明治日本を西洋に紹介、ウイリアム・グリフィスと姉マーガレット・グリフィス
読書の秋というには寒暖差ありすぎ落ち着かない。それでも秋は秋、本は嬉しい。
<けやきのブログⅡ2018.7.14熊本の兄弟、徳富蘇峰・徳冨蘆花(熊本県)>
―――人に、徳富兄弟の兄・蘇峰のとみは富、弟・蘆花のとみは冨と指摘され、蘆花の『不如帰』を読んでた中三の放課後を思い出した。教室が暗くなり、窓から身を乗り出して読んでいたら「早く帰れ!」先生に叱られた。夕暮れの校庭、先生の声も覚えている。「本さえ読めればいい」は今も変わらない。
そんなある日、中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』と出会い、柴五郎に沼落ち! それから幕末・明治に興味、大学に入って卒論「柴五郎とその時代」を纏めた。そして『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』出版、<けやきのブログⅡ>を始め、記事数830余り。
さて、のちの陸軍大将・柴五郎は1859安政6年生まれ。この年「安政の大獄」で橋本左内・吉田松陰らが処刑された。日米和親条約、下田・函館開港から5年後のことである。
そして、江戸幕府は露・蘭・英・仏とも条約を結び鎖国はやぶれ、外国人が次々やって来た。その一人グリフィスは福井藩に招かれ科学教師になる。
後年、景岳会(橋本左内顕彰会)の協力を得て和文と英文の左内略伝が作られ・・・・・複数の関係者の手を経て、グリフィスのもとに送り届けられ・・・・・ラトガース大学へ([グリフィス・コレクションの「橋本左内略伝」をめぐって](髙木不二2016福井県)。
W・E・グリフィス著『明治日本体験記』原題「皇国」(山下英一訳1984平凡社)序文
―――かつて東洋のはてにあった日本が、今、アメリカに一番近い西方の隣人に・・・・・アジアの国々の中で最初に近代生活に入り、世界の先進国の一つにその位置を占める国が生まれる輝きをアメリカは歓呼して迎える。日本を東洋の謎、すなわち隠遁者の国、冨の豊かな国、・・・・・誇張の免許(ライセンス)をとりけし、日常の光に照らして、偏見なしに好意をもって、大日本の現在と過去を探知する時がやって来た。・・・・・この国の人たちとの八年間の生き生きとした接触を通し・・・・・日本人の思想、感情を発見するよう努めてきた・・・・・。
『Phila-Nipponica;フィラデルフィアと日本を結ぶ歴史的絆』
フィラデルフィア日米協会
1.Diplomatic Beginnings 外交と交流の始まり
2.Philadelphia Expo and Museum 万国博覧会&商業博物館
3.Exchanges in Arts and Literature 芸術と文学の交流
4.Japanese in Philadelphia フィラデルフィアに来た日本人
5.Philadelphians in Japan 日本に来たアメリカ人
5.2――日本の紹介者:グリフィス兄弟(ファーナンダ・H・ペロン、戸田徹子訳)
6.Benjamin Franklin's Descendents and Japan フランクリンの子孫たちと日本
7.Educational Exchanges 教育機関の交流
8.Modern Philadelphia 現代のフィラデルフィア
グリフィス姉弟 略年譜
1838天保9年、7人兄弟姉妹の長女、マーガレット・クアンドル・クラーク・グリフィス生まれる。
家はフィラデルフィアの裕福な石炭商であった。
1843天保14年9月17日、ウィリアム・エリオット・グリフィス生まれる。
1857安政4年、父の石炭事業が不況で痛手を負い、一家は借家住まいとなる。
(ウイリアムはグリフィスまたは事項のみ表記、マーガレットは姉と表示)
1859安政6年、グリフィス、セントラル高校卒業後、宝石店で徒弟として働く。
マーガレットは女学校をやめ、テネシーで家庭教師となる。
1860万延元年1月、日本使節団、勝海舟の咸臨丸でアメリカに向かう。その折りファイラデルフィアを訪問し、17歳のリフィス見学。
1863文久3年、オランダ改革派第二教会に通い始める。
1865慶応元年、ラトガーズ大学入学。成績優秀で科学も履修。
1869明治2年、大学卒業後、ニュー・ブランズウィック神学校で学ぶ。
1870明治3年、グリフィス、越前福井藩、明新館で科学・物理を教える。
―――ウイリアム・グリフィスは改革派宣教師のギドー・フルベッキ(バーベック)を通して、越前(福井県)の藩校から科学と物理を教えて欲しいとの招聘があった。住宅と馬、そして高額な給料が提示されており、・・・・・ウイリアムは、福井に西洋の科学教育を導入する役割を果たしながら廃藩置県を目撃した・・・・・しかしながら、1年もしないうちに東京に転居し、東京大学の前身校の一つである開成学校の教師となった。・・・・・(『Phila-Nipponica;フィラデルフィアと日本を結ぶ歴史的絆』)。
―――福井では藩主・松平慶永が藩校「明道館」(福井城本丸跡)を「明新館」と改め、外国人教師も雇い、庶民に至るまで入学を許し新知識の摂取に勉めさせた。入学した吐酔はW・E・グリフィスに理科学を学んだ。・・・・・ 覚えも速いし、よく勉強する。化学の目立って大事な実験があった時は、大講義室は学生ばかりか役人も来ていっぱいになる・・・・・ 聞き手の多くは昔から論争の的になっている時間と永遠の問題によく通じていた・・・・・ 通訳はだいたいにおいて私の補佐をすることができる(『明治日本体験記』)。
―――グリフィスは、成績優秀な吐酔をたいへん可愛がるが、吐酔はお寺の子でクリスチャンのグリフィスの生徒になるについては周囲の抵抗があった。そこで、グリフィスは家族を熱心に説得、費用は自分持ちで他の5人と一緒に*自分の住居に下宿させた。吐酔は、グリフィスの家で聖書を読み、フランス語を習った。
グリフィスの住居:大名小路の一隅に建てられたコロニアルスタイルの洋風住宅。隣にはイギリス人医師宅も建てられた。ただし明治6年焼失。隣の医師宅はのち移築され、福井初の洋食屋「風琴亭」となった。・・・・・(けやきのブログⅡ<2020.11.14グリフィスの生徒で友人・京都尋常中学校長、今立吐酔(福井県)>)。
1871明治4年、廃藩置県。
旧藩主の藩知事は家禄と家族の身分を保障されて東京へ移住。
福井城で福井藩知事・松平茂昭の訣別式が行われ、グリフィスはその情景を次のように記す。
―――10月1日。前越前藩主、福井藩の封建領主、そして明日からは一介の貴人になる松平茂昭が、大広間へと広い長い廊下を進んできた・・・・・ 紫の繻子の袴に・・・・・濃い青みがかった灰色の絹縮緬の上着で、袖に刺繍がしてあり、背中と胸に徳川の紋のついたものを着・・・・・筆頭の家臣によって、藩主の挨拶が代読され・・・・・藩主は家来に厳粛な別れを告げた。
1872明治5年、グリフィスは大学南校(東京大学前身)の教授に就任、福井を去る。
―――1月29日、グリフィス、東海道浜松付近のこととして、「快速の飛脚もふんどししかつけていない丸裸である。その肩から手紙の束を棒につけてつるしてある」・・・・・(『郵政資料館研究紀要』「欧米人のみた幕末・明治初期の日本の郵便」杉山伸也2021郵政博物館)。
8月、姉マーガレット、グリフィスの招きで来日。
1973明治6年2月、第一大学区東京女学校(竹の橋女学校)の英語教師となる。
3月28日、日本アジア協会で「子どもの遊戯と競技」発表。
―――日本のおもちゃ屋には日本人の生活の縮図がある。・・・・・日本の子供の目に楽しく映るものを豪華に並べているのは、有名な寺の中庭や参道である。・・・・・旅回りの見世物師が、魅力満点のおもちゃや見世物を用意・・・・・浅草か神田明神か東京に多い稲荷神社、大きな祭りの日に出かけて見てくるといい。・・・・・(『明治日本体験記』)。 夏休みを利用し姉弟で京都・福井・金沢・中山道を旅行。
8月、今立吐酔、グリフィスを追って上京、グリフィスの家に寄寓
1874明治7年7月、グリフィスは雇用契約をめぐって文部省と対立。健康を害した姉と共に帰国。吐酔もグリフィスに同伴してアメリカへ。
グリフィス、ニューヨークで著述と講演に専念。歴史などの日本関係論文多数。
1875明治8年3月、吐酔、ペンシルベニア大学入学。
グリフィスの『皇国』(The Mikado's Empire)執筆に協力、貢献。
1876明治9年、『皇国』(邦訳『明治日本体験記』)を出版。次は序文から、
―――読者である助言者である各氏から受けた援助に心から感謝したい。私も会員に加えられた明六社の会員に衷心より敬意を表する・・・・・ 今、ニューヨークにいて、親切にも校正を手伝ってくれた昔の学生に、そして最初から最後まで過去六年間友人であり、いつもそばにいてくれた今立吐酔氏に、感謝と恩義の気持ちを贈りたい。
―――多作な著者だが、なんといっても『皇国』こそグリフィスの生涯の金字塔であろう。・・・・・その後のすべての日本関係書のテーマを抱含しているといってよい。日本の昔話、宗教、またはヘボンなどの宣教師の伝記などの著書の萌芽はすでに『皇国』のなかにあった。だから多作といってもテーマを深く掘り下げていく精神のあることを忘れてはならない。・・・・・(『明治日本体験記』解説・山下英一)。
グリフィス、ユニオン神学校で学んだ後、3つの教会で牧師を務める。
姉マーガレット、フィラデルフィアの女学校(のちファイラでルフィア女子セミナリ)の教師となり22年間教える。
1879明治12年、グリフィス結婚。3人の子をもうける。
1887 明治20年、日本語書名『マシュー・カルブレイス・ペリー』グリフィス著
グリフィスが約30年を経て初めて書いたアメリカ初のペリー伝記・・・・・(おく まさよし(司書・図書館事務長兼管理運営課長)。「Gaidai bibliotheca : 図書館報 (161)」京都外国語大学付属図書館館報編集委員会2003京都外国語大学)。
1913大正2年、姉マーガレット・グリフィス死去。享年75。
1927昭和2年、今立吐酔は兵庫県に住んでいたが、グリフィス(85歳)が福井に再来日すると、非常に喜んで片時も離れることなく世話をし、橋本左内の墓参りもした。
1928昭和3年、グリフィス死去。享年85。
姉たちの眠るスケネクタディ市のヴェール墓地に葬られる。
―――歴史家として、日本の思想と文化における天皇の重要性に、早い時点で気づいたことで知られている。日本人留学生とその関係者、そして宣教師やお雇い外国人を含む日本を相手にして働くようになった西洋人たちのどちらとも、ウイリアムは素晴らしいネットワークを築き上げていた。(『Phila-Nipponica;フィラデルフィアと日本を結ぶ歴史的絆』)。
参考: 『Phila-Nipponica;フィラデルフィアと日本を結ぶ歴史的絆』2016フィラデルフィア日米協会 / 『明治日本体験記』グリフィス著山下英一訳1984平凡社 / 国会図書館デジタルコレクション
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