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2024年10月14日 (月)

明治の経済学者・文明史家、田口卯吉(鼎軒)

 秋10月。未だ暑い日があるらしく四季が暦通りに移ろわない。
 気候の変化は暮らしに影響、野菜・果物・米など諸物価が値上がりし「経済」が気になる。そこで飛躍しすぎだが明治の経済学者・歴史家、田口卯吉を見てみたい。
 田口を知ったのは『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』の資料集めさ中、その節は田口が柴四朗に批判的で興味がなかった。ところが、『工手学校』を読んで興味をもった。
 年譜は主に歴史学会編集『田口卯吉』を参考にさせてもらった。

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     田口 卯吉     (たぐち うきち)    

 1855安政2年4月29日、幕臣の子。卯年・卯月生まれで卯吉を通称とする。
 1866慶応元年、11歳。昌平坂学問所で素読吟味を受ける。元服にあたり名を鉉、号を鼎軒とする。
   徒士組がなくなり銃隊に入って、ゲベール銃の操作をならう。

   姉*鐙子18歳、木村熊二と結婚。
   木村鐙子:熊二の影響でキリスト教を信仰。下谷区に塾を開いて教育・伝道にあたり、明治女学校が設立されると取締となり、生徒と寝食をともにする。また、弟・卯吉の出版事業を援助した。

 1868明治元年、木村の勧めで横浜に移住。アメリカ人宣教師タムソンに英語を習う。
 1869明治2年、*静岡藩の沼津に赴き乙骨太郎の家に寄宿、沼津小学校・沼津兵学校で学ぶ。
   静岡藩:駿河安部郡におかれた藩、徳川氏宗家70万石。

 1872明治5年、尺(せき)振八の共立学舎に入学。
   大蔵省翻訳局上等生徒に採用される。
 1874明治7年、紙幣寮(明治初期の紙幣製造事務官庁)に出仕。
 1875明治8年、「*讒謗律ノ疑ヒ」を『横浜毎日新聞』に投書。
   讒謗律:ざんぼうりつ。事実の有無にかかわらず他者を誹謗する者を罰する、言論弾圧法規。

 1876明治9年、山岡義方の長女・千代と結婚。
   ―――家庭における様子を瀧台水は、「先生の家庭は一家団欒、杯を上げ箸を執る間に先生の談論縦横、諧謔百出し・・・・・午餐終るや先生安楽椅子に横臥して、最も卑近なる俗談を試むるを例とせり、南洋渡航中の奇談もあり、青年当時の失恋談もあり、・・・・・旧幕時代の追憶談も出づる也、而して其態度や鷹揚にして洒脱、小児も喜んで近づくべく、その言語や愛嬌ありて軽暢、婦女子も以て親しむべし・・・・・(『田口卯吉』)。

 1877明治10年、『日本開化小史』出版開始(~1882明治15年完結)。
 1878明治11年、『自由交易日本経済論』出版。
   大蔵省辞職。
   ―――政府の経済政策に反対の気勢を掲げた。これには陸奥宗光が蔭ながら力瘤をいれたとういふから物騒なことです。果たして官の圧迫が厳しい。だが寧ろ望むところ、潔く大蔵省を辞して浪人となり、専ら著述と翻訳とに従いました。・・・・・(『田口卯吉の日本開化小史(ラジオ新書;46)』)。

 1879明治12年、『東京経済雑誌』創刊。
   自由主義の経済の立場から犬養毅主宰『東海経済新報』の保護貿易論や政府の経済政策を批判。両誌は保護・自由のライバルとして真っ向から論戦をかわす。
   当時の日本経済は政府支出は増えるばかりなのに、西南戦争後インフレーションが激化し物価高騰、輸入増大などで国庫収入は減り、国際収支は危機におそわれるという状況であった。この状況に、田口は「すべての国は関税をかけず自由に輸出入をさせるべきで、国民の膏血をもって少数の貿易商を保護するのは、不正であり愚だ」と主張、政府から莫大の助成金を得ている三菱会社を猛烈に攻撃した。
   
 1880明治13年12月、牛込区選出の府会議員。
 1881明治14年、私設鉄道付設について蒸気鉄道時期尚早論を展開、その経営に政府の保護を非とし日本鉄道会社を批判。
 1882明治15年、自由党創刊の『自由新聞』客員として参加。
 1883明治16年、東京株式取引所肝煎に就任。
 1884明治17年、『大日本人名辞書』編纂に着手(~1886明治19年刊行)。
 1885明治18年、妻・千代死去。のち、千代の妹と再婚。
   姉の鐙子・木村熊二夫妻、岩本善治ら、ミッション経営でなく日本人によるキリスト教主義の明治女学校創立。

 1887明治20年3月、両毛鉄道会社社長に選出される。
   10月、後藤象二郎、東京で大同団結運動を提唱。
       メンバーは中島信行・星亨・犬養毅・豊川良平・田口卯吉・柴四朗・田中正造など総勢70人余。
 1888明治21年、『日本社会字彙』(~1890明治23年、2巻。完成)
   2月、勤労者の夜学、工手学校開校(土木・機械・電工・造家・造船・採鉱・冶金・製造舎密)。
     開校式に文部次官・辻新次、海軍中将・赤松則良、学習院院長・大鳥圭介、実業家・浅野総一郎ら出席。田口も祝辞。
   ―――「開化には、有形の開化と無形の開化がある・・・・・今日必要なのは知識を摂取する無形の開化ではなく、有形の開化、即ち道路、橋梁、水道、港湾などの都市のインフラを整備することにある」と強調して工手学校の社会的使命の重要さを説いたり・・・・・下からの開化漸進主義を唱えている。森鷗外は、この官学圏外にいた経済学者田口卯吉を評し東西の文化を左右の足で踏まえている学者」と見立てて、敬意を払っていた・・・・・(『工手学校』)。

 1888明治21年9月、小田原電鉄取締役。
   10月、内務省東京市区改正委員会、民間側委員の一人となる。
 1889明治22年、乙骨太郎乙の甥・上田敏(のちの詩人・評論家)、一高に入学、書生として預かる。
 1891明治24年、『史海』創刊。
 1892明治25年、『史学雑誌』の久米邦武の論文「神道は祭天の古俗」を『史海』に転載して神道家らの攻撃を浴びる。
   この年、すべての名誉職を辞任。
 1893明治26年、*殖民協会に評議員として参加。
   大蔵書省貨幣制度調査委員。
   殖民協会:前外相・榎本武揚の主唱により設立。植民事業の奨励勧誘が目的。会員400名。
 
 1894明治27年8月、日清戦争。
   9月、衆議院議員に当選。以後、死去まで連続当選。   
 1895明治28年、旧幕臣の集まりで「同方会」結成、賛助員となる。
   10月、史学会において「歴史は科学に非ず」を講演。
 1896明治29年、『国史大系』編纂刊行。
   1月、遼東半島還付・閔妃事件に対する伊藤内閣弾劾上奏案を提出。
   2月、進歩党結成に参加するも10月、田口は党の財政方針に反対して離党。
   秋。渡良瀬川沿岸をまたも大洪水が襲う。
    地元民は水害と鉱毒による被害に見舞われ、衆議院議員・田中正造はその惨状に驚き、政府に足尾銅山鉱毒の質問をし厳正な処置と責任を問い続けた。しかし、政府は北清戦役(義和団事変)のため、ならびに財政を強固にするため、増税案を可決して第十五議会は閉会。そうしたなか、田口卯吉らの発起によって鉱毒調査有志会が結成される。

 1898明治31年、『地租増徴論』・『地租増否論』(*谷干城と共述)出版。
   谷干城:土佐出身の軍人・貴族院議員。国粋主義の立場から政府を批判。
   12月、衆議院で地租増徴賛成演説を行う。
   
 1899明治32年3月、45歳。法学博士の学位を授けられる。
 1902明治35年8月、第十七議会。
   海軍拡張の財源としてだされた地租増徴案が出され大いに反対されたが、政府もまた一歩も譲らない。論戦の最後に田口卯吉が政府案賛成をのべ、採決に入ろうとしたその瞬間、議会は五日間の停会を命ぜられた。

 1903明治36年10月、島田三郎らと東京の新聞社・雑誌社を網羅した時局問題大懇親会を発起。
 1904明治37年2月、歌舞伎座における国民的後援会の大演説会で軍国債募集を主張。
   6月、貴衆両院代表の一員として満洲・韓国の戦場慰問のため、満洲丸で横須賀を出航。
   7月、長崎に帰港。

 1905明治38年4月13日、流行性感冒がもとで萎縮腎の宿痾が悪化、駒込西片町の自宅で死去。享年51。
   ―――博士の一生は、学者として評論家として経済家として、力戦奮闘の半世紀でありました。勤番見習として出仕した慶応二年から数えて独立独歩の三十八年間であつたのです。・・・・・(中略)・・・・・博士の名著には、『支那開化小史』・・・・・そのほか『大英商業史』の訳あり、『泰西政事類典』の翻訳あり・・・・・『時勢論』『自由貿易論』『経済策』 ・・・・・博士の晩年の刊行にかかる、『国史大系』『続徳川実記』『群書類従』などは、後世の学者に資料を豊富に提供してくれました。今なほ恩恵を蒙ってゐる学者たちが、何人あることか、・・・・・博士が如何に非凡な学者であつて、如何に多くの貢献をもたらしたことか、・・・・・(『田口卯吉の日本開化小史』)。

 

   参考: 『工手学校』(旧幕臣たちの技術者教育)茅原健2007中公新書 / 『田口卯吉』田口親2000吉川弘文館 /  『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』(人名索引つき)中井けやき2018文芸社 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『田口卯吉の日本開化小史(ラジオ新書;46)』京口元吉1941日本放送出版協会 / 国立国会図書館デジタルコレクション

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