻隠の人であったといっているが、これは終生かわらなかった。・・・・・(中略)・・・・・西村が大阪を愛したのは、大阪は市民の市、その学問も、経済も、市の制度も、町人たちによって築かれたのであるという見解にあった。・・・・・(西田長寿『明治新聞人文学集』)。
1890明治23年、『大阪公論』廃刊。『大阪朝日新聞』入社。
―――『大阪朝日』の西村天囚といえば、大先輩であり、名文でならした有名記者だった。・・・・・(木村毅「明治新聞記者気質」)。
9月、鹿児島市の三原経倫の妹タカと結婚するも2年後に死去。のち妻の妹タカと再婚する。
1891明治24年8月、中国地方へ旅行、*天田愚庵(あまだ ぐあん)と知り合う。
けやきのブログⅡ<2013.9.7天田愚庵と清水次郎長、山岡鉄舟>
1893明治26年7月1日、東西の『朝日新聞』に*福島少佐「単騎遠征録」を連載。
―――取材のため西村は村山・上野両社主に禁酒を誓って、秘かにウラジオストックに特派され、福島の通過順路の地理・民情・気候等を精魂を尽くして取材・・・・・少佐の労苦を空しくしない見事な旅行記となって、文字通り洛陽の紙価をあげた・・・・・(『明治新聞人文学集』)。
福島安正:陸軍軍人(大将)。 江戸でオランダ式兵法を学び、維新後大学南校で学ぶ。陸軍省にで中国・朝鮮関係の官職を経てドイツ駐在武官としてベルリンに赴任。明治25年2月帰国に際し、単騎でロシア・シベリアを横断、翌年6月ウラジオストックに到着、神戸経由で帰国。日清戦争に際して大鳥圭介・駐韓公使を動かし、対韓強硬論を唱えた。柴五郎が活躍した義和団事件に派遣軍司令官として活躍。
けやきのブログⅡ<2009.8.3本:福島安正/山東一郎(直砥)/ニッカボッカの歌>
1894明治27年、日清戦争。京城に特派。従軍記者として渡韓。
12月、弟・時輔、京城で病死。
1895明治28年3月、日清講和談判の状況視察のため、『大阪朝日』主筆格の高橋健三に従い下関で、談判の進行状況など取材、東西の『朝日』に報道。
5月13日、日清講和条約成立の詔勅が『官報』号外で発表、それに対する感激と覚悟とを「泣て大詔を読む」とだいして発表。
1896明治29年秋、『東京朝日新聞』主筆、上京。
1899明治32年、『南島偉功伝』(種子島家伝)出版。
11月、清国留学。明治35年春まで上海中心に行動。
1900明治33年、義和団事変。 1901明治34年、西村は参謀総長川上操六の依頼で渡清。
―――日清戦争で主戦論を唱えた張之洞を説いて日本に留学生派遣を説得・・・・・以後、日本への留学生は増加した。参謀総長川上操六の依頼に拠ったもの・・・・・(西田長寿)。
1902明治35年12月17日、教科書疑獄事件の検挙はじまる。
記事「社会の清潔法」:農商務省属官の収賄事件を例にとって政財界・官界における不正行為を粛清することの必要を主張。
1904明治37年、39歳。『朝日新聞』元旦紙上に琵琶歌「武士道」掲載。
有名コラム「天声人語」は、主筆格であった天囚の命名とされる。
1905明治38年5月、日露戦争最大の日本海海戦後の6月下旬から社命によって、福井・石川・富山の三県下を視察、その見聞を10月まで分載。
―――西村の目は地理・産業・風俗・歴史の各面に注がれて興味深い。ここでは、奉書紙の生産地として今も知られている福井県立今立郡五箇村の紙業視察記全文を採り、挿画も原紙の挿画を縮小して収めた。・・・・・(西田長寿)。
1909明治42年、元旦から「宋学の首倡」を連載、9月、『日本宋学史』として刊行。
1910明治43年2月、「*懐徳堂研究」を連載。
4月6日、横浜港を一隻の大型貨客船が出航した・・・・・朝日新聞社主催第二回「世界一周会」会員を乗せた東洋汽船の地洋丸である。小雨の中、盛大な銅鑼の音と歓呼の声に送られた船出であった。種子島は薩摩藩主島津氏や島主の影響で篤学の風があり・・・・・
・・・・・(中略)・・・・・世界一周会特派員として神戸港を出発。7月18日、帰国。
懐徳堂:享保のとき、大阪町人の援助により大阪に創立された学校。学生は庶民が多く、富永仲基・山片蟠桃らは受講生中の逸材。
―――世界は縮まった。人為が天に勝ち、船と車はなんと大きく開けつつあり、どんな大海も高山も、意のままに縦貫横断し、アメリカ・ヨーロッパ・アジアの連絡周遊は、かつての江戸への参勤交代よりも日数を費やさず、あれほど億劫だった洋行というものも、隣村の盆踊りを見に行くほどのたやすさとなったのは、文明が日々進歩しているおかげで、かつてのわが社が率先して主催・・・・・応募者は意外と多く・・・・・第二回の世界一周にも、応募者は意外と多く、慎重に選出した五十二人に社員五人を加え、総勢五十七人の一団を組織できた・・・・・これを遡ること約四十年前、岩倉具視を特命全権大使とする政府使節団が悲壮な決意でアメリカ・ヨーロッパを視察したときとは異なり・・・・・明治時代のはじめと終わりとでは、隔世のの感があったのは事実であろう。・・・・・(『世界は縮まれり』)。
1912明治45年/大正元年7月30日、明治天皇崩御。
9月13日、「誄辞」(るいじ)を『大阪朝日』に掲載。名文として知られる。
誄:しのびごと。死者の生前の行いをくり返し讃え、死をいたむことば・文章。
―――この悲報は深夜にもかかわらず、わが東西両社では直ちに号外として報道し、同日の紙面には西村天囚謹記の「哀辞」と「天皇践祚」の二文を掲載・・・・・この日より大正元年九月十七までの間、全紙を黒枠にてかこみ、粛然服喪の意を表し・・・・・ 社説と小説の掲載を停止した。・・・・・大葬儀の模様を、記事と写真と絵画により詳報したが、十三日の紙上に掲載した「誄辞」(るいじ)もまた西村が至誠をこめて草したものだけに、一代の名文として世上に喧伝された・・・・・(『七十年小史』)。
―――天囚は重野成斉門下の逸材で、朝日をやめてからは松方正義に乞われて、宮内省御用掛となり、文学顧問として宮廷の文を草し、詔書も書いた。・・・・・国家の式日、宮廷の慶弔などの儀礼的な文章では天下一品だった。文章には少なくも三稿、多きは八稿というコリ屋で「即位大礼頌」の如きは凡そ一年間の推敲をへたものといわれる。・・・・・(『明治の人物と文化』)。
1915大正4年、50歳。年末「御大礼記録」の編集に従事。
1916大正5年~1921大正10年、京都帝国大学文学部講師となる。
1916大正7年、いわゆる*白虹事件で鳥居以下、進歩派の幹部記者退社、西村は編集顧問として第一線に返り咲く。
白虹事件:米騒動の際の筆禍事件。
1920大正9年5月、文学博士となる。
6月、島津家臨時編輯所編纂長となる。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
「国民精神作興の詔書」謹作、11月各新聞に発表。
1924大正13年7月29日、流行性感冒を患い余病を併発、死去。享年59。
参考: 『明治新聞人文学集』著者代表・矢野龍渓1983筑摩書房(文学集月報94木村毅) / 『世界は縮まれり 西村天囚『欧米遊覧記』を読む』湯浅邦宏2022KADOKAWA / 『七十年小史』1949朝日新聞社 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『明治の人物と文化』湯川松次郎1968弘文社
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当方は津田塾大学言語文化研究所の特任研究員です。
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投稿: 戸田徹子 | 2024年9月28日 (土) 22時59分