幕府講武所剣術師範家の幕末~明治~大正~昭和、伊庭八郎・伊庭想太郞・伊庭孝
うかうかしてる間に今年も終わる。と言うことは、年始に能登半島地震に驚かされて早一年。それなのに現地は復興未だしという。かける言葉がみつからない。
そうした自然災害だけでも怖ろしく復興は困難なのに、世界をみれば戦争が起きている。それを見ながら食事していると時に、箸が止まることがある。
悪いニュース、非道いニュースはチャンネルを変え見なかったことにしたいが、そうもできず呆然と画面を見ていたりする。無事に暮らしている者はそれですむが、困難さなかにある人はきっと涙にくれている。
そんなことを思いながら『新聞集成明治編年史』を繰っていたせいか、何とも物騒な記事が目についた。
《 前逓信大臣 星亨凶刃に斃る 思ふが儘に怪腕を振るひ来たりし一代の梟勇も 剣客伊庭想太郞の利刃に一喘(あえ)ぎだもせず 》(明治34年6月22日時事)
星亨(ほしとおる)に興味があり、その非業の死は知っていたが暗殺犯・伊庭(いば)想太郞をとくに知ろうとしなかった。今回たまたま関連記事でその経歴、家族兄弟に興味をもった。
伊庭 八郎 (幕末維新期の幕臣)
1843天保14年、江戸。幕府講武所剣術師範・伊庭軍兵衛の長男に生まれる。
名、秀顕(秀頴)。
1856安政3年、講武所が創設される。幕府が設けた実践的軍事訓練機関。
八郎は文武にすぐれ、講武所、剣術教授方になる。
1864元治元年1月、21歳。将軍家茂をヶ一京語して警固して上洛、二条城へ。
5月、家茂に従い大阪に下る。
6月、池田屋事件のため京都へ引き返す。
1866慶応2年7月、家茂、大阪城で没する。9月、江戸に戻る。
1868慶応4年1月3日、戊辰戦争始まる。
遊撃隊士として鳥羽伏見を戦い負傷。4月11日、江戸開城。
八郎らの遊撃隊は水戸まで随行するが、のち脱走し榎本艦隊に投ずる。
沼津から箱根に出て新政府軍の後方を衝くが、敗れて片腕を失う。
11月、八郎、箱館に到着し、箱館の榎本軍に合流する。
1869明治2年4月20日、早朝より木古内で激戦。八郎、胸部に被弾し、再起不能の重傷を負う。船で箱館に送られ、箱館病院に収容される。
5月12日、八郎、五稜郭内で絶命する。享年26。
墓は東京中野区の貞源寺。右隣は弟の想太郞の墓。
著述:1864元治元年上洛日記『伊庭八郎西征日記』1928刊。
けやきのブログⅡ<2022.3.26幕臣-鳥羽伏見-沼津兵学校-陸軍少佐-『都の花』-漢学、中根淑>
伊庭 想太郞 (明治後期のテロリスト)
1851嘉永4年10月、伊庭想太郞、伊庭軍兵衛の四男(八郎の末弟)に生まれる。
八郎の死後、心形刀流十代当主となる。
四谷仲町に剣術や学問を教授する私塾・文友館を開き、また兵学校などに出張教授も行った。
雑誌発行や実業にも専念した(『伊庭八郎のすべて』)。
?年、旧唐津(佐賀県)藩主小笠原家の嗣子・長生(のち海軍中将)の家庭教師となる。
1893明治26年、榎本武揚が創設した東京農学校校長。
旧幕臣および旧静岡藩士が設立した育英黌から農学科を独立させ改称。東京高等農学校、東京農業大学の前身。
? 日本貯蓄銀行設立に参与。
1901明治34年6月21日、東京市役所にて*星亨を刺殺。
―――会議は午後三時頃に終わりたれば・・・・・諸氏は雑談を為しし居たり。然るに此時四谷区の前学務委員 伊庭想太郞なる人、入口の扉を排して室に入り来りたるが、其の服装と云ひ、立派なる紳士にして、一点怪しむべき處もなければ、居合わせたる人々は別に気にも留めざりしに、伊庭はテーブルを右に回りて星氏の背後に出づるや突然隠し持ちたる短刀を振りかざして、星氏の右肋部を二刀三刀刺し徹し、・・・・・伊庭は元来手練の老剣客なれば・・・・・不意を襲われたる星氏は之を防がん暇もなく・・・・・(6.22時事)。
―――伊庭想太郞の予審決定・・・・・被告は曾て東京農学校評議員、四谷区会議員、同区学務委員の職を奉じ、その後家塾を現住所に置きもっぱら青年の教育に従事し居りしものなるが、・・・・・収賄事件世上に暴露せし際より、本件被害者星亨は行動常に誠実ならず自ら収賄の犯行ありながら、反って法網を免れ・・・・・東京市の風教益々頽廃に傾きたり。・・・・・遂に同人を殺害せんと決意し・・・・・該所為は刑法第二九二條を適用処断すべき重罪なりとす・・・・・(明治34.7.27時事)。
―――伊庭想太郞に無期徒刑の判決。 東京地方裁判所・・・・・謀殺事件被告人・伊庭想太郞の裁判言渡しあるや、本社は号外を以て逸早くその大要を京浜の読者に報道したるが・・・・・主文 無期徒刑に処す。 差押への短刀一本は之を没収す・・・・・(9.11時事)。
1902明治35年4月、星亨殺害被告事件・・・・・傍聴人頗る多く、審問当時と同じ雑踏を見たり。判決。
「被告を無期徒刑に処す」
押収の短刀一本は之を没収す、其他の押収品は各所有者に還付とす公訴費用金三十円は被告の負担す(4.2時事)
1907明治40年10月31日、小菅監獄で胃癌で獄死。享年56。
生前、旧幕府史談会で八郎に関する談話を語っている。墓は東京都中野区の貞源寺。
星亨:1850~1901。政治家。
自由党幹部として活躍。明治25年衆議院議長となるが不信任案で議員除名されるも政友会の結成に尽力。第4次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任したが汚職容疑で辞職するも政友会院内総理として議会に隠然たる勢力を擁し、東京市会議長として力を振るっていた。
けやきのブログⅡ<2022.9.24明治時代の政治家・星亨、人とエピソード>
伊庭 孝 (大正・昭和期の俳優・演出家・音楽評論家)
1887明治20年、江戸剣客の家に生まれ、大叔父・伊庭想太郞の養子となる。
少年時代から文学・洋楽・邦楽に親しむ。
?年、同志社大学を中退して文芸および新劇の評論を執筆。
1912明治45年/大正元年、*上山草人と近代劇協会を旗揚げ。
新劇社、主宰。
けやきのブログⅡ<2016年.2.13明治・大正・昭和期の映画俳優、上山草人(宮城県)>
1916大正5年、アメリカ帰りの舞踊家・高木徳子と浅草オペラを興し、作家・訳詩家・主演俳優・演出家および支配人として大活躍した。
1923大正12年、舞台を去る。
音楽関係の著述と評論のかたわら本格的歌劇の上演につくす。
1927昭和2年、近衛秀麿・堀内敬三とラジオ(JOAK)で歌劇を放送し、自ら解説にあたる。わが国オペラ運動の先駆者となった。
1928昭和3年、『日本音楽概論』著す。
1933昭和8年、『オペラ史』
1934昭和9年、『日本音楽史』
1937昭和12年、伊庭孝死去。享年50。
晩年は大日本音楽協会常務理事として楽団の指導力となった。
著書:『日本音楽概論』 『シューマン』ほか約30。音盤集《日本音楽史》(パルロフォ、のちコロムビアLP)がある。
参考: 『世界大百科事典』1972平凡社 / 『新聞集成明治編年史』1992財政経済学会 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『伊庭八郎のすべて』1998新人物往来社 /
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