ヨーロッパ文学・評論家・翻訳家・詩人・小説家、上田敏
詩は素敵。しかしながらその方面に疎い。上田敏訳詩集『海潮音』を手にしたこともなかった。たまたま、<けやきのブログⅡ2024.10.14田口卯吉>「乙骨太郎乙の甥・上田敏が一高に入学、書生として預かる」の一行、上田敏・乙骨太郎乙が気になった。
そこで図書館で『海潮音』を開くと、なんとまあ。文学少女だった大昔、愛唱した詩が目に入った。出典など考えず書き写し、愛唱していた。
引用の詩。人名・詞・原著にある説明「訳者」(上田敏)はそのまま。
落 葉
ポオル・ヴェルレエヌ
秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。
鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや
げにわれは うらぶれて こヽかしこ さだめなく とび散らふ 落ち葉かな。
―――フランスの詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具(そな)へ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。 訳者
故 国
テオドル・オオバネル
小鳥でさえも巣は恋し、 まして青空、わが国よ、
うまれの里の*波羅韋増雲(パライソウ)。
―――「故国」の訳に波羅韋増雲(パライソウ)とあるは、文禄慶長年間、葡萄牙(ポルトガル)語より転じて一時、わが日本語化したる基督教法に所謂(いはゆる)天国の意なり。 訳者
上田 敏
1874明治7年10月30日、東京築地二丁目14番地、田口家の長男に生まれる。
祖父・上田東作は文久元年、外国奉行配定役として、修好使節の一行に加わり、福地源一郎・箕作秋坪、福澤諭吉などと渡欧。
父・乙骨絅二(けいじ)は幕末の儒者・乙骨耐軒の第二子、英学塾を開いた乙骨太郎乙の桂川絅二は徳川昭武のパリ万博行きに従って渡欧、のち敏の母、孝子の婿となり田口家に入る。
上田(桂川)悌子:明治4年の岩倉遣外使節団とともに渡欧した留学生59人うち女子留学生5人。津田梅子・山川捨松・上田敏の姪・悌子の姿もあった。この間の消息は自伝小説「うづまき」に詳しい。
1881明治14年、一家で静岡に移る。翌、明治15年、静岡尋常中学校に入学。
―――きいたところによれば、上田先生は中学の頃あまりによく出来たため他の生徒と歩調が取れず、一年から三年へ進級させたところ、そこでも又、一番になった・・・・・先生は英語以外、フランス語、独逸語、伊太利語、拉丁(ラテン)語、ギリシャ語に通じ・・・・・稀に見る語学の天才であった・・・・・いつかもシェークスピアの劇の話になって・・・・・先生はかれこれ一頁にわたる長い一節をすっかり暗誦されていたのには驚いた・・・・・(中略)・・・・・原詩のもっている気分をよく捉えて原詩に劣らないと思わせる幾多の訳詩がある。・・・・・(『明治文学全集 月報15』田部重治)。
1887明治20年、父が大蔵省に転任となり上京。私立東京英語学校に入学。
1888明治21年、14歳。父・絅二死去。享年43。
伯父・乙骨太郎乙の邸内に移る。
1889明治22年9月、第一高等学校(東大京学部の前身)入学。乙骨太郎乙の弟子・田口卯吉方に寄寓。
「乙骨太郎乙の甥・上田敏が一高に入学、書生として預かる」<けやきのブログⅡ2024.10.14田口卯吉>
1890明治23年、同級生間の雑誌『無名会雑誌』に「アヂソン」発表。
この頃、英訳でユゴオ、ゾラなど読む。
1893明治26年、『校友会雑誌』に「文豪テーン逝く」を発表、衆目をおどろかす。
1894明治27年、日清戦争。
平田禿木を介し、『文学界』に「夏山遊」を寄稿。文学界同人との交渉始まる。
9月、東京帝国大学文科英吉利文学科入学。
1896明治29年3月、『帝国文学』にわが国初のポオル・ヴェルレエヌを紹介。
1897明治30年、東京帝国大学卒業。
9月、大学院に入り、神田乃武・ケエベル博士・小泉八雲の指導を受ける。同時に、東京高等師範学校英語科講師職任。
―――ラフカディオ・ハーン、当時大学院学生だった敏の研究報告「ウィリアム・コリンズ」の読後感を述べた中に、「君は他の学生よりも博識であり、且つ英語をよく知つて居り、英語で完全に思考し表現し得る人となり得べき一万人中の唯一人の日本人学生なるが故に、敢へて一層厳格に批評する」・・・・・弟子を見る事師に如かず、先生はよくその恩師の期待に背かれなかった。・・・・・(「上田敏先生」矢野峰人)。
1898明治31年、「フランス詩壇の新声」(『帝国文学』)を執筆、わが国にはじめてフランス高等派、象徴派の詩人を紹介。
1899明治32年、25歳。東京高等師範学校教授。斎藤悦子と結婚。
1900明治33年、与謝野寛と知り、雑誌『明星』に評論・訳詩など発表。
1901明治34年、『最近海外文学』『みをつくし』『文芸論集』『詩聖ダンテ』出版。
10月、『明星』に『みだれ髪』を読むを掲載。当時ごうごうたる非難と称賛の間に発表された与謝野晶子の歌集を批評、秀れた鑑識眼を示した。
1902明治35年2月、『芸苑』発刊したが創刊号のみで、次ぎフランス象徴派の訳詩をはじめる。
『明星』に日本ではじめての象徴詩、ヴェルハーレン「鷺の歌」を訳載。
1903明治36年、小泉八雲辞任の後、夏目漱石らと東京帝国大学講師となる。
―――先生の訳詩をよんで感ずることは、氏は決して単なる訳者ではない・・・・・原詩のもっている気分をよく捉えて原詩に劣らないと思わせる幾多の訳詩がある。・・・・・(「明治文学全集・月報15」上田敏の思い出・田部重治)
1904明治37年、日露戦争。
フランス象徴派の訳詩をはじめる。
『明星』に日本ではじめての象徴詩、ヴェルハーレン「鷺の歌」を訳載。
1905明治38年、訳詩集『海潮音』本郷書院から出版。
上田敏の代表作で近代訳詩史上もっとも重要な詞華集。イタリー・イギリス・ドイツ・プロバアンス・フランスの詩人29人の詩57編の訳が収まる代表作。
―――遙に満洲なる森鷗外氏に此の書を献ず―――
日露戦役に出征していた鷗外はこれに、「さっそく通読いたし候。穏当なる御評論を挿なれたるは殊更よろこばしく候・・・・・」と敏に書翰をおくった。
1907明治40年、『読売新聞』新年号に創作詩「牧羊神」発表。
1月~3月、芸苑社の講演会で「希臘古劇論」「中世文学」などを講演。
11月、私費で欧米を外遊。与謝野寛の肝煎りで送別会が上野精養軒で開かれ、森鷗外・島崎藤村・夏目漱石・馬場孤蝶など5、60名が来会。
1908明治41年10月、帰国。 11月、京都大学文科大学講師。
1909明治42年、京都帝国大学教授、西洋文学第二講座担任となる
。
1910明治43年、『国民新聞』元旦号から46回にわたり小説『うづまき』を連載。
荷風の「冷笑」(東京朝日新聞)と並んで嘆美は小説の代表作と見なされた。
6月、文学博士。年年 この年、鷗外とともに慶応大学文科顧問となり、永井荷風を教授に推薦。
1911明治44年5月、文芸調査委員会委員。ダンテ『神曲』の翻訳を委嘱される。
1912明治45年/大正元年~大正2年、5月、文芸委員会委員。
『三田文学』、『朱欒』(しゅらん・ザボン)などに訳詩を発表。
1913大正2年、論文集『思想問題』(近代文芸社)出版。
1914大正3年、40歳。『太陽』新年号より『独語と対話』を掲載。
1915大正4年、『独語と対話』を出版。
西欧の自由詩を論じ、人生派を紹介し、ロマン・ロランの『ジアン・クリストフ』、ジイドの『窄き門』(せまきもん)等の新文学を紹介。
1916大正5年3月、萎縮腎と診断され帰京。
7月8日、森鷗外訪問のため外出しようとしたが突然、尿毒症を発症。
7月9日、死去。享年42。
谷中五重塔下の墓所に葬られる。
山のあなた
カアル・ブッセ
山のあなたの空遠く 「幸(さいわひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとヽ尋(と)めゆきて、 涙さしぐみ、かえりきぬ。
山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。
参考: 明治文学全集『上田敏集』(解題・矢野峰人)1966筑摩書房 / 『海潮音』(上田敏訳詩集)2011新潮文庫 / 『現代文学大系25』1985筑摩書房 / 『現代日本文学全集15』1967筑摩書房 / 『上田敏全訳詩集』山内義雄・矢野峰人編1983岩波書店/ 『上田敏・寺田寅彦・木下杢太郎集』1980講談社
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