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2024年11月25日 (月)

野菊♪作曲・下總皖一、作曲家・音楽理論家・音楽教育

      野 菊     (詩・石森延男  曲・下總皖一
   遠い山から吹いてくる
   小寒い風にゆれながら
   けだかく清くにおう花
   きれいな野菊 うすむらさきよ

   図書館へ向かう道、ふと見れば野菊が咲いてる。花は小さいが、今夏の暑さにもめげず咲き残ったと思えばいじらしい。
 ここで一句詠みたいが、句心も歌心もなく残念と歩き出すと空耳に ♪小寒い風にゆれながらけだかく清くにおう花 きれいな野菊うすむらさきよ~
 ふいに、遠~い昔の運動会。
 体操着にブルマー姿でダンス、片膝ついて両掌で花の形を作ったその先を風が通り抜けていったのを想い出し、足が止まった。
 そういえばあの日、校庭でみた空はとっても深い青だった! 今日も素敵な青空、思わず深呼吸したからか ♪遠い山から吹いてくる~が聞こえたのかもしれない。
 トシをとる毎に忘れっぽくなっているが古い思い出は消えない。それどころか思い浮かべるごとに懐かしさと同時に、老いても気持ちは変わらないと気付かされる。ブログ記事 ♪野菊の作曲家、下總皖一にしよう。
 その下總皖一には三つの顔がある。1200余曲の作曲家、「和声楽」をはじめとする音楽理論、音楽教育家である。

     下總 皖一   (しもうさ かんいち)

 1898明治31年3月31日、原道村砂原(埼玉県加須市)砂原75に生まれる。
   本名・覺三。父・吉乃丞、母・ふさの次男。
   ―――私の思い出は利根川の一寒村、14の年までの田園生活である。田植、養蚕の桑摘み、桑の実の色、色づく麦畑。・・・・・菖蒲の咲く堀で釣る稚魚・・・・・夜も蛙の鳴く声、夜空を過ぎる五位鷺、蛍・・・・・(皖一・随筆)

 1904明治37年、日露戦争。 
 1910明治43年、父が校長の栗橋高等尋常小学校高等科に入学。自宅から遠いが、朝5時起きして歩いて通学。
 1912明治45年3月、14歳。*栗橋尋常高等小学校高等科を卒業。
   4月、埼玉師範学校(埼玉大学)入学。在学中、毎日ピアノの練習に励む。

   栗橋:埼玉県北東部、利根川を境に茨城県と接する農村地帯。

 1914大正3年~1918大正7年、第一次世界大戦。
 1917大正6年3月、卒業。4月、上野の東京音楽学校師範科入学。
   浅草の親戚の家から歩いて通学。
 1919大正8年、雑誌『啓明』創刊号に、下總白桃のペンネームで詩・短歌・小説を発表。
 1920大正9年3月、卒業。記念奨学賞を受ける。
   4月、長岡女子師範学校へ赴任。
   ―――何という遠い所へ来たものであろうと思ってとても寂しかった。・・・・・然し、直ぐそこの女性とたちと友達になってしまった。・・・・・生徒たちから先生たちのあだ名を聞いた・・・・・覺三本人は顔も体も丸いので「丸ちゃん」と呼ばれ・・・・・(『下總皖一』)。

 1921大正10年1月、東京音楽学校で声楽を学んでいた飯尾千代子と結婚。
   9月、秋田県立秋田高等女学校へ転任。附属小学校でも教鞭をとる。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。

 1924大正13年9月、栃木師範学校へ転任。
   ―――濃紺の背広に金縁眼鏡、淡い空色の縞のワイシャツに落ち着いた柄の紺のネクタイ、鋭く射るような眼差しが、待っている生徒の列の方に時折向けられる。きびしい先生だと思った。・・・・・先生の指導は厳格でそのもので、落ち度は寸毫も仮借しなかった。・・・・・楽しいひと時もあった。・・・・・下總先生は本県(栃木県)の音楽教育に新風を吹き込み、活力を与え、やがてそれが、本県音楽教育の源流となったのである(栃木県連合教育会編『教育に光を掲げた人びとⅡ』)。
   本格的な作曲に取り組み、著述、日常生活にも下總皖一を用いる。
   日曜毎に宇都宮から東京国分寺の恩師の*信時潔のもとに通って作曲を学ぶ。

   信時潔:1887-1965。作曲家、音楽学者、チェロ奏者。「海行かば」作曲者。

 1927昭和2年、上京して牛込喜久井町に住み、私立成城小学校に勤務。
 1928昭和3年、東京女子高等師範学校講師。これまでも今後も作曲に没頭。
 1929昭和4年、世界恐慌。
 1930昭和5年、昭和恐慌。
 1931昭和6年、満州事変。4月、私立日本中学校に勤務。

 1932昭和7年3月、文部省在外研究員、作曲法研究のためドイツに留学。
   ベルリンの国立ホッホシューレ入学。20世紀ドイツを代表する作曲家・指揮者、パウル・ヒンデミットに師事。
   留学中「クラリネットとピアノたのための小曲」を作曲。
 1934昭和9年9月、36歳。2年半のドイツ留学終えて神戸港に帰着。
   当時のドイツはナチス党が勢力をもっておりヒトラーが総統になる。
   東京音楽学校講師、12月、助教授となる。

 1935昭和10年、音楽理論『和声楽』を著す。
   和声楽:英語のハーモニーで、西洋音楽ではメロディ(旋律)とリズム(律動)とともに音楽の三要素。
 1938昭和13年、『作曲法』その他昭和25年まで『日本音階の話』『楽典解説』『音楽理論』『対位法』などなど著す。

 1940昭和15年11月、42歳。文部省教科書編集委員。
  『たなばたさま』作曲。
   ♪  ささの葉さらさら  軒ばにゆれる
      お星さまきらきら 金銀すなご

 1941昭和16年、第二次世界大戦。
   9月、東京品川区大崎に転居。
   *石森延男(1897~1987。児童文学者・国語教育者・教科書編集者)の詞「野菊」に出会い、利根川沿いのふる里を思いおこして作曲。
   ―――「遠い山から吹いてくる小寒い風」 これは、その頃少しずつ静かに忍び寄ってくる戦争への不安と考えることができるかもしれません。そのような暗い不安な時代の中でも、野菊は気高く、清く美しく咲いているのです。・・・・・ この歌がつくられたのは、太平洋戦争の始まる直前、日本は国を挙げて戦争に向かっていく時代でしたから、小学校の教科書採用にあたり文部省からもっと元気で力強い戦意高揚に繋がる詞が要求されたが・・・・・(『下總皖一』)。

 1942昭和17年、44歳。東京音楽学校教授。
   ――― 皖一が作曲した校歌は全国で800余曲、埼玉県内では150余曲といわれています。埼玉県内でわかっているものの中で古い校歌は昭和初期につくられた校歌がいくつかありますが、ほとんどが昭和二十年代から三十年代です。県内の人口増加により新設の学校がどんどん建てられていった時代とかさなります・・・・・(『下總皖一』)。
 1945昭和20年、47歳。東京大空襲、家もピアノも楽譜も一切を焼失。
   8月、終戦。―――食糧は配給になりましたが、それだけではどうしても足りません。・・・・・空き地を利用して作物・・・・・サツマイモ、ジャガイモ、カボチャ、麦など・・・・・皖一はもともと農村で生まれ手伝いをした経験がある・・・・・(『下總皖一』)。
   また、戦後は埼玉大学の講師も兼ね、音楽教育の発展に尽力。通信教育関係の仕事で各地方の先生方を集めた講習会にも出席した。
   この年、発行の『標準和声楽』は再販20回以上重ね、音楽を志す人の必読書にもなっている。

 1955昭和30年11月、文部省教科調査委員。
 1956昭和31年、58歳。東京藝術大学音楽学部長。
   この年、東京音楽学校は東京藝術大学に改名。
 1958昭和33年1月、東京国立文化財研究所芸能部長。
   11月、文部省視学委員。
 1959昭和34年、東京藝術大学音楽学部長を辞任するが、教授として在籍。

 1962昭和37年7月8日、胆石、肝臓ガン、肝硬変の悪化で死去。享年64。
   38年間に著作権登録されたもの1200余曲。さらに、県歌・市歌・500余の校歌があり、編曲にいたっては127曲に及んでいる。また、子どもの歌だけで無く、管弦楽、室内楽、合唱曲など幅広く作曲している。
   教育者としては團伊久麿をはじめ、時代をになう数多くの音楽家を育て上げた。


   参考: 『下總皖一』中島睦雄201さきたま出版会 / 『埼玉の偉人たち』2003埼玉県総合政策部文化振興課 / 『日本人名事典』1993三省堂

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