国語学者・政治家、上田萬年(万年)
読み書きが好き、題を与えられればすぐ文が書ける。作文苦手に「いいなあ」と言われるが、無造作なだけで自慢にならない。
さすがに、ブログ記事は読み返すがたいてい書きっ放しである。その癖ペンネームは、好きな作家で文章がまた素晴らしい中里介山、中島敦、井上ひさしから頂いている。
中・中・井、中二つで仲とせずにすっきり中井、好きな欅を足して中井けやきとした。
素晴らしい作品を読むと、ちゃんとした文を書きたいと思うが、つい「また今度」。今度とお化けは出ないから一生無理そう。
また言語についてとか国語、学問の話なども敬遠しているが、たまたま下記引用の文で上田万年は「誰にもやさしく教えてくれそう」と見てみた。
年譜は主に『日本語を作った男 上田万年とその時代』を参照。
―――人の生存に必要な水と空気との間には、貴賤の別を立てるものがなく、人のからだでいへば、手と足との間には、尊卑の差を置くものはあるまいのに、なぜか世の中には、人の職業の間に、貴賤尊卑の差別があるよーに思ってをるものがある。これは一方ならぬ考へちがひといはなければならぬ。 人の職業は農工商 官吏教員学者 医者弁護士画工といふよーに、幾十種とあるが、大別してみれば、割合に多く心を使ふものと、からだを使ふものとの二つである・・・・・(上田万年『男子成功談』)。
―――「国語」を作らなければならない。日本各地にさまざまな言葉があり、身分や階級によっても違う言葉がある。これを統一することはすなわち国民を言葉によって日本という国に所属させることだった。 国家はそれを求める。戦場で部下が号令を理解できなければその部隊は負ける。産業の場にいても同じ。・・・・・(池澤夏樹・書評『日本語を作った男 上田万年とその時代』)。
上田 萬年(万年) ( うえだ まんねん/かずとし)
1867慶応3年1月7日、江戸の名古屋藩邸で上田虎之丞、いね子の長男に生まれる。
1869明治2年6月、版籍奉還。
1870明治3年、父死去。
1871明治4年7月、廃藩置県。10月、岩倉具視を中心とする遣欧使節団派遣。
1872明治5年10月、新橋・横浜間の鉄道開業。 12月、太陽暦採用。
1878明治11年9月、東京府第一中学正則科入学。
1883明治16年、かなのくわい『かなのまなび』創刊。11月、鹿鳴館開館。
1884明治17年、外山正一「漢字を廃すべし」「漢字を廃して英語を熾(さかん)に興すは今日の急務なり」発表。
1885明治18年9月、東京大学文学部和漢文学科入学。
イギリス人の語学の天才、日本語学者バジル・チェンバレンに師事。
チェンバレン1850~1935。日本アジア協会で「日本語動詞の語根について」など発表したりしている。
―――お雇い外国人チェンバレンは万年に「日本語とは何か」と問・・・・・万年は答えられなかった。・・・・・日本人にとって「日本語」とは何かということを、日本人はこれまで考えてきたことがなかったのだ。・・・・・ 万年は大きな衝撃を受けた。それからチェンバレンからアイヌ語や琉球語、ドイツ語やフランス語、ラテン語、サンスクリット語などがどのような言語なのかを教わっていくことになる。 「博言学」と呼ばれる新しい学問をやる日本でただひとりの日本人、万年は、チェンバレンを通して学び、またいろいろな人々と出会うことになるのだった。・・・・・(『日本語を作った男』)。
1888明治21年4月、チェンバレン、上田万年を助手として「日本語の最古の語彙について」を*日本アジア協会で発表。
日本アジア協会:1872明治5年、横浜在留英米人をを中心に設立。アジア諸国に関する知識の収集、発表を目的とした。会誌は現在まで続刊されている。
7月、卒業。9月、帝国大学文科大学大学院入学。
1889明治22年2月、大日本帝国憲法発布。
「日本言語研究法」を発表。
1890明治23年9月、ドイツ留学、3年。
1892明治25年、フランス留学6ヶ月。
ヨーロッパに留学して近代的な言語学を学び、それを日本語に応用、学者であるとともに政策決定にも深く関わる。のち、「欧州諸国に於ける綴字改良論」を発表。
1894明治27年6月。帰国。帝国大学教授、博言学講座担当。
8月、日清戦争。
1895明治28年、『大日本教育会雑誌』に「教育上国語学者の抛棄し居る一大要点」発表。
大学通俗講談会で「新国字論」を説く。
1月、万年『帝国文学』創刊。1920大正9年1月の廃刊まで、総数296冊、高山樗牛・大町桂月・井上哲次郎・上田敏・戸川秋骨・夏目漱石・森鷗外・芥川龍之介らの創作や評論が掲載された。万年「標準語に就きて」発表。
12月、村上鶴子と結婚。作家の円地文子は娘。
1896明治29年、図書編纂審査委員。
1897明治30年9月、東大に国語研究室創設、主任となる。
1898明治31年1月、『帝国文学』に「P音考」発表。
5月、言語学会創立。
7月、国字改良会、加藤弘之・嘉納治五郎らと設立。
11月、文部省専門学務局長兼文部省参与官(高等官二等)兼東京帝国大学文科大学教授に昇進する。
―――留学してヨーロッパの言語学の粋を学んできた専門家は万年以外にはいない。・・・・・学問だけに邁進する道ももちろんある。しかし、東京大学は学問の最高府であると同時に、官僚を養成するための最高機関でもあった。学問と政治は不可分である。 とくに教育という人を創るための根幹にあって、「国語」は、その中心の課題であった。万年の手に「国語」の将来は託されていたと言っても過言ではなかろう。・・・・・(『日本語を作った男』)。
1899明治32年3月、文学博士を授与される。
1900明治33年、『言語学雑誌』創刊。
新村出らと「言文一致会」結成。
8月、小学校令発布。仮名の字体、字音仮名遣いを一定し、漢字の数を限定。
―――仮名遣いのこと。日本語の仮名は表音文字であるが、発音は時代と共に変化するから、表記との間にずれが生じる。それをどう是正するか、そもそも是正すべきものなのか・・・・・(池澤夏樹評『日本語を作った男』)。
―――文部省内に設置したる国語調査会は・・・・・前島密委員長を始め、上田万年、大槻文彦、那珂通世、三宅雄二郎、朝比奈知泉の各委員出席し、・・・・・国語の将来についての大方針を審議せられんことを望む・・・・・(明治33.4.7東京朝日)。
―――「言文一致を優先、と梅謙次郎」・・・・・まず国語調査などいわんより、むしろ言文一致の必要なる所以なれば・・・・・(明治34.6.8報知)。
1901明治34年、東京帝国大学教授本官・文部省専門学務局長兼任。
1903明治36年4月、夏目礎石、東京帝国大学文科大学英文科講師。
4月、国定教科書制度実施。『国語のため2』出版。
1904明治37年2月、日露戦争。
6月、教科書調査委員。『舞の本』『西洋名数』出版。
1905明治38年、国語学国文第一講座担任。
8月、日英同盟。
1908明治41年、帝国学士院会員になる。
5月、臨時仮名遣調査委員会委員。
第4回委員会で新仮名遣い不採用、万年委員会主事を辞任。
―――万年たちは発音に近い新仮名遣いを提案した。これに徹底的に反論を加えたのは森鷗外だった。かれが言いたかったのは、表記を今の発音に合わせてしまっては言葉の由来がわからなくなるということだった。・・・・・(『日本語を作った男』)。
――― 一国の正式の言葉の規範を作るのが上田万年の使命で、当面の課題は二つあった。一つは言文一致体の勧め。もう一つは仮名遣いの改革・・・・・(同前)。
1910明治43年、『日本歴史画譚』(日本開闢(天照大神)、出雲大社、鎌倉幕府など)。
1912明治45/大正元年、3月、東京帝国大学文科大学長に就任。
1914大正3年7月~1915大正4年2月、欧米各国を視察。
1916大正5年、『古本節用集の研究』橋本進吉と共著、出版。
1919大正8年、東京帝国大学文科大学を東京帝国大学文学部と改称。
6月、神宮皇學館館長。
12月、『大日本国語辞典』松井簡治と共著。
1921大正10年3月、東京帝国大学文学部長解職。
6月、臨時国語調査会制発布、委員に任命。会長、森鷗外。
1923大正11年2月、欧州出張。
9月、帰国。品川沖から関東大震災の惨劇を見る。
1924大正13年、*東洋文庫設立にともない理事に就任。
けやきのブログⅡ<2020.6.27G・E・モリソン、柴五郎、東洋文庫>
1926大正15/昭和元年10月、日本音声学協会創立、初代会長。
12月、学士院選出貴族院議員に就任。
1927昭和2年、退官。國學院大學学長、日本大学に出講。
1930昭和5年、『近松語彙』樋口慶千代と共著、出版。
1937昭和12年10月26日、大腸ガンで死去。享年70。
1946昭和21年11月、当用漢字ならびに新仮名遣いの告示。
―――上田万年の生涯に波瀾(はらん)は少ない。「万年は、時代の推移の上にうまく身を置いていたようにも思われる」と『日本語を作った男』著者・山口謠司は言う。それでも近代日本語の表記の歴史を辿るのには最適の人物には違いあるまい(池澤夏樹)。
参考: 『日本語を作った男-上田万年とその時代』山口謠司著2016集英社インターナショナル / 池澤夏樹・評『日本語を作った男』毎日新聞 / 『男子成功談』上田萬年1905金港堂 / 国会図書館デジタルコレクション / 『明治日本発掘』1995河出書房新社
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