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2024年12月 2日 (月)

女性パイロット第1号・教師・満州開拓団員、西崎キク

 はや12月、昼の時間が短くなり雨戸を閉める時間がすっかり早くなった。
 陽射しがあれば夕焼け空を飛行機が東から西へ飛び去るのが見えるのに暗いと残念。それでもよく見れば、いつものコースを飛び去るのが飛行機のランプでわかる。
 飛行機も車と同じく夜はランプをつけて飛ぶんだ。当たり前のことを今さら感心しつつ、ふと、もう何年も飛行機乗ってないなあ。
 オーストラリア・シドニーの夜、星いっぱいの空を見上げ南十字星を仰ぎ見たのを忘れない。あれから何年たっただろう。夫と娘と私の三人旅、愉しかった。
 しかし今は海外といわず国内旅行も気がのらない。トシのせい? コロナ禍など社会不安のせい? 季節毎に来る旅雑誌にも心が動かない。

 さて話変わって、今やバスや電車を運転する女性は珍しくない。飛行機の操縦も同じだろうか。
 ともあれ、女性パイロット第一号は大正元年生まれの西崎キク、昭和51年の朝ドラ「雲のじゅうたん」のモデルの一人だそうです。
 かつて女性が社会で表だった活躍するのはハードルが高く、なりたい職業にもつきにくい時代だった。そういう時代に生まれた西崎キク、どうやってパイロットになれたのかな。
 幸い伝記『夢 青き空から』がある。読むと、その前向きな生き方に感心すると同時にパワフルなのに驚くばかり。
 ふと思う、現代でもこういう女性の元気、気力が世の中を支えているかもしれない。

     西崎 キク

 1912大正元年11月2日、七本木村(埼玉県児玉郡上里町)、松本佐平・タキの八人兄姉の次女として生まれる。
 1924大正13年4月、七本木小学校高等科入学。
 1927昭和2年4月、埼玉県女子師範学校講習科入学。
 1929昭和4年4月、17歳。神保原小学校尋常科訓導(教員)となり、2年担任。
   高等科の生徒にまじって元気にバスケットボール、サイクリングにも出かけていた。

 1931昭和6年7月、東京須崎の第一飛行学校入学(一期生)。のち小栗飛行学校へ転校。
   ―――自分の限界を試せるようなことをやりたい。・・・・・以前おとずれた群馬県の尾島(おじま)飛行場で初めてさわった飛行機の感触、エンジンの爆音、その時の感動を思いだし・・・・・そうだ。飛行機の操縦法を勉強しよう。・・・・・ある日、思いきって父に打ち明けましたが、父は大反対でした。当時の飛行機は粗末なもので、飛行は操縦士の腕にかかっていました。・・・・・まさに命がけの職業で、親としては大反対・・・・・当時の飛行機は今よりずっと粗末なもので、飛行は操縦士の腕にかかっていました。・・・・・しかし、父はついにあきらめ、免許状をとるまで家に帰ってくるな。・・・・・しかし、飛行学校に入学して3ヶ月、たった1回、それも6分しか乗れず・・・・・飛行機研究所で勉強することに・・・・・(『埼玉の偉人たち』)。

 1932昭和7年1月、十分な練習時間確保のため愛知県新舞子(知多市)の安藤飛行機研究所の練習生となる。
   ここではちゃんと訓練が行われていたが途中、墜落事故で仲間一人を失う。

 1933昭和8年8月17日、二等飛行操縦士試験に合格(二等飛行機操縦士技倆、航空免状を取得)。日本で初めての女性水上飛行機操縦士免許を取、帰郷する。
   10月15日、郷土訪問飛行(一三式水上機)。
   児玉郡内や本庄町、群馬県玉村・伊勢崎などから来た数万の観衆が見守った。新聞は「天晴れ女鳥人」などの見出しで快挙を報じた。

 1934昭和9年7月、東京須崎亜細亜(アジア)飛行学校で機種拡張試験、陸上機免許取得。
   3月1日、満洲国帝政実施。
    *満洲国建国祝賀親善。女性として初めて日本海を横断(海外飛行第1号)、満州新京(長春)まで飛行。サルムソン式2A2型陸上機J-BASJ(白菊号)。14日間飛行。
   ―――10月22日、東京羽田飛行場から出発・・・・・浜松陸軍飛行場・大阪木津川を経由して大刀洗(たちあらい)陸軍飛行場に着陸、小休憩ののち再び京城(ソウル)向け出発したが、強い向かい風を受けて前に進まず、燃料切れで不時着・・・・・幸い機体の損傷も無く関係者の手によって飛び立てた。31日新義州・・・・・11月3日、満洲国奉天飛行場に着陸、4日、新京(長春)へたどり着いた。羽田-新京2440kmを14日で飛行した。・・・・・(『夢 青き空から』)
   キクは亜細亜航空学校の操縦助教官として女子部の教育を担当することになった。

   満洲国:満州事変により日本軍が作り上げた傀儡国家。昭和7年、建国。*溥儀(ふぎ)を執政とし帝政。首都は新京(長春)。昭和20年、日本の敗戦で樺太庁消滅。
   溥儀:1906~1967。清朝最後の宣統帝。辛亥革命で退位。満洲国建設にさいし執政となる。

 1935昭和10年3月15日、国際航空聯盟より日本の女性飛行士初の海外飛行の第1号が評価され、ハーモン・トロフィー受賞。
   亜細亜航空学校女子部操縦助教官として勤務。

 1937昭和12年7月23日、樺太(カラフト)の豊原市市制施行祝賀記念飛行に「第2白菊号」で出発するも津軽海峡でエンジン不良のため墜落。貨物船・稲荷丸に救助される。
   秋、陸軍省に従軍志願書を提出、却下される。
   キクの持つ二等飛行機操縦士免許では乗客や貨物は乗せらず、女性には一等飛行機操縦士免許をとる道も閉ざされていた。

   樺太:日露戦争後、領有した北緯50度以南の樺太。樺太庁、昭和20年まで存続。

 1938昭和13年3月、猪岡武雄と結婚。
   ソ連国境に近い北満開宅地・*満洲国埼玉村開拓団として渡満。匪賊の来襲、零下度30度まで下がる季候など困難な生活だった。
   9月、老街基(ろうがいき)在満国民学校訓導(小学校教諭)。
   満州映画、1年間のドキュメンタリー「開拓地の子供たち」に出演。

   満蒙開拓団: 満州事変後、国策として満蒙への移民が積極的に推進された。大量移民計画が策定され、集団・集合開拓移民・満蒙開拓青少年義勇軍が組織され、入植が行われたが、入植状況は計画をはるかに下回った(『近現代史用語事典』)。

 1941昭和16年12月、現地で夫が病死。
   12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米宣戦布告する。
 1943昭和18年4月、開拓団の指導員・西崎了と再婚。翌年、長男・峻誕生。
 1944昭和19年11月24日、東京初空襲される。
 1945昭和20年8月15日、満洲で終戦を迎える。
   夫は満洲で招集され、シベリア抑留(戦後、ソ連の捕虜となった50万以上の日本兵がシベリア、中央アジア各地で強制労働させられた)。
   12月13日、引き上揚げの中、奉天収容所で長男・肺炎で死去。
 1946昭和21年6月、帰国。
   492人で開拓村を出発したが、埼玉県庁に到着したのは133人。
   6月、北本宿青年学級教員。

 1947昭和22年4月、馬室中学校(鴻巣市)教員。
 1948昭和23年1月、七本木開拓地に入植。3月、七本木中学校教員。
 1949昭和24年9月、夫、復員。
 1950昭和25年~1954昭和29年、七本木小学校教頭。
   3月、退職。教職を離れ「土に生きる」ことを決意。

 1958昭和33年、日本婦人航空協会発行『航空婦人』に自らの体験を綴る。「爆縁は紫にながれて」「曠野の落日」(~1961昭和36年)
 1961昭和36年、開拓15周年記念体験記「酸性土壌に生きる」農林大臣賞受賞。
 1964昭和39年、全国農業新聞500号記念懸賞論文に応募。
   「西瓜の省力栽培は魔法の間道で」第3席入賞。
 1966昭和41年12月、夫死去。

 1973昭和48年11月、61歳。上里町教育委員会社会教育指導員、主に婦人教育を担当。
   「婦人だより」刊行、婦人学級の開催など女性の生活・文化向上に尽力。
 1975昭和50年6月、メキシコシティーの国際婦人世界大会参加。
   10月、自伝『紅翼と拓魂の記』刊行。
 1976昭和51年4月、NHK朝ドラマ「雲のじゅうたん」
   7月25日、日本婦人航空協会日本一周飛行。東京-仙台間を飛行。
 1919昭和54年10月6日、脳溢血のため死去。享年66。 


   参考: 西崎キク伝『夢 青き空から』2005上里町郷土資料館 / 『埼玉の偉人たち』2003埼玉県総合政策部文化振興課 / 『近現代史用語事典』1992新人物往来社  / 『日本地名辞典』1996三省堂

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