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2024年12月23日 (月)

「村山源氏」 村山リウ、女子のため説き語りしつつ前進

 歴史好き、大河ドラマはよく見ていたが、あるときから見なくなった。
 大河ドラマは歴史そのものでなく、周辺人物は制作の都合で取捨選択される。
 例えば、近代日本は近隣諸国へ侵出、踏んだ方は忘れても踏まれた方は忘れない。ドラマといえども苦情が出るかもしれない。という畏れから登場させない人物が・・・・・などと、余計なことを考えるうちに見なくなってしまった。

 ところで、今の大河ドラマ「光る君へ」を見ないのは『源氏物語』を読み通してないせいか興味がない。何しろ、「谷崎源氏」を全巻買ったはいいが積ん読、筆者に紫式部の雅は遠い。
 さて『源氏物語』といえば、「谷崎源氏」「与謝野源氏」のように名だたる文学者、谷崎潤一郎、与謝野晶子の訳が有名である。ほかに『説き語り「村山源氏』も知られている。
 その、分厚い『説き語り「村山源氏」』はさておき、村山リウの生い立ちを見てみたい。

 『私とつれあい』『はなやぐ老い』『私の歩いた道』には、戦争中でも明るく元気に前進する村山リウがいる。
 そしてまず生地をみると、香川県琴平町! 琴平町と言えば同地出身、けやきのブログⅡ<2021.9.25博徒で学者で漢詩人、子分が三百人ばかり日柳燕石が思い浮かぶ。
 逆境にあっても明るく前進するのは、四国金比羅山由来!?
 「村山源氏」は素養のある人にお任せして、村山リウの生き様をたどってみたい。

     村山 リウ

 1903明治36年4月1日、香川県琴平町榎内、織田栄五郎・天留(てる)の次女。
   父は四国善通寺の第十一師団に勤務。
 1904明治37年、日露戦争
 1909明治42年、岡山県御津郡御野(みの)村、御野小学校入学。
   父が第十七師団に転勤になり岡山へ移転。学校まで40分あったがリウは皆勤。
 1914大正3年、11歳。岡山県立女子師範学校付属小学校へ転校。
   8月、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加。
 1916大正5年、13歳。岡山県立第一高等女学校へ入学。
   数学、理科が得意。理屈っぽく、かわいげの無い個性が強い少女だった。小説類は学校では禁止されていたが、*立川文庫が好きだった。
 
  けやきのブログⅡ<2019.12.14大正期、少年と大人も夢中にさせた立川文庫(兵庫県・大阪府)>
  立川文庫:1911明治から10年間、大阪の立川文明堂が刊行した少年向きの講談文庫。『真田十勇士』『猿飛佐助』など好評を博し名をあげた。

   父は軍人だが、矛盾を感じて軍人をやめると、母が軍隊へ陸地測量地図や典範類を軍隊へ納める商売を始めた。
 1919大正8年、16歳。これからは女性も専門教育をうけて自立できなくてはという父の考えで、日本女子大学国文科へ入学。
  ―――目白の日本女子大は全寮制で、30~50人の学生が一軒屋に住み、寮監の下に交代制のお主婦さまが二人いて自炊生活をした。  当時の女子大生の家庭は、医者や校長、裕福な商売人、豪農などかなり豊かな階級であった。リウは毎月45円の仕送りをうけていた。・・・・・大正デモクラシーの昂揚期で・・・・・文芸、演劇もルネッサンスの時代で、リウは仲間と連れだって、新劇を天井桟敷から観た。・・・・・(リウが)「源氏物語」の説きがたりで、しぐさ、身振りが入るのもこのころの影響だという。・・・・・(『私の歩いた道』)。
  
1923大正12年、卒業。故郷の山陽女学校教師になり、国語とダンスを教えた。
  ―――ダンスは今でいう創作ダンスのようなもので 、袂をヒラヒラさせて踊るダンスは得意だった。・・・・・(同前)。
 1925大正14年、22歳。母校の岡山県立第一高等女学校で教鞭をとる。
 1928昭和3年、ユニークな個性の持主、リウは学校の伝統にあわず辞職。

 1930昭和5年3月、岡山医大付属病院の副手・村山高と結婚
 1931昭和6年、28歳。夫が一年に三度も入院、結核性の潰瘍を手術。
  ―――何事にも明るく建設的なリウは、この人には私がついていなくては自殺をしてしまう・・・・・「私の力で生かせてみせる」・・・・・(『私の歩いた道』)。

 1935昭和10年、32歳。大阪市住吉区の夫の両親と同居。
   夫は小林一三が始めた阪急の結核相談所「阪急健康相談所」に勤める。
   リウは博士論文のため研究にはげむ夫を毎日手伝う。
   また、親類のおばあさんのお伴で西国三十三カ所の観音めぐりで「源氏物語」と出会う。
   有朋堂版の『源氏物語』を読み始める。
 1936昭和11年、33歳。夫の健康が回復、大阪北区堂島に転居。
   この頃から地域の婦人活動を行う。

 1943昭和18年、女子挺身隊関連の仕事で大阪府庁に大阪大空襲まで勤める。
  ―――終戦の前々年、徴用が厳しくなって・・・・・府庁の若い男の人たちが、どんどん招集され・・・・・その補充に女学校を出た方が使われるようになって、男子の三分の一くらいまで数がふえ・・・・・これまで職場は男の世界ばっかりだから・・・・・娘さん方のお母さん代わりになって、いろいろ考えてやってくれ」ないかというわけで、・・・・・20年3月の空襲で家が焼けてしもたので、住む所もなくなって逃げて、おいとま・・・・・そのとき、行ってみたら、男便所はあっても女便所はない、そんなことから始めなきゃいけない・・・・・(中略)・・・・・朝、女だけが屋上へ上がるの。・・・・・「おはようございます」といって気持ちをそろえて、そこで「万葉集」を朗詠するの。・・・・・恋歌や何かができるわけじゃないし、出征兵士を送る防人の女房たちの歌・・・・・防人が故郷を想う歌があるでしょう、そいうものを二度朗唱する、それが毎日変わるんです、それが楽しみなん。・・・・・そのときに、ブーンというて敵機が通っていくんだもんなあ。・・・・・(『私の歩いた道』)。

 1944昭和19年、41歳。リウは子挺身隊の隊長となる。
   堂島北の隣組で、配給制度、出征兵士のための炊き出しなどにかり出される。
   女子青年団が結成され女子挺身隊が吸収されると、リウは地区団長になり、勤労奉仕、バケツリレー、竹槍訓練、包帯の巻き方などを指導。
 1945昭和20年3月14日、大阪大空襲で堂島の家焼失。
   夫の両親の家に身を寄せ、にわか農婦になり食糧難で苦労。また嫁姑問題に苦しむ。
   8月15日、敗戦
  ―――今度の戦争の始まりについてでも・・・・・誰もはっきり言わない。戦争はもう二度とするな、いけない、平和、平和と叫ぶけど、戦争をした原因をはっきりと公表しなければ、いくら掛声をかけても納得しないでしょ、・・・・・自分勝手にはいろいろ考えますけど、結局はよくわからない。・・・・・(『はなやぐ老い』)。

 1946昭和21年、43歳。大阪氏中央公会堂で平和祈念集会。
   リウは平林治徳教授の推薦で一主婦として登壇。再び戦争をくり返さないため、女も政治に無関心であってはならないと講演。以後、ラジオ、新聞、講演など、生活・文化・政治などに意見を求められ、評論家誕生。
 1949昭和24年、大丸百貨店(心斎橋)の教養教室で「源氏物語」を輪読。解き語りを、関西中心に始める。現代の視点からユニークな解説、講演は「村山源氏」として知られる。
  ―――源氏物語を細かに読んでゆくことも必要ですけど、細々と読んでいたら、大きなことを捉えられない。こことここという風にあらましでくくってゆくと全体が見えてくる・・・・・(『はなやぐ老い』)

 1954昭和29年~1991平成3年、源氏物語講座(婦人民生クラブ主催)講師。
   大阪ユネスコ協会副会長、大阪市選挙管理委員長など歴任。
   市川房枝の選挙協力行う。
 1955昭和30年、52歳。フィリピン戦争未亡人招待委員会世話人など。
 1957昭和32年、57歳。芸術祭参加「源氏物語」(NHK大阪局)の解説に出演。
   4月~5月、40日間。女性では初めての「訪中婦人代表団」副団長。
   ―――北京では二週間。北京を足場にして、東北地方--旧満州、ずうっと昔の奉天(今の瀋陽)もあたりまで参りました。養老院の孤老から要人まで・・・・・あるときのこと、周恩来さんが私ら呼んでくださったの。・・・・・周恩来さんは方の力で早く日本と中国が結ばれるように・・・・・そこんとこへ持ってきなさるまでが、本当にお兄さんかお父さんとかが思い出話をしてくださるように。真実な、誠実なお方だなあ」と・・・・・(『私の歩いた道』)。
 1958昭和33年、アメリカ中間選挙視察。
1959昭和34年、よみうりテレビ連続講座「源氏物語」始まる。
 1961昭和36年、第二回内閣選挙制度審議会委員。
 1963昭和38年、還暦を記念し夫婦でヨーロッパ旅行。
 1971昭和46年、NHK放送文化賞、受賞。
 1979昭和54年9月16日、76歳。夫・高死去。
  ―――わたしたちは同い年・・・・・同じ時に同じ経験をしていますから、便利でいい。あのときああだった、こうだったと言い合っては、同じ思いをしています。だから、友愛結婚というのでしょう。一生友だちでした。・・・・・(『はなやぐ老い』)。
  私事ながら、わが家も同い年の夫婦で友だち感覚、おおいに共感す。

 1994平成6年6月17日、村山リウ死去。享年91。
   著作:『源氏語のすすめ』・『源氏物語 ときがたり』・『わたしの中の女の歴史』、文化サロンで「源氏物語」連続講義を多数行う。また、役職多数。   

 

   参考:『私の歩いた道』村山リウ1985創元社 / 『はなやぐ老い』村山リウ1989人文書院 / 『私とつれあい』村山リウ1984人文書院 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社

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