幸田露伴兄弟姉妹、(郡司)成忠・成行(露伴)・延・成友・(安藤)幸
幸田家の兄弟姉妹とも揃って活躍、記事が長くなってしまった。御用とお急ぎでない方、幕末から昭和の敗戦後まで兄弟姉妹の活躍をどうぞ。
けやきのブログⅡ<2009.8.10 本ほんご本:郡司成忠/白瀬矗/伊能忠敬>
けやきのブログⅡ<2019.6.1 滝廉太郎が生きた明治の24年間(東京・大分)>
1867慶応3年7月23日、成行のち露伴。幸田成延の第四子として江戸下谷に生まれる。別号、叫雲老人・蝸牛庵・脱天子ほか。
父、幸田成延は幕府の表坊主、母は猷(ゆう)。兄弟七人。長男・成常
1868慶応4年/明治元年、江戸を東京と改める。
父は大蔵省の下級属官員となり、幸田家は*静岡にゆかず東京に踏みとどまる。
静岡藩: 江戸開城とともに徳川宗家、所領を削られ、徳川宗家をついだ家達に駿河・遠江・三河で70万石与えられ、静岡と改称し廃藩置県にいたる。
1870明治3年4月19日、延、生まれる。のち東京女子師範学校附属小学校入学。
1872明治5年、郡司成忠、築地の海軍兵学寮に官費入学。
1873明治6年、成友、生まれる。のち、下谷の榊原鍵の道場に通い、私塾で漢籍学び、東京大学史学科卒業、文学博士。東京商科大学などで教授。
1878明治11年12月、幸、生まれる。
1880明治13年3月、学校音楽家メーソン、伊沢修二の招きで音楽取調所教師として来日、唱歌の授業始める。
―――自分(成友)は小学の振り出しから大学の大詰めまで、学校運の強かったことを確信、徳川宗家静岡移封の際、父母が時流におもねらず、断固として東京に踏留まつたことに感謝に堪へぬものがある。・・・・・自分は東京師範学校附属小学校に入学・・・・・学科の中でもっとも新しいものは唱歌である。・・・・・「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」を歌った名誉をになう小学生は自分達ではあるまいか・・・・・(幸田成友『凡人の半生』)。
1882明治15年、延、音楽取調掛の伝習生。ピアノ・バイオリン・声楽を学ぶ。
1883明治16年、成行(露伴)、学資がなく中学を退学、芝汐留の電信修技校に入る。
1884明治17年、露伴、電信修技校の給費生。芝区愛宕下の海軍中尉の郡司家に寄宿。
1885明治18年、露伴、北海道後志国(しりべしのくに)余市に赴任。
―――〔音楽取調所から三人の女性卒業生〕西洋音楽の夜明け、幸田姉妹の名声。(18.2.7東京横浜毎日)
延15歳。助手に任命される。卒業演奏会でピアノ独奏。
12月、太政官廃止。父が*非職となり、神田の借家に転居して小さな紙屋を開く。
非職:官吏の地位をそのままで3年を一期とし現給の1/3支給。満期免官。
―――(成行が店番していると)・・・・・後年の大声楽家・三浦環女史が・・・・・自転車で御成街道を疾駆し、上野の音楽学校へ通ふ和服姿をよく見掛けた・・・・・(『凡人の半生』)。
1887明治20年、露伴、電信局を辞め家に戻り、仏書・聖書・西鶴を読む。
1888明治21年、成友、第一高等学校入学。
この頃、露伴、雑誌『都の花』に「風流物」「対髑髏」「一口剣」発表。
2月、大日本帝国憲法発布。
5月、延、第一回文部省音楽留学生。ボストンのニューイングランド音楽院に入学。
1890明治23年、露伴、「国会新聞社」入社。高橋太華と関西・四国・九州を旅行。
―――「国会」は彼を優遇し、作品文章を紙上に掲げさせるだけで、記者の仕事を課さなかったので、この間に作家として大成出来たのである。「いさなとり」「五重塔」・・・・・この新聞にでたものであった。この「国会」時代が作家としての露伴の全盛期であろう。・・・・・(柳田泉『幸田露伴全集』)。
1891明治24年、露伴、谷中天王に家を購入。
12月、露伴、森鷗外らと三崎に旅行。
「五重塔」は、谷中に住む露伴が出入の都度必ず目にした感応寺の五重塔。
留学中の延はウィーン音楽院入学、バイオリン・ピアノ・和声楽など学ぶ。
1893明治26年3月、郡司大尉。北方警備と開拓を企図し報効義会を設立。
予備兵50名余を率いて千島占守、シュムシュム島移住を計画したが第一回は失敗。
1894明治27年、日清戦争。
―――郡司大尉は日清戦争従軍後、再びシュムシュム島に渡ったが、島で生活を続け開拓を行った人々の辛苦こそ思うべきだろう。出発に際しての大騒ぎと裏腹に、その後の郡司大尉に対する世間の目は厳しかったようだ。・・・・・(『明治日本発掘5』)。
1895明治28年、延、帰国。東京音楽学校教授。バイオリン・ピアノほか教える。
この年、樋口一葉『たけくらべ』
1896明治29年、成友、東京帝国大学史学科卒業。
7月、幸は東京音楽学校本科を首席で卒業。
郡司、再度千島に上陸し農業開拓、漁業開発に従事。
1898明治31年、東大で哲学を講義するラファエル・ケーベル博士が嘱託講師として東京音楽学校でピアノを教え、延も師事する。
10月、上野の奏楽堂で秋の演奏会。延は自分のバイオリン独奏のピアノ伴奏者に東京音楽学校の生徒、滝廉太郎を抜擢。滝は幸らとテニスを楽しむ仲だった。
1899明治32年、幸、音楽留学生に選ばれ、ベルリン高等音楽学校に入学。
―――バイオリンの名手・幸田幸子、音楽研究のため洋行することとなり、長兄郡司(成忠)大尉の許に、向島の令兄露伴子を始め姉上延子嬢等、一本幹に咲き揃いし菊も牡丹も芳を一堂に争いて留別の席を開きたるが、・・・・・大尉卒然幸子を顧みて、「お前もいい加減にバイオリンを捨てて、軍曹でも憲兵でも良いから人の妻になってはどうだい」と戯れしに、幸子はホホと笑いて、「お嫁にいって何が面白いのです」といえば、大尉は、「お嫁にいくのと遊びにいくのと間違えては困るよ。面白い面白くないを詮議するはずのものではない」と語りて呵々と笑いたりとなん。楽しき家には楽しき兄妹の問答もありけり。・・・・(32.7.3読売)。
『露伴全集』の集合写真はこの時のものか。末弟・修造、次兄・郡司成忠、長兄・成常、父・成延、露伴、次弟・成友、妹・延、妹・幸ほか写っている。
1901明治34年、滝廉太郎、音学留学生に選ばれドイツ、ライプツィヒ音楽院入学。
1903明治36年2月、幸、帰国。東京音楽学校教授。延、技術監に任命される。
11月、露伴、東京帝国大学で「我国文学の滑稽の一面」を講演。
1904明治37年、日露戦争。
郡司はカムチャッカで戦い、ロシアの捕虜となる。戦後、帰国して義勇隊を組織、海事・国防思想の普及に尽力。
1905明治38年、幸、英文学者の安藤勝一郞と結婚。
末弟の修造、25歳で急逝。
1906明治39年、露伴、『天うつ浪』『潮待ち草』『不蔵庵物語』ほか刊行。
露伴、国書刊行会「新群書類従」の編纂に従事。
1908明治41年、露伴、京都文化大学講師を嘱託される。翌年、京都に住む。
この年、延の弟子・三浦環の離婚事件が世間を騒がせ、延にも批判の目が向けられ休職。延はヨーロッパへ赴き、ロンドン日英博覧会で山葉寅楠のピアノ、鈴木政吉のバイオリンに目をとめる。翌年8月末、帰国。
けやきのブログⅡ<2020.5.2書籍・ピアノ・『玉淵叢話』三木佐助(京都・大阪)>
1911明治44年、延、紀尾井町(千代田区)の*李王邸の隣家を購入、ピアノ教室を開く。
李王家は1910*日韓併合に際し、李朝第二十七代純宗を王として設立された朝鮮の王家。日本の皇族に準じる扱いを受けていた。
露伴は延のおけいこ会に「審声会」の名を贈り妹の新たな門出を祝った。
「審声会」初期の生徒は三菱の岩崎弥太郎の孫や実業家の娘など入門、男子生徒もいた。
日韓併合:第二次大戦後の1945.9.9に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印し併合を解消するまで35年間続いた。
1914大正3年、世界第一次大戦。郡司は特殊任務をおびてシベリアで活動。
1918大正7年10月、延、敷地内に音楽堂「洋洋楽堂」を建て室内楽演奏会を開いた。
1920大正9年、郡司成忠大尉、帰国。
1922大正11年3月、露伴、将棋四段の免許を十三世名人関根金次郎より受ける。
6月、国史講習会の文化叢書第十編として『囲碁・将棋』刊行。
1923大正12年9月1日、関東大震災発生。
1924大正13年、郡司成忠、死去。享年65。
―――仲兄は兵学校を卒業すると、少尉候補生として筑波艦に乗り組み遠洋航海に出た。・・・・・帰朝後、これはサンフランシスコで覚えた歌だといつて、我等に聞かせてくれた。英語で全く分からなかったが、その中の一つは・・・・・小学校で習った「蛍の光」であつたと、音楽専門の姉がいふから間違いはあるまい。
兄は音楽好きで殊に笛を能く吹いた。一室の壁に支那風の楽器が一杯下つてゐた。その中提琴は兄の手製で、筆立の底に薄い桐の板を張り、中央に彩色入で柘榴の果と葉を模様風に描き、周囲を金粉で埋めたものを胴とした。・・・・・(中略)
・・・・・報効義会の帆船はいづれも百噸内外のスクーナー型であつたが、その建造に兄は精神を打ち込んだ。白瀬氏が開南丸と改称して南極探検に使用した船は、大隈重信伯の懇請黙しがたく、不便を忍んで一時貸与した義会の持船であった・・・・・(中略)
・・・・・報効義会の成績は、生前多大の援助を賜はつた公私上下の意に満たざるものがあつたろう。然し兄が歿したとき、妻子に分与すべき何物をも残さなかった・・・・・(『凡人の半生』)。
1928昭和3年~1930昭和5年、幸田成友、文部省在外研究生としてヨーロッパ留学、東京商大教授となる。のち、慶応大学教授。
―――『大阪市史』全5巻6冊の編集主任として、その後の市町村の範といわれるほどの作品にしあげ・・・・・原史料を収集・整理し、そこからみえる世界をていねいに説きあかしてゆく手法はみごとである・・・・・『江戸と大坂』も江戸と大坂の社会経済史的な問題を具体的に論じ・・・・・(『民間学事典』)。
1937昭和12年、延は洋楽関係者として女性としてはじめて帝国芸術会員に推され、兄・露伴も帝国芸術院に選ばれ、幸田家にとって名誉な年になった。
4月、露伴、第一回文化勲章。
1941昭和16年12月8日、太平洋戦争はじまる。
1944昭和19年、延、ピアノ教室閉鎖。
1945昭和20年、広島・長崎に原爆落ち日本無条件降伏。
1946昭和21年6月14日、延、心臓病の悪化により死去。享年76。
―――延は遺言のように、こんなことを言った。「バッハの《平均律クラブィーア曲集》の第八番のプレリュードはわたしの大好きな曲です。わたしが死んだら、お経のかわりに、この曲を弾いてくださいね」・・・・・(中略)
・・・・・日本に西洋クラシック音楽が導入された最初期に縁あってこれを学び始め、最初の文部省音楽留学生に選ばれて日本中の期待を一身に背負って六年間も欧米に学び、帰国後は、東京音楽学校のトップスター教授であった三十九歳までの前半生から一転、官立の威光とは無関係な民間のピアノ塾主宰者となり、「音楽はまず家庭から」の強い信念のもと、一般家庭の子女に・・・・・ピアノがかたわらにある人生のよろこびを教えた後半生であった。・・・・・(『幸田延』)。
1947昭和22年7月30日、露伴死去。享年81。
内閣総理大臣以下、葬儀に列す。
―――露伴全集は合わせて四十巻あり、その中小説は五、六巻にすぎない。あとは思想、史伝、論文、考証、研究その他であって、この方が小説の幾倍もあり、そうしてそれが何れも文学の種々な面につながっている。・・・・・生涯をかけてもっとひろく深い意味での文学の道を探った人だということ、文学を手がかりとして大きな宇宙にひそむ生の神秘に触れようとした・・・・・文学は、かれにとっては単に空想の産物ではなかった・・・・・(柳田泉『幸田露伴全集』)。
参考: 『凡人の半生』幸田成友1948共立書房 / 『幸田延』萩谷由喜子2023ヤマハミュージックエンターテインメントホールディングスミュージックメディア部 / 日本現代文学全集6『幸田露伴集』解説・柳田泉1963講談社 / 『明治日本発掘5』1995河出書房新社 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『民間学事典』1997三省堂
| 固定リンク
コメント