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2025年1月13日 (月)

明治天皇「御真影」写真師・丸木利陽 & 小川一真

 デジタル年賀がふえて紙の賀状が減っているそう。
 その賀状も家族中で写した写真も減っている。今は誰でも気楽に写真が撮れ、保存も印刷も簡単にできる。よほどの事がない限り写真店に出向かない。
 しかし、明治の初め頃は写真を撮る方も写される側も限られていた。

   ―――「小川晴暘・光三親子の祈り」「奈良 仏像写真・飛鳥園 特別展で紹介」(写真:新薬師寺金堂と十二神将・伐折羅大将像」)
・・・・・小川晴暘(1894~1960)の名を知らなくても、その写真を見ればピンとくる人は多いだろう。真っ暗な闇の中、光を浴びて浮かび上がる仏たち。芸術的な写真は切手などにも使われ、仏像の魅力を世間に知らしめた。晴暘が創業した仏像など文化財撮影専門の写真館「飛鳥園」・・・・・晴暘は兵庫県姫路市の生まれ。10代のころに画家を志して学ぶかたわら、明治天皇の「御真影」を撮影した写真家の丸木利陽に師事し写真技術を身につけた。・・・・・(毎日新聞2024.5.5)。

 御真影を撮影した丸木利陽を調べると、写真術の先駆者・小川一真と親しい。共に写真界のために行動している。その小川一真をブログ記事に書いたのを思いだした。
 と同時に、写真修行でアメリカ滞在中の小川一真とアメリカ留学中の柴四朗がボストンで邂逅、共通の友人たちと写真を撮っているのも思い出した。
 話ついでに、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』掲載の柴五郎と東海散士柴四朗の写真、撮影者は小川一真だろうか。

  けやきのブログⅡ<2016.9.10明治の営業写真家・印刷業者、小川一真>

     丸木 利陽    (まるき りよう)

 1854安政元年4月14日、旧福井藩士・竹内宗太郎(宗十郎との記述もあり)に長男に生まれる。
   名は惣太郎。幼くして同藩士・丸木利平の養子となり、藩黌を卒業。
 1875明治8年、弟の宗吉と福井を出、弟は青森、惣太郎(丸木利陽)は東京に赴く。
  ?年、写真師・二見朝陽・朝隈に写真術を学ぶ。
 1880明治13年5月、26歳。独立、新シ橋内の旧三条邸内(現霞ヶ関)に写真館開業。
     軍人・若手官僚、華族など顧客が増加。

   ―――丸木写真館も、始めから今日あつたのではない、丸木一家の大黒柱ともみなされて居る夫人駒子の勤勉奮励の功に帰する所が多い・・・・・嫁入り当時は丸木もなかなか困難で、充分な生計も立てられなかった。毎日主人が写せば夫人は女中となり、主婦となつて其の下役を一切勤めた、俗に云ふ夫婦共稼ぎをして今日の基礎を固めたのである、同業者山本写真店主婦の話に「あの方が・・・・・主人(丸木)が写した下仕事は勿論、受付から会計まで一切夫人のお役目であつた・・・・・」・・・・・(『袖擦百話』)。

 1887明治20年5月、嘉仁親王(大正天皇)が近衛師団を訪れた際の集合写真を撮影。
 1888明治21年、*エドアルド・キヨッソーネによる明治天皇のコンテ画を撮影。
   ―――この年、宮内省・文部省・内務省による近畿の宝物調査が、岡倉天心、フェノロサ、九鬼隆一などによって行われ、これに丸木利陽と並ぶ東京の高名な写真師小川一真が同行。多くの寺宝を撮影し、これをコロタイプで印刷した美術雑誌『国華』や『真美大観』(全20巻)を刊行、パリ万博にも出品・・・・・(『小川晴暘の仏像』)。

   エドアルド・キヨッソーネ:日本政府に招かれ大蔵省紙幣寮で紙幣・印刷・切手の原盤制作。明治天皇や当代元勲の肖像画を描いた。

 1889明治22年6月、丸木写真館(元三条邸)が国会議事堂の建設用地にあたるため、芝区新桜田町の新シ橋角付近(西新橋1-6)に写真館を移転して開業。以後、皇族や華族、実業家など社会的地位の高い人物を多く撮影。
   6月14日、鈴木真一(写真店・九段坂)、皇后を撮影。
   6月15日、丸木利陽、昭憲皇太后の写真を撮影。
 1890明治23年、36歳。第三回内国勧業博覧会に出品。三等賞。
   丸山作楽撮影、明治32年刊『涙痕録』(丸山作楽伝)に用いる。

 1894明治27年8月1日、清国に宣戦布告(日清戦争)。
 1895明治28年7月、41歳。この頃に朝鮮の仁川に支店を出すも閉店時期は不明。
   7月『征清凱旋之盛況 東京市奉迎』出版(国会図書館デジタルコレクション)。

 1900明治33年9月、立憲政友会創立(総裁・伊藤博文)当時の集合写真を撮影。
 1902明治35年、48歳。同郷の弟子、前川謙三がアメリカから帰国、丸木写真館の館主代理に就任(~1906)。前川はアメリカで学んだ技術を運営に活かしていく。
 1904明治37年~明治末、裕仁親王(昭和天皇)、雍仁親王(秩父宮)、宜仁親王(高松宮)などの幼少期の写真を撮影。
   2月10日、ロシアに宣戦布告(日露戦争)。
 1905明治38年5月、日本海海戦。8月、ポーツマスで日露、講和会議。
   
 1906明治39年9月、日本乾板株式会社を設立。小川一真らと資本参加。
 1907明治40年3月、「福岡同人の会合記念写真」撮影・丸木利陽(『文豪福本日南先生の十周年を追懐す』大熊浅次郎著)
   羽織袴で居並ぶ11名は、杉山茂丸・遠山満・福本誠(日南)・内田良平らでなかなか強烈な顔ぶれである。

   東京勧業博覧会―――丸木利陽氏出品の貴顕紳士の御写真は金襴の幕を張り之に皇太子殿下同妃殿下皇孫各宮殿下を初め奉り陸海軍大臣御肖像を掲けて「脱帽」と注意しあり・・・・・(東京勧業博覧会案内)。

 1908明治41年、*島田盤根翁延寿会―――二百余名の会員を整列せしめて撮影・・・・・技師は東都の写真界に第一流の称ある丸木利陽氏・・・・・(『島田盤根翁』)。
   島田盤根:明治時代の仏教学者。福田行誡らと「大日本校訂大蔵経」刊行。

 1909明治42年、55歳。日英博覧会に出品。
  ―――英国*コンノート殿下をはじめ暹羅(シャム。タイの旧国名)皇太子殿下韓国皇太子殿下 清国皇族等幾多外国貴賓の御用を蒙り今や名声遠く海外に及べり・・・・・(『大日本人物名鑑』)

   コンノート:1850~1942。イギリス、ヴィクトリア女王の第3子。1902陸軍元帥。日英同盟以後、三度も来日し柴五郎が案内役をつとめたこともある。

 1911明治44年、17歳の小川晴二(晴暘)、丸木写真館の内弟子となる。
   ―――小川は絵が好きで休日には師の許可を得て太平洋画会研究所で洋画を学んでいる。・・・・・やがて晴暘は若くして写真技術を認められ、天皇・皇后の写真を焼き付ける御真影調整係の主任となるが、1913大正11年徴兵検査を機に丸木写真館を辞す。師の丸木は小川晴二の腕を惜しみ、自分の名の利陽から「陽」の字を与え、晴二を「正陽」とさせるが、本人は写真家から離れ画家になりたい希望から、「陽」を「暘」に変えて「晴暘」と名乗る・・・・・(『小川晴暘の仏像』)。

 1912大正元年9月13日、明治天皇の大葬の模様や儀式前後の様子、関連する事物など複数の写真師で構成された謹写団の一人として撮影。
   10月1日、裕仁天皇(昭和天皇)、陸軍正装、海軍正装、陸軍通常礼装姿、9月9日、大勲位菊花大綬章を佩用した写真を撮影。
   雍仁親王(秩父宮)、宜仁親王(高松宮)も撮影。
   この秋頃、大正天皇の陸軍正装姿とガーター勲章を佩用した肖像写真を撮影。

 1913大正2年10月、宮内省調度寮嘱託員。黒田清輝・小川一眞・黒田清輝とともに任じられ、大正天皇、貞明皇后の御真影や皇族の写真撮影を担当。奏任官待遇となる。
 1914大正3年4月25日、昭憲皇太后の大葬の模様を写真撮影する。
 1915大正4年2月、小川一真、丸木利陽が設立に尽力した東京美術学校臨時写真科が設立される。
   丸木の弟子・前川謙三は「修正実習」を担当。
   6月、大正天皇の御真影を撮影。

   ―――黒田清輝の指導で小川一眞、丸木利陽が天皇を撮影し、東京美術学校内に臨時の写真科が設置された。・・・・・(『芸術受容の近代的パラダイム:日本における見る欲望と価値観の形成』)。

 1916大正5年11月3日、裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼の沿道などを撮影する。
 1917 大正6年11月、63歳。勲六等瑞宝章を授与される。

 1623大正12年1月21日、丸木利陽死去。 享年68。
   赤坂の報土寺に埋葬される。
   9月1日、関東大震災。その後の都市計画に丸木写真館もかかるため、その後、写真館も廃業。

 

   参考: 『皇族元勲と明治人のアルバム』研屋紀夫編1980吉川弘文館 / 『袖擦百話』矢野織重編1912東京滑稽社 / 『大日本人物名鑑』ルーブル社出版部編1921 / 『島田盤根翁』島田盤根翁延寿会1908 / 『東京勧業博覧会』1907精行社出版部 / 「芸術受容の近代的パラダイム:日本における見る欲望と価値観の形成」河原啓子博士論文2001 / 『奈良飛鳥園』島村利正1980新潮社 / 国会図書館デジタルコレクション

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