正岡子規「日清戦争陣中日記」& 秋山真之、柴五郎
この冬もコロナ禍は未だ終わらないのにインフルエンザが流行、マスクと縁が切れない。
ところで、現在はさまざまな情報がいとも簡単に得られ、発信も簡単で便利だが、悪意の情報もあり油断ならない。
次世代が過去を振りかえるとしたら、紙でなくネットに拠るのだろうか。そして事歴の取捨選択はAI任せだろうか。今やAIの情報量、スピードは凄い。
戦争は拡大、ウクライナの困難は世界中に拡散しているが救援しきれていない。
話変わって、日本の近代、幕末明治以後、幾つもの対外戦争があった。当時の戦地情報は従軍記者による「戦地情報」が頼り、その記事で新聞の発行部数が伸びたという話もある。
正岡 子規 (まさおか しき)
1867慶応3年9月17日、伊予国温泉郡藤原新町(松山市花園町)、松山藩御馬廻加番・正岡常尚・八重の長男に生まれる。
母八重は松山藩儒者・大原観山の長女。本名は常軌、のち升(のぼる)と改める。
1880明治13年、13歳。愛媛県立松山中学入学。同期の秋山真之と仲が良かった。
松山中学卒業の俳人:子規・高浜虚子・中村草田男・河東碧梧桐など。
松山中学卒業の軍人:秋山好古・秋山真之兄弟、水野広德・桜井忠温など。
1883明治16年、上京。東大予備門入学準備のため須田学舎、共立学校で学ぶ。
1884明治17年、東京大学予備門予科の試験に合格。同じ試験に夏目漱石も合格。
1885明治18年、英語を苦手とし学年試験に失敗して落第。俳句を作り始める。
1886明治19年、野球に熱中。また、仲が良い友人同士『七変化人評論』を作った。
秋山真之も七人の一人、神田猿楽町の子規の下宿に移りともに勉強した。
しかし、「秋山氏も海軍兵学校に移り、同学生七人の中にて今に一処にある者三人のみ、人間の離合実に計るべからざる也」(子規『*筆まかせ』)。
秋山の軍人志望への転換と兵学校行きは晴天の霹靂だった。高浜虚子の「正岡子規と秋山参謀」(『ホトトギス』臨時創刊)に紹介がある。
「筆まかせ」には子規と友人たちの姿が生き生きと描かれている。
1887明治20年、第一高等中学校、寄宿舎に入る。
1888明治21年、第一高等学校予科卒業。8月、江ノ島・鎌倉旅行中、喀血。
1889明治22年1月、夏目漱石との校友始まる。5月、二度目の喀血。
1890明治23年1月、松山に帰省。旧友と相談し秋山真行を呑みに誘うも留守だった。
9月、帝国大学文科大学哲学科に入学。
1891明治24年2月、国文科に転科。
武蔵野を歩き俳句に開眼し写実を旨に句を作るようなる。
1892明治25年、小説「月の都」を書き、幸田露伴に評を求め「覇気が強い」と評される。
新聞『日本』の陸羯南(くが かつなん)を訪れ、大学を中退し、俳句作りを生涯の仕事とする意志を伝える。
5月~6月、『日本』に「かけはしの記」「獺祭書屋俳話」の連載。
12月、日本新聞社に文芸記者として入社、新聞記者生活が始まる。
1893明治26年、26歳。
「日本」に俳句欄を設け、自作の俳句および内藤鳴雪、高浜虚子らの俳句を紹介。大学を退学。
3月、『日本』に「芭蕉雑談」を連載。芭蕉の俳句を高く評価、月並俳句を批判する。
1894明治27年2月、陸羯南の隣り、上根岸町に転居。根岸庵と称し、生涯住む。
8月1日、日清戦争始まる。子規28歳。
日清開戦にともない、「東京朝日新聞」「国民新聞」「東京日日新聞」「日本」など全国六十六紙が、続々と従軍記者を派遣し前線取材に当たらせた。その総数百三十人近くに達し、日本における本格的な戦争報道の先駆けとなった。
―――「日本」の記者が次々と従軍するなか、「文学者として千載一遇の此戦争を歌ふにも固より其職務の如き者である」従軍したい気持ちを募らせる・・・・・(『正岡子規従軍す』)。
1895明治28年3月3日、病身の子規、近衛師団への従軍が決まり、出発。
新橋から汽車に乗り、内藤鳴雪らに見送られ大本営の置かれた広島に向かう。・・・・
4月10日、「行かば我れ筆の花散る処まで」、輸送船「海域丸」で宇品出港。
―――船に乗ってみて初めて宿所や食事など従軍記者に対する待遇が極めて劣悪であることを知り驚く。特に管理部長や曹長らの横柄な態度と乱暴な口のききように憤慨する。さらに同じ船に乗った神官や僧侶たちと、待遇の面で格差がつけられていることを憤懣を募らせる。
4月15日朝十時頃、柳樹屯に上る。快き事いわん方なし。桟橋に兵站部の荷物運びいる支那人の、百人余りも群れたる中を推し分けて行くに、日本人とみれば路を譲り、殊に軍服を着たる我が仕官に逢えば驚きあわてて両側に開きたる・・・・・織るがごとき往来は七分通り日本人なり。靴痕車轍、路かと見れば麦畑の中を横切り、平野と見れば田圃みな山腹にあり。山巓低くして、山脚長きがためなり。
大国の山皆低き霞かな
小石まじりの赤土直下、萌えあえぬ枯草を見るに、我が国同じきもあり、同じからぬもありてみなまばらなり・・・・・(正岡子規『陣中日記』)
金州城に入り、第二軍司令部を訪れ・・・・・夜、民家に宿を取り、中国人の老人と同じ部屋で寝る。・・・・・19日、船で旅順に赴く。
4月20日、同行従軍記者たちと老虎尾、饅頭山などの砲台を見学。旅順市内に戻り集仙茶園という劇場で子供芝居を見て、陶然となる。
4月25日、三崎山に登り、スパイ容疑で処刑された三人の日本人通訳・・・・・の偉勲をたたえる漢詩を詠み、帰路、谷あいに咲く菫の傍らに髑髏が野ざらしになっており、「なき人のむくろを隠せ春の草」
4月27日、金州城外の杏の花や柳の美しさに惹かれて野道をたどり、「一村は杏と柳ばかりかな」。
谷あいの山村で春菜を摘む子供たちに出会い、春菜を買わないかといわれて、「此国の人は天性商売にさかしきものなり」と幻滅。
5月4日、第二軍軍医部長 森鷗外を陣中に訪ね、俳諧談義を交わす。
5月10日、下関講和条約批准、戦争は終結。戦争取材の望みが断たれ、帰国。
17日、戦場から鱶を見下ろそうとして喀血。
20日、戦中でコレラによる死者が出て、上陸できず。
23日、神戸の和田岬に上陸。検疫を済ませたあと放免・・・・・入院しようとするが歩行がままならず・・・・・従軍記者仲間が通りかかったので、担架を呼ぶように頼み、かろうじて神戸病院に入院。・・・・・二ヶ月ほどの入院・治療で回復。
8月末、松山に戻り、漱石の下宿先(愚陀仏庵)に居候する。
この間、俳句仲間を集めて、連日俳句を作り、俳句談義を交わし漱石もその仲間に加わる。
10月、三津浜から船で神戸にでて東京に戻る。途、奈良に立ち寄り
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
1896明治29年、腰痛がひどく、寝たきりとなる。この年、3038句を詠む。
1898明治31年2月、「歌よみに与ふる書」連載が日本で始まり短歌革新に乗り出す。
松山で発行されていた「ほととぎす」を東京に移し、高浜虚子が編集にあたる。
1900明治33年8月、大量の喀血があり、著しく衰弱する。
夏目漱石が寺田寅彦を伴い、根岸庵を訪問、最後の面談となる。
1901明治34年9月、34歳。「仰臥漫録」執筆。
8月、中国義和団の反乱事件に対し8ヵ国連合軍による鎮圧戦争。
北京包囲中に日本は連合軍最大の軍隊を派遣。会津出身の柴五郎が連合軍の中心となって活躍、日本内外で名を知られる。戦後、軍事占領をめぐり日露が以後対立。
この戦いに子規と同じ松山中学の卒業生・水野広德が陸戦隊小隊長として上海警備についている。子規の8年後輩、水野は海軍軍人(大佐)で軍事評論家、『此一戦』で知られる。
子規は『仰臥漫録』で柴五郎の活躍を讃えているが、そのきっかけが判らない。水野かとも思ったが世代が違う。やはり秋山兄弟の縁かも知れない。
柴五郎と真之の兄・秋山吉古は陸軍士官学校三期の同期、真之と五郎は米西戦争の海軍観戦武官・陸軍観戦武官である。
そのアメリカ滞在中、真之は現地で五郎の世話になっている。
その子規は生涯を通して漢詩を600首以上も詠んでいる(『正岡子、規従軍す』)。
次の漢詩は「仰臥漫録 二」から、柴中佐は柴五郎のこと。
六月団匪(だんぴ)起(おこり)八月走君王(くんおうはしる)多謝(たしゃす)柴
中佐不使敵(てきをして)越牆(しょうをこえしめざる)
独軍不知礼(れいをしらず)露軍不重名(なをおもんぜず)
粗食而(そしょくにして)愛国(くにをあいする)只(ただ)有日本兵(にほんへいあり)
けやきのブログⅡ<2009.12.20 柴五郎の諜報報告/秋山真之>
1902明治35年5月、「病状六尺」を日本に連載。
耐えがたい苦痛のなかにあって、「天命を楽しむ」境地を悟る。
9月18日、絶筆・糸瓜の三句記す。
9月19日、永眠。享年35。
大の写真好きだった子規、多くの肖像写真を遺している。
田端の大龍寺に埋葬される。
参考:『正岡子規、従軍す』末延芳晴2011平凡社 / 『秋山真之』田中宏巳2吉川弘文館 / 『正岡子規集(筆まかせ)』2003新日本古典文学大系明治編 / 『仰臥漫録』正岡子規2022岩波文庫
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