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2025年1月 6日 (月)

池袋モンパルナスの詩人・画家、小熊秀雄

 2025年令和7年、良い年でありますように。 
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 さて、2025令和7年は昭和100年! (1926昭和元年)
  明治どころか昭和も遠くなりにけり。
 ついでにいえば、平成生まれの孫は異星人。
 同じ日本で生まれ育ったけど、違う。その理由の一つにアナログとデジタルがありそう。

 AIとかデジタル機器はますます発展、進歩は止めようがない。そして変化が目に見えるのは人に限らない。街や駅の変わりようも激しい。
 しかし、変化をいちいち記録している訳ではないから、つい昔の事もわからなくなる。それを史料館・資料館などが保存記録し後世に伝えてくれているが、美術館や博物館に比べるとあまり行かない。でも東京池袋、豊島区立郷土資料館へはたまに行く。

 昨年「区制90周年特別展・豊島大博覧会~過去から学び、今日を生き、みらいに希望~」に行ったが休館だった。
 仕方ない、又来ればいいやと思ったものの忘れていたが、そのパンフレットが出てきた。

 みると、展示コーナー第2章は「池袋モンパルナス」。
 モンパルナスといえばモジリアニ! 画集を買って持ってる。大混雑の国立近代美術館でモジリアニ展を見た。白黒映画「モンパルナスの灯」は二回も見た。モンパルナスの一言で若い日が甦り、何とも懐かしい。
 それはさておき「池袋モンパルナス」って、何? 資料館パンフレットの記述によると、
 池袋モンパルナスの命名者は小熊秀雄という北海道出身の詩人、時代は大正デモクラシー。果たして小熊はモンパルナスに行ったがことあるのだろうか。どんな詩を残してるのだろう。

    小熊 秀雄

 1901明治34年9月9日、北海道小樽市で生まれる。
    早く母を失い父と樺太へ渡る。
    その後、父も喪い、少年から青年時代に北海道稚内・樺太豊原・泊居などを流浪し、伐木人夫などの労役をし職を転々として成長。

 1922大正11年、「旭川新聞」社会部記者になる。 
 1927昭和2年、詩誌「円筒帽」同人となる。
   小熊醜吉の名で詩作。
 1928昭和3年、上京。業界紙などの編集に携わる。
   今野大力らと働きながら詩作を続ける。

  ―――1930年代から1940年代にかけて、旧長崎町にアトリエ付貸家が建ち並び、多くの芸術家たちが暮らすようになりました。彼らは互いに往来し、ともに語り悩みながら制作します。 小熊秀雄は、池袋の地に満ちた雰囲気や空間を、フランス・パリのモンパルナス地区に集まった芸術家になぞらえて「池袋モンパルナス」と呼びました。これは、豊島区の都市化と文化芸術活動における注目すべき動向で、当区の大きな特徴となっています。・・・・・(「豊島大博覧会」

 1930昭和5年、世界大恐慌、日本に波及。産業界で操業短縮盛んになる。
   ―――池袋に住むようになってから、周りの画家たちに影響を受けて本格的に絵を描くようになった。自身では詩人といっていますけれど、詩だけではなく、童話、文芸や美術批評、漫画原案でも活躍した・・・・・
・・・・・言論弾圧が激しくなり小熊が得意とするプロレタリア詩の制作発表ができなくなってきていたので、違った表現手段を試み、その中に画業が含まれているのではないか・・・・・日々の糧(かて)を得るために絵を売るなどもしていた・・・・・(「かたりべ141」)。

 1931昭和6年、「プロレタリア詩人会」に加わり、詩を発表しはじめる。
   全日本無産者芸術連盟(ナップ)に加わる。
   プロレタリア文学運動退潮後、詩人としての才能を発揮、プーシキン、ネクラーソフ、マヤコフスキーらソ連詩人に影響され、学びながら口語・日常語を巧に生かし、諷刺のきいた長詩を多く残す。

 1935昭和10年、長編叙事詩「飛ぶ橇」前奏社) 『小熊秀雄詩集』(耕進社)出版。
   絵画<夕陽の*立教大学>油彩・カンバス。
   立教大学:1918池袋に移転してくる。明治中期から大正期にかけて東京学芸大学や成蹊大学が移転、自由学園創立など池袋・目白界隈は文教地区となる。
  11月、壺井繁治らの諷刺雑誌『太鼓』の同人となって、諷刺詩興隆の波にのり、詩風がようやく認められた。

   ―――かれはプロレタリア文学運動の退潮期に現れた詩人で、よく現実の重圧に耐えて<一九三五年代の民衆を代弁したい>(小熊秀雄詩集・自序)という意志を持って、非圧迫階級である<民衆との会話>という包括的な形で、饒舌な独特の歌いぶりで苦渋に満ちた社会的文学の最後の可能性を長編の詩に示した(阪本『現代日本文学大事典』)。

 1937昭和12年、日中戦争(日華事変)。
   池袋の喫茶店で個展を開く。
   ―――小熊の絵はナイーブで繊細、やさしげな、はかなげな印象があります。世間によく知られる社会に対抗するような詩とは相反する作品となっていますが、絵と詩に共通するテーマとして街の描写があります。詩で表される街は、小熊の悲喜こもごもの心情を重ねられる・・・・・一方、小熊の絵の街の描写は、カフェや街路、ランドマークになる建物、市中に生きる人びとが画題とでてきます。隅々を歩きながら、あちこちに目配せをして描いていたということが、たくさんのスケッチや水彩画からうかがわれます。

   7月7日、北京郊外で日中両軍の衝突(盧溝橋事件)にはじまる日中紛争。
   8月、第二次上海事変で全面戦争となり、日本軍の南京・武漢占領に国民政府は重慶に移り抗戦。昭和20年の日本降伏で終結。

 1940昭和15年11月20日、豊島区で病没。享年39。
   自身では詩人と言っていたが、詩だけでなく童話、文芸や美術批評、漫画原案などでも活躍した。もっと長く生きればさらに活躍しただろう。惜しい。
   没後、『流民詩集』出版。優れた抵抗偉人として再評価されている。ほかに『小熊秀雄全集』全5巻。別巻1。

 

     参考: 「かたりべ141」2022豊島区郷土資料館 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / パンフレット「区制90周年特別展・豊島大博覧会~過去から学び、今日を生き、みらいに希望~」 / 『日本人名事典』1993三省堂

 

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