「天保水滸伝」大利根の決闘、下総で侠客の争い
新聞の日曜版、各地の情報が愉しい。
「千葉市・稲毛海岸・美麗な桟橋照らす夕日」(2024.11.10毎日)、子どもの頃の潮干狩りを思い出した。
東京スカイツリーに近い伯母の家から曳舟駅から京成に乗って潮干狩りに行った。潮の臭いがキツ過ぎてお握りを食べず、怒られたのも今は懐かしい。また、その記事によると、*ジョルジュ・ビゴーが稲毛に一時暮らしていたという。
けやきのブログⅡ<2020.11.7明治日本を描いたフランス人、ビゴー>
―――稲毛は海水浴場としてより、潮干狩りの場所として知られてゐる。事実満潮になっても比較的浅く、澪(みお)にでもはいらねば、泳ぐだけの深さがない。が、一朝干潮になれば、遠く半里先まで砂地が露出してしまうので、子供さん達を引き具しての貝拾ひには持ってこいの所である。浅蜊(あさり)、蛤(はまぐり)それから俗に云ふお化貝の類が相当に採れるので、夏場も貝拾ひで賑ふのである。 稲毛海岸に行くには、両国橋から汽車で行ってもよいし、押上から京成電車の便を借りるのもよい・・・・・(『旅の小遣帳』)。
千葉から大きな荷物を担いだおばんさんが来ると、野菜やトウモロコシを買った。あのトウモロコシ美味しかったぁ。もちろんアサリもね。銚子で食べたサンマや鯛、どれも美味しかった。なんといっても千葉県は三方を海に囲まれている。
千葉県史を開くと「天保水滸伝」が載っていた「わぁ懐かしい」。
テレビはまだ無くラジオの時代。自分は*徳川夢声の語りや浪曲(浪花節)を聴いたりする変わった子だった。伯母の縁で東京向島、東映の映画館に自由に入れ、時代劇「鞍馬天狗」や「赤穂浪士」、「天保水滸伝」もお馴染みだった。
けやきのブログⅡ<2021.10.2話芸は天下一品、多芸多能な徳川夢声>
ところで、「天保水滸伝って何?」って言われそう。
江戸時代末期、今の千葉県下総一帯で争った笹川の繁蔵・浪人平手酒造らと、飯岡の助五郎らによる事件の実録で講談・浪曲の題名だが、どこまで史実か創作かはっきりしない。
ちなみに、天保は1830天保元年~1844天保15/弘化元年。
その天保の終りから10年後、1853嘉永6年にペリーの浦賀来航、1866慶応2年坂本龍馬の斡旋で薩長同盟成立、1868年明治元年となる。
江戸時代の事件ながら、登場人物の多くは明治の世を生き、中には「天保老人」「*天保銭」と言われた人も。
天保銭:明治のはじめ、天保銭は八厘として通用、一銭に満たないところから時勢おくれの人をあざけっていった。
―――(1935昭和10年)・・・・・汽車に乗る。成田行の団体が不断の空席を埋めて東海道線位の混み合ひを見せた。笹川に下車・・・・・町の本通から一足はいつて笹川繁蔵の墓に立寄る。平手酒造と勢力冨五郎の墓がその前にある。何れも天保水滸伝に出るお名染の長脇差で、繁蔵煎餅、繁蔵羊かんなど繁蔵の外、此町には別に名物もなさそうに見える。・・・・・(『荒野を行く:療養と予防』)。
房総は利根川舟運の発達とともに、街道の整備が進み、江戸と房総の結びつきが密になった。文人・学者の往来が盛んになるとともに江戸文化が流入、江戸浮世絵の創始者とされる菱川師宣、千葉県の偉人・伊能忠敬らを輩出している。
その一方、三社詣でや鹿野山参り、成田山参詣などで賑わい庶民に親しまれたが、侠客・博徒・渡世人もいた。その縄張り争いが『天保水滸伝』になりもてはやされた。
その是非善悪、今となっては判らないが、その土地や立場によって善悪が入れ替わっている。どれが正しいか判らず、見たまま記した。
飯岡助五郎 (いいおかのすけごろう)
1792寛政4年1月、飯岡助五郎、相模国三浦郡公郷村(横須賀市)で、漁業と農業を営む石渡助右衛門の長男に生まれる。
『天保水滸伝』では悪玉になっているが、地元飯岡町で助五郎の評判はいい。
1810文化7年、18歳。力士を志し江戸に出たが、下総国飯岡に赴き漁夫になる。
飯岡。大東崎から刑部崎に至る九十九里、弧状の美しい曲線をもった長い浜の北の外れに飯岡という漁港町がある。
1815文化12年、23歳。
下永井村の網元半兵衛の婿となる。その一方、侠客・銚子五郎蔵の子分になる。
1822文政5年、30歳で飯岡一円の縄張りを譲り受け、利根川べりに勢力を張った。
この間、網元として漁業にも精を出し、海岸の護岸工事をするなどして地元の信頼をあつめ、銚子の御陣屋から十手・捕り縄をあずかる身分になった。
1844天保15年、飯岡方230名で笹川方に殴り込み。
このころ笹川繁蔵は助五郎の評判のよいのをねたみ、若さにまかせて助五郎の縄張りを荒らしたりした。温厚な助五郎もついに我慢できず、関東取締出役から繁蔵の召取状をもらい、笹川へ向かった。これが世にいう"大利根河原の大出入り"
出入りの結果は、用心棒の平手酒造だけを失った笹川方の勝ちとなったが、笹川方は銚子飯沼陣屋から十手を預かる助五郎に追われ、離散して旅に出る。・・・・・(『郷土資料事典』)
笹川方とは正反対の言い分、どちらが正しいかまったく判らないが、
―――飯岡では助五郎を悪く言う人はほとんどいないのである。大津波で疲弊した飯岡へ故郷相模(神奈川県)の人々を多数呼び寄せて再建をはかった恩人として今も尊敬されている。 また、故老の話によれば、晩年は実に好々爺となって、近所の子供たちから親しまれたという・・・・・(『千葉県の不思議事典』)。
1847弘化4年7月、助五郎の長男ら3人が、笹川の「びやく橋」で繁蔵を斬り殺し、その首を持ち帰ると、助五郎はこれを丁重に葬ったとも・・・・・(『郷土資料事典』)。
さらに繁蔵のあとを継いだ勢力冨五郎らを次々に討ち滅ぼす。
1859安政6年、病没。享年67。
飯岡助五郎の墓:飯岡市街の東外れの浄土宗宗光台寺にある。近くに仇敵笹川繁蔵の首塚がある。
笹川繁蔵 (ささがわのしげぞう)
1819文政2年、下総国香取郡笹川村(東圧町とうのしょうまち)で代々醤油醸造をしていた村の富豪・岩瀬家に生まれる。
本名・岩瀬繁蔵。
大の相撲好きで、江戸に出て「岩瀬川」と名のり相撲をとっていたが、一年で故郷にもどる。
小見川仁蔵の子分になり、跡目をついで利根川沿岸の大親分となった。
また、賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け、笹川一家を張ったともいう。
縄張り争いから飯岡助五郎に暗殺され、『天保水滸伝』では善玉として描かれる。
1842天保13年、笹川の須賀山明神(現諏訪大神)境内に、相撲の元祖・野見宿禰(のみのすくね)の碑をたてるため、繁蔵が諸国の親分衆に回状をだして花会を開く。これが争いの発端。
―――この花会には、上州の大前田栄五郎、国定忠治、東海道の清水次郎長、福島の信夫常吉をはじめ、当時下総界隈で名を売っていた銚子の五六蔵、佐原の喜三郎、成田の甚蔵などそうそうたる親分衆が顔をそろえた。
花会は盛んだったが、飯岡の助五郎はこれを妬んだ。
繁蔵、諏訪大神の境内に、野見宿禰命の碑を建立。秋季例祭は繁蔵祭りとも称され、山車が街中に繰り出し、相撲大会なども開かれ遠近の参拝客で賑わう。
また、境内の入口には天保水滸伝遺品館がある。
1844天保15年/弘化元年、
出入りの結果は、用心棒の平手酒造だけを失った笹川方の勝ちとなったが、笹川方は、銚子の陣屋から十手を預かる助五郎に追われ、離散して旅に出て故郷に戻ったところを飯岡助五郎に暗殺された(『日本人名事典』)。
1933昭和8年7月、飯岡の助五郎の墓の近くにあった繁蔵の首塚から笹川側の有志が首を譲り渡してもらう。飯岡側はそれで首塚の跡に碑を建てたという。
平手 造酒 (ひらて みき)
1809文化6年? 生まれる。実在人名・平田深喜。
無念流剣道の達人。剣法のみならず、弓馬槍薙刀の術に長じた奥州の浪人。肺を患う虚無的な剣士。
神田お玉が池の北辰一刀流千葉道場の高弟だったが酒好きが災い、破門される。
また、常陸某侯につかえたが酒色に溺れて致仕したとも。
のち下総に赴き、侠客、笹川繁蔵の客人、用心棒となり活躍。
繁蔵一家と飯岡助五郎一家との大利根河原の決闘にかけつけ、全身に傷を負い、それがもとで死去。
1844天保15/弘化元年、没。享年35。
一説に、1872明治5年の新橋駅開業式当日、新橋駅の警備係のなかに、野袴に陣羽織姿の平手酒造がいたという説がある。
勢力冨五郎 (せいりきのとみごろう)
1813文化10年、下総国香取郡万蔵村の農民の子。本名・佐助。
はじめ江戸に出て相撲取りとなり、勢力と名のったが破門されて郷里に帰り、笹川繁蔵の子分となる。
繁蔵の死後、跡目を継ぎ数度、敵討ちを試みるも果たせず、500人の追っ手に囲まれ、冨五郎は籠城していた金比羅山(勢力山)で自害。
縄張り争いの宿敵・飯岡助五郎の案内によって、関八州取締出役の手入れを受け、山中に逃れ自殺したとも。
天保水滸伝に潤色誇張されて書かれ、さらに河竹黙阿弥により「群青滝贔屓勢力」として劇化された。
「勢力富五郎」自刃跡「勢力霊神」の碑を地元民の建立(「広報 東圧」 2020.12.1 千葉県東圧町総務課)。
参考: 『旅の小遣帳』時事新報家庭部編1993正和堂書房 / 『類聚伝記大日本史』第10 1936雄山閣 / 『荒野を行く:療養と予防』村尾圭介1935不二屋書房 / 『日本人名事典』1933三省堂 / 『郷土資料事典 千葉県』1997人文社 / 『千葉県の不思議事典』森田保編1992新人物往来社 / 国会図書館デジタルコレクション
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