陸軍経理組織の創設、野田豁通(熊本・青森)
戦争を止めてからやれオリンピック
(中畑流万能川柳 毎日新聞2024.10.3)
新聞は有難い。新聞製作に携わる総ての人、配達者にも感謝している。
ところで、記事が豊富なのはいいが戦争のニュースが絶えないのは恐ろしい。戦地の困難を思うと言葉がない。そんな思いで新聞を広げると
〔今週の本棚・なつかしい一冊〕今尾恵介・選(日本地図センター客員研究員)『軍隊を誘致せよ』(松下孝昭著・吉川弘文館)。
思わず「えッー」となったが、同書を選んだ理由に興味をもった。次はその一部、
―――戦後80年が迫った今、兵士を体験した人も若くて90代後半だ。陸海空軍その他の戦力を否定した日本国憲法も齢(よわい)を重ね、これまで軍に関する研究といえば、戦前の侵略批判の観点から否定的に取り上げられる者が多く、「おらが町の発展のため」に軍施設の誘致合戦が行われた事実を紹介する本書は貴重だ。読み進めるうち当時の市民に共感も覚え、私の戦前への視点は変わった・・・・・(今尾恵介)。
ほかに「防衛費が激増する今日・・・・・地方都市の経済や住民の暮らしといった足下の観点を見直す契機となる一冊ではないだろうか」という点にも同感。
その『軍隊を誘致せよ』に登場する野田豁通が会津人・柴五郎の恩人なのを知っていて懐かしさを覚えた。筆者の明治人好きは、卒論のテーマに柴五郎を選んだ時から始まるからだ。
『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』がらみの人物・事項には興味津々。
ちなみに『城下の人』『曠野の花』の著者、石光真淸は野田豁通の甥。
野田 豁通 (のだ ひろみち)
1844弘化元年12月24日、肥後国熊本藩、石光文平の三男に生まれる。
1858安政5年、熊本藩の奉行所の根取役・野田淳平の養子となる。
1863文久3年、―――諸所に騒動が勃発、藩命を奉じて西京に・・・・・ブッサキ羽織に股引。草鞋キリリと・・・・・手にはケベルの小銃、腰には思い銃丸を帯し・・・・・元治元年、長州征伐・・・・・1866慶応2年、長防征討の際には会計書記・・・・・(野田豁通記)
1868慶応4/明治元年、戊辰戦争。
6月、会計の研究、時勢の内定のため京へ。横井平四郎(小楠)に入門。会計については三岡八郎(由利公正)に学ぶ。
9月、軍務官として秋田・津軽二藩の扶けるため外国船を傭い兵庫を出発。鞆の港で福山の藩兵、敦賀港で大野藩兵を乗せ出港。
奥羽が平定されると函館五稜郭へ。太政官傭となり函館に出張し作戦計画に参す。
五稜郭落城、功あり500両を下賜される。
明治元年10月、軍事参謀試補兼軍事会計総括を命ぜられる。
12月、会津藩降伏。
―――会津藩の健気なる、元より老幼を問はず男女を問はず、相扶け、さらにか弱い婦人迄が薙刀に後鉢巻き、雄々しく陣頭に立つて、奮闘したのである。さればこそ城堅うして抜くべくもあらず、・・・・・予が参加せる戦役中、一番烈しい戦ひで、又一番苦しい戦ひであつた。・・・・・(野田豁通)。
1869明治2年5月、戊辰戦争終わる。
8月、函館戦役凱旋の際、仙台名取川の畔の民家に咲く白萩を見て詠める。
古さとの垣根の萩の咲初めて 父のこヽろをなくさめやせん
1870明治3年、弘前県大参事。
1871明治4年、廃藩置県。弘前・松前・黒石・斗南(会津藩移封の地)・七戸・八戸6県を合併。さらに青森県新設。
4月~11月、青森県大参事・野田豁通。
―――明治初年、胆沢・弘前二県の大参事にして後藤新平の如き 斎藤実の如き初め彼に負ふ處少なからず。士を養ふこと同郷人は素よりのこと、他国人にも及びたれば陸軍に身を置かずとも必ず相当の勢力ありしを疑わず・・・・・常に軍隊本位の観念を以てその職に従ひしが如し。殊に野田は中佐相当官をもって欧州に行きもっとも長く独逸に留まり、帰来陸軍会計上の制度を整理し、良かれ悪かれ今日の基礎を作れり・・・・・(『陸軍の五大閥』)。
―――飢餓の荒野ににも、ついに燭光の昇る朝は来たれり。十二月半ばをすぎたるころ、突如この乞食小屋に光さし入れり。・・・・・藩政府の選抜により、学問修業のため余を青森県庁の給仕として遣わし、大参事野田豁通の世話になるとの報なり。・・・・・野田は義侠無私の人にて、とくに後進を養うこと厚く、かつては敵軍の将なれども、薩長土肥の閥外にあり、東北各藩の子弟救済に奔走すると聞き、千載一遇の好機なり・・・・・(中略)・・・・・野田大参事の屋敷に引き取られ家僕として働き、役所の時間中は出勤して給仕を務めたり・・・・・(『ある明治人の記録』)。
1872明治5年、地租改正調査のため、東北地方巡回の大蔵省役人の一行、青森に滞在。
―――柴五郎は野田に東京留学の志をうちあけ、野田に深く恩誼を謝せば、惜別の情わき流涕す・・・・・野田氏より餞別として三円を与えられ・・・・・(『ある明治人の記録』)。
1873明治6年、陸軍省八等出仕。兵学寮副官。
8月、陸軍会計軍吏。
1877明治10年、西南戦争。第一第二旅団会計部長。
4月、軍団被服陣営課専務担任。7月、軍団糧食課長兼務。
田原坂の戦いで弾丸があたり負傷、数日入院。
1879明治12年、陸軍会計副監督、会計局計算課長。
1881明治15年、会計局次長、9月統計委員。
1886明治19年12月、ドイツ陸軍経理視察のためドイツへ2年間派遣され、ドイツ陸軍省に出入りし実地研修。ベルリンにて陸軍各官各隊の実況を巡視。
『独逸陸軍経理大要』復命者・野田豁通1894陸軍省経理局。
1888明治21年7月、帰国。陸軍一等監督、会計局次長。
1890明治23年、陸海軍連合大演習監督部長。
3月、会計局第一課長兼陸軍省参事官。
11月、帝国議会。予算案政府委員となる。
1891明治24年6月、勅選議員となる。8月、陸軍省経理局長。
1894明治27年8月、清国に宣戦布告。
大本営野戦監督長官として第二軍に。
11月、第二軍に従い、旅順口攻撃の戦闘状況・兵站など調査し大本営帰営。
野田は野戦軍の会計経理事務を統理し野戦軍全般の給養計画を定め、軍もしくは独立師団及び兵站の各監督部に必要の指示を与える。
国会図書館デジタルコレクションに森鷗外の書簡(未見)がある。野田と鷗外の関係が判らなかったが、鷗外が日清戦争・第二軍兵站軍医部長として中国を転戦しているのを思い出した。仕事は違えど同じ第二軍に所属していたのだ。
1895明治28年、参謀本部の配備計画を受け、陸軍省では臨時建築委員を置くことにし、委員長には野田豁通が選ばれた。
8月20日、乃木希典・児玉源太郎らと男爵を授けられる(『国史大年表』)。
1896明治29年、日清戦後、賠償金をもとに軍拡予算が執行できることになった。
―――臨時陸軍建築部官制が公布され・・・・・野田豁通が副部長に就くが、部長代理の肩書きも備えており、実質的には野田がこの組織のトップであった。・・・・・
・・・・・野田が起案して、陸軍大臣から関係府県知事に次のような内訓を・・・・・「奸商」らの買い占めで早くも地価が暴騰していると聞くが、もし買収予定価格を超過した場合は他の候補地を選定することになる。そうなると陸軍のみならず、「地方の利害に重大の関係を及ぼし」いずれ後悔することになる。・・・・・(『軍隊を誘致せよ』)。
退職後
1909明治42年12月、雄勝スレート株創立、取締役・鳥居忠文、野田豁通ほか3名。
1910明治43年 日本硫黄株・肥後酒精株・雄勝スレート各取締役(『日本紳士録』)。
1913大正2年1月6日、死去。享年69。
―――君が手腕は決して単に理財的、事務的の技能に止らず、帝国議会開設されて以来、退職に至る迄、即ち第十五義会まで、同一の職務を以て終始政府委員となり、陸軍会計事務の全般を代表して、上下六百議員の質問もしくは攻撃に対し、能く之に応じて遺憾なからしめたるの手腕に至つては、其問確に立憲的政治の技能を識認すべきものあり・・・・・(『内外名誉録』)
―――君、天資磊落、而して又た順良なり、故に或る時は鬼神の如く、或る時は児童の如く、花の如く月の如く、中に侵すべからざる處ありて、敬慕措く能はず、更に左の一首を看よ、いかに優しくいかにゆかしきかを、
もののふの猛きこころも 小金井の花には 駒にのりそかねつる
あはれこの歌いづれの肺肝よりかわきいでけん ・・・・・(『征清百傑伝』)。
参考: 『死生の境 後編』田中万逸1909博文館 / 『征清百傑伝』天竜漁史1895奎光堂 / 『日本名家列伝』日本力行会出版部1903 / 『内外名誉録』栃内吉古(松翠)1902内外名誉録出版事務所 / 『陸軍の五大閥』鵜崎鷺城1915隆文館図書 / 『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人1971中公新書 / 国会図書館デジタルコレクション
| 固定リンク
コメント