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2024年9月 2日 (月)

明治・大正期の志士(大陸浪人)宮崎滔天/浪曲師・桃中軒牛右衞門

  ―――桃中軒牛右衞門(とうちゅうけんうしえもん)は異色の浪曲師だ。明治初めの1871年にいまの熊本県荒尾市に生まれ、父や兄たちを通し自由民権思想の影響を受けた。97年には亡命中の孫文と出会い、中国革命の支援に奔走する。宮崎滔天の名の方が知られているだろうか・・・・・以下略・・・・・(2024.8.18毎日新聞[余録]) 

 引用文の「桃中軒右衞門」を「桃中軒右衞門」と早とちりして、あの有名な浪曲師が宮崎滔天!?
 ビックリしつつも念のため人名辞典をひいて間違いに気付いたが、これもなにかの縁、自伝『三十三年之夢』ほか参考に宮崎滔天をみてみた。
   

     宮崎 滔天    (みやざき とうてん)
                  (年譜は『日本の名著 宮崎滔天・北一輝』を参考にした)

 1871明治4年1月23日、熊本県荒尾村(荒尾市)に生まれる。本名、寅蔵(戸籍は虎蔵)
   父・長蔵、母・サキの五男。宮崎八郎・民蔵の末弟、11人兄弟の末っ子。
 
            けやきのブログⅡ<2017.1.21宮崎4兄弟、八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵(熊本県)>  

   ―――加藤肥州が夢の名残の銀杏城を距る西北十余里・・・・・筑後の国境に入らんとする所に一小村落がある。荒尾村といふ。・・・・・父は僕が十一歳の時に世を去り、僕は畳の上で死ぬるは男子の恥辱也、と教へた母に育てられ、二兄の感化を受けたことも多かった。・・・・・ウント飛ぶよ。小学、中学、其から今は変節で時めく徳富蘇峰先生の有名な大江義塾、東京へとんで今の早稲田大学の前身東京専門学校。師事した先生の順から云へば蘇峰先生徳冨猪一郎さん、フシヤ師、尾崎弘道師、海老名弾正師。・・・・・(『宮崎滔天』)。

 1877明治10年、西南戦争。
  滔天の兄、宮崎八郎(中江兆民の影響を受け民権を主張)熊本共同隊を組織、西郷軍に参加して戦死。
 1886明治19年、15歳。兄たちの影響で自由民権にあこがれ上京。
 1887明治20年、小崎弘道の番町教会で洗礼を受ける。
 1889明治22年、キリスト教より脱信。
   貧しい人々にパンを与える方法を真剣に考えるうちキリスト教からも離れ、当時欧米列強諸国の半植民地になりかけていた隣国中国の革命運動を援助しようと決心。・・・・・(『コンサイス学習人名事典』)。

 1892明治25年、22歳。上海に渡航。この年、前田ツチと結婚。
   11月、長男・龍介生まれる。
 1894明治27年、日清戦争。
 1895明治28年9月、滔天、広島市の海外渡航会社・タイ国在留代理人に就任。
   10月、移民20名とともに神戸出航、バンコック着。12月、帰国。
   中国広州で孫文ら清朝打倒の蜂起に失敗した孫文ら日米英に亡命。
   滔天は日本に亡命の孫文に邂逅し終生、利害・打算・損得抜きに親交を結び支援。

 1897明治30年、外務大臣・大隈重信に面会。
   犬養毅の斡旋により中国事情視察のため外務省機密費の支給を確約される。大隈の好意で外務省嘱託となって中国革命運動調査のため中国に渡る。
 1899明治32年、滔天、大磯の犬養宅に寄食。犬養の紹介で中村弥六にフイリピン独立軍の武器調達を依頼。
   7月、中村弥六、布引丸に武器をつみ神戸出航したが沈没。
   憲政本党代議士中村弥六所有の布引丸炎上(明治32.7.25時事新報) / 憲政本党で犬養毅と中村が対立(33.11.27国民新聞) / 武器密輸事件の真相、中村が資金横領(33.12.3万朝報) / 中村除名される(33.12.7万朝報 )
   ?月、滔天、興中会・哥老会・三合会を合同。
 1901明治34年、31歳。孫文の依頼で上海密航。

 1902明治35年、自伝『三十三年之夢』波乱に満ちた前半生の自伝刊行。
   波乱に満ちたこの自伝は「二六新報」に1月30日から6月14日まで掲載された。   
   3月、中国での蜂起失敗後、浪曲師への転身を決意し桃中軒雲右衞門に入門。
   8月、雲右衞門一座と東海道巡業、横浜で初出演。
   10月、神田錦輝館で東京初公演。
   ―――つとに奇傑の名をもって知られたる白浪庵滔天(宮崎寅蔵)は、今回新体浪花節桃中軒を組織し雲右衞門、数右衛門等とともに、一昨夜及び昨夜の両日午後七時より神田錦旗館・・・・・筑前琵琶二番、浪花節二番に次いで、桃中軒牛右衞門高席の見台の上に立つを見れば、かの大兵肥満なる黒紋付の形装にて「慨世奇談」一席を演じたり。・・・・・(35.10.3読売)。

 1904明治37年、日露戦争。
   伊藤痴遊らと寄席出演。自作の「落花の歌」をうなったりした。
 1905明治38年、来日中の中国革命の両雄、孫文と黄興とを結んで中国革命同盟会を成立させ、孫文の委嘱で同盟会の日本全権委員となる。
 大陸浪人中で滔天はもっとも誠実に革命を援助した。
 1906明治39年~1907明治40年、雑誌『革命評論』を仲間と発行。
   日本人はもっと中国や中国人留学生にあたたかい目を向けようと訴えた。
 1907明治40年、日本を退去する孫文を横浜に見送る。

 1909明治42年、滔天一家、貧窮を極める。尾行の刑事、滔天一家に茶菓を恵む。
   7月、滔天、一座・滔天会を組み、浪花節巡業の旅に出る。
   12月、母急逝の報に接し、巡業先より帰郷。
 1910明治43年5月、滔天、香港に行って黄興から革命の現状について聞き密航してきた黄興、また、アメリカより密行の孫文を横浜に出迎え、孫・黄の密談を周旋。

 1911明治44年、辛亥革命。
   清朝を倒し中華民国を成立させた革命。
   四川省の暴動が発端10月、武昌で軍隊が蜂起。全国三分の二が革命派の勢力下に。
   4月、孫文、滔天が貧と病に苦しむと伝え聞いてカナダから滔天夫人宛に百元贈る。

 1912明治45年/大正元年、辛亥革命後の中国に赴き長く活躍。
   1月、中華民国成立。孫文、臨時大総統。滔天、上海より随行し式典に参加。

 1913大正2年、43歳。孫文、山城丸で長崎着。滔天、一行を出迎え、以後随行。
 1915大正4年2月、熊本県郡部区から衆議院議員に立候補、落選。
 1917大正6年、長崎から上海へ向かう。毛沢東らの招請に応えて湖南省立第一師範学校で講演。
 1919大正8年3月、朝鮮に反日独立運動。
   5月、中国五・四運動始まる。

 1921大正10年10月、息子の宮崎龍介と柳原燁子(白蓮)の事件おこる。
  ―――滔天は世の非難の声があがると、「どうしょうもなくなったら、お前たち二人で心中してもいい。先行ぐらい仏前にオレが立ててやる」といったそうです。このへんに、明治のロマンチストの強靱な精神があるといえるわけですね。・・・・・(『日本の名著45巻 付録』)。

 1922大正11年5月、滔天喀血。12月6日、死去。享年51。
  ―――滔天は自他ともに認める浪人だった。生涯を通じて官職にも就かず、利益を求めて事業にたずさわることもなく、一生を貧乏のうちに送った。だが彼は、「万人平等、四海兄弟」の理想を求めて内外の政治家や志士と交わった。とりわけ、のちに中国革命の父・・・・・孫文とは、日本亡命時代に出会い、その主張に共鳴して献身的な支援を続けた。・・・・・(『浪人と革命家』)。

 

   参考: 『宮崎滔天 三十三年之夢』近代浪漫派文庫2005新学社 / 『浪人と革命家』田所竹彦2002里文出版 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 / 『コンサイス学習人名事典』1992三省堂 / 『日本の名著 宮崎滔天・北一輝』近藤秀樹編集1982中央公論社
/ 『明治日本発掘 7』1995河出書房新社   

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